第五部
穏やかな川のへりに腰を掛けた美しい女が、雅な男と話をしているのが見え、和やかな会話が聞こえてくる。
「荒魂の神は平気で荒れ狂う野分を起こす。お前のことも、私たちの命も生活もどうでもいいと思っている。儂はあの神が憎い。お前さんはあの山の神を慕っているようだが、あやつはしょせん神だ。短い生涯を持つ人間など、山の上を飛んで去ってゆくムクドリの群れとしか思っていない」
ギラリと目を異様に光らせる優男が、河原で水浴びをしているコダマに話かける。
コダマは自分の美しさを知らないのか、小袖の襟を大きく開け、真っ白の滑らかな肩をむき出しに、濡らした手拭いで拭いている。透き通るせせらぎに細く白い足を浸けその優男にバシャバシャと水をひっかけて朗らかに会話を続けている。
「蛙の御殿様はへそ曲がりよ!」
「ほほぅ、儂の無いへそを見たことがあるのか?」
「もう、おへそが無くてもへそ曲がり!」
二人は親し気に離しをしている。二人は顔なじみの様だ。
「山の神様が野分を起こすのは、山と人の為だって皆分かっているわ。野分が迫った時にどうやって生きてゆくかを人は学ぶわ。野分で崩れた自然は再生されて力強く蘇るわ」
「ほう、そう納得できるのか」
「そうよ。それに神様は人間を見捨てていないわよ。独りで住んでいる私にも野分を起こすから窟の奥に隠れているようにと教えてくれたわ。山の民にも知らせるようにと言伝されたわ」
「お前は勘違いしておる。山の神はお前を助けているんじゃない。美しいお前を山の奥に隠しているんだ」
「馬鹿なこと言わないで。山を下りて里に出れば危険だからと守ってくれているのよ」
「ふん! 何が守るじゃ。お前は人だ。木霊の精霊だからと山の民に嘘を刷り込み、お前を皆に信頼させ、容易にこの山から出られなくしているんだ」
「神様の声を里の人に私が伝えに行ったのよ。そうしたら皆が勝手に木霊って言い始めただけよ!」
「ふん、話にならん頑固者だ。全て神の思うつぼじゃ。いいか、お前を私が助けてやると言っている。そろそろ、奴が起こす巨大な野分が来る。この山にいれば、死んでしまうだろうよ。奴は非道だからな。だから、その前にこの山を一緒に出よう」
「私は、いいのよ。神様が私をムクドリの一羽だと思っていてもそれでもいいもの。野分で死んでしまっても、後悔もしないわ」
「お前が死んでも神は悲しまないが、儂は悲しむぞ。だからお前を嫁にして山を下りる。儂はそう決めた。お前もその方が幸せだ」
「幸せ?」
「お前があやつを好きでいても、天でも地上でも結ばれない」
コダマは思いつめたように黙り込んでしまった。
優男は天を仰ぎ、神を嘲笑うように微笑して見せた。
「さて、儂と共に生きよう。なっ?」
その言葉に、反応しコダマは素早く俯いた顔を上げた。だがその瞬間、優男の口から血のように真っ赤な舌が伸び、あっという間にコダマを飲み込み込んでしまったのだった。
優男の腹は膨れ、大蛙と大蛇を併せもった巨大な魔物の姿に変化した。
「コダマ、しばらく辛抱せいよ」
そう腹に言いきかせ、川に飛び込んだ。
巨大な蛙の影が水をうまく掻き滝つぼの奥深くへと消えていった。
緑映える山の風景。輝く水面。そこに今しがた居た美しい女の姿は無い。
俺は悲鳴を飲み込み、竦む足でようやく体を支えていた。手出しの出来ぬその幻影をただ呆然と見送った。
山の神が魔物の腹へ突き刺した刀を握り締めて、動けなくなっている。
神は人間のように初めて、愛情が裂かれた痛みに悲鳴を上げ、心から血を流していた。
***
鼻を付く生臭い水の匂い。腐った魚や果実、腐葉土、そして血肉の匂いに吐きそうになった。
その匂いで俺は、彷徨った幻夢から落ち、現実へと戻された。
父が水から上がってきた時もその饐えた匂いが纏わりついていた。生きる者のいない暗い水底を掻き交ぜた、匂いだ。
父がその纏わりつく匂いを「禍々しい」と憎しみを込めて言っていたのを思い出した。
神の宝刀、コダマの帯、父の携えていた刀と布に似ていた。様々な記憶が重なり合ってくる。
***
岩に凭れかかり、自分に起きた現象を必死に理解しようとしていた。
身体の奥が熱い。まるで自分があのコダマを飲み込んでしまったかのように体の奥が重く、心の奥はコダマへの執着心がくすぶっていた。
「チカゲ、さま」
耳の奥に張り付いたようにいつまでも響いている。
正気に戻りたい一心で、俺は頬を叩き気合を入れた。
岩穴に頬を叩く音が響くと、背後から少女の柔らかな声がそれを征した。
「ねえ、何しているの? 奥に入って来なさいよ」
振り向けば少女がおいでおいでと、手招きしている。雷鳴が轟き、暗闇が一瞬、発光すると細面の白い顔を映し出す。
少女は雷鳴に驚き、顔を歪ませている。たが、俺と目があえば、勝気そうに平常を装って笑った。そしてからかい声で言ってくる。
「まあ! 男の子が泣くもんじゃないわよ」
慌てて顔を拭えば、涙でぐっしょりと濡れていた。
先ほど見た幻夢が泣くほど苦しかったのだと再び感傷的になった。
いまだ治まらない感情が胸の中にくすぶっていて、急に恐ろしくなり、そこから逃げだした。
間違って祠に入り、狐にでもつままれてしまったのかもしれないと、転げるように飛び出した。
飛び出してから、しばらく山を走り、行く当てなど無かったことに気付いた。
一人で生きてゆかなければいけない現実が待っていた。
「強い男になれ」父の残した言葉が唐突に思い起こされた。
見た幻覚を恐れ、逃げ出すような弱い男では駄目だ、と父から叱られたように思えた。
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