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第四部


「どこにいった!」


導かれた闇の中で、突然荒々しい声が落ちてきた。

三年前の自分の姿が思い出される。父が去ったと聞かされた時、寺の住職に喚いた言葉だった。


だが今聞こえてくるのは俺の声じゃない。

酷い野分が山を荒らしている。苛立ちと怒りの感情を表すように野分は強くなる。

吹き(すさ)ぶ風にも臆することのなく、響き渡る男の声。


木霊(こだま)! どこへいる」


再び焦りと苛立ちが混じった声で言い放つ。


脳裏に映しだされる光景は見たこともない男の姿。

自然の驚異の中に佇む男の姿は、威圧的で他の物を無視できるほど貫禄があり気高い。妖狐のような美しい面立ちと均整の取れた体格。筋骨たくましい長身の男は人ではないのだと思わざるを得ない。


男は獣のように走り出した。

視界が一転する。いつの間にか俺は男の中に入り込んでいるようだった。


――俺は今、夢を見ているのか? それとも、俺がいる山で起こっていることを現実に体感しているのか?


低迷してゆく意識を奮い立たせ、自問自答を繰り返した。


必死に自分の姿を探すが、置き去られた自分の姿は見つからない。ただ、この移り変わる光景に心と身体が吸収されてゆくのだった。


鬱蒼と木々が生い茂る山を駆け抜ける疾走感。悔しさと焦り、そして愛おしさ。男の感情までもが流れ込み、胸がかき乱された。


木々が迫り、男を避けてゆく。泥と緑をかき混ぜた濃い匂い。


不意に、石が幾重にも積み上げられた景色が見えた。誰かがそこで、日々、祈りを捧げたかのような、石の塔。

その横で男は足を止めて、辺りを念入りに見渡した。


果実の匂いが漂っている。先程岩穴に飛び込んできた少女の香りに似ていた。俺と男の感情が混同し始め、男の意識に引き戻された。


胸が塞がれ苦しくなる。


「木霊、いないのか!」


叫ぶ男の声に感情が覆いかぶさってくる。


破滅的な感情。

境界を越えられない切なさと、奪われたくはないと、隠し、囲ってしまったことへの懺悔。


この感情がどういうことなのか、俺にはわからなかった。だが、男が積石を見ながら思い出す光景が、その感情の意味を物語っていた。


「こ、木霊……山をおりたのか?」


男は悔し気に石の塔に声を掛けた。

すると甘い香りが濃くなり、言葉を紡いでくる。


「山の神様……。今日も無事にすごせました。ありがとう」


女はそう言うと、石を積み、甘い匂いの果実を一つ供えた。


「今日は山菜がたくさん取れました。私の大好物よ。美味しく炊いたので食べてください」


「今日は冷え込みます。お体を大切にしてください」


「山の民に薬草を渡してきました。あなたのお声を聞いた通りに煎じたものです。私の風邪もその薬ですっかり良くなりました」


「今日は朧月夜です。あなたもこの月を眺めてらっしゃいますか?」


「妹を素敵な方に嫁がせてくれてありがとうございました。これからは私一人です。寂しくなります。だから、どうぞ時々お顔を見せに来てください」


「庵の前の枝に、黒い美しい着物と羽衣のような白銀の帯が引っかかっておりました。あなた様が置いた物でしょう? 私の擦り切れた着物を見かねたのでしょうか?」


美しい女が黒い着物に白く輝く帯を身に着け喜びに目を潤ませている。


どうやらこの女がコダマなのだと俺は気付いた。

その女の日々の光景――。


山奥に咲く白百合のような美しく若い女。その頼りない細腕でたった独りで、この山奥で生活しているようだった。

男の脳裏に映し出された光景の中でコダマという女は微笑んでいる。

神に話しかける女の心の声を聞くことを許されるのは、この男しかいない。


女の微笑みに、男は愛おしさを滲ませた。

神の慈悲を越えた、女への特別な思いを秘めた感情が押し寄せてくる。






不意に積まれた石が、風雨に打たれカタカタと崩れ落ちてゆく。

男は女の面影を振り切るとまた辺りを見回した。

眉を顰め、切れ長の目を眇め木々の隙間を睥睨している。

重なり合う木々の梢のその先まで透視しているのか、視えた景色に身体を硬直させている。


「くそっ! あの(かわず)か」


男は再び走りだした。野分もひどくなる。木々がしなり、泥沼の水をさざ波だてる。男が沼へ近づけば、沼は土砂に埋まってゆき、蛙たちは鳴きながら一斉に逃げて行くのだった。

気性を反映したように、黒く染まった天を稲光が裂く。横殴りの雨に木々が擦れ耐えきれぬものは折れてゆく。獣や鳥たちの姿は見当たらない。山は閑散として無垢な姿をさらしている。


男は獲物を狙う獣のように山を駆け抜けた。そして先に現れた渓谷にむかって咆哮のような雄叫びを放った。


(かわず)の化け者、木霊をどこへ隠した!」


男は蛙に怒りを露わにしている。蛙を以前から厄介者と思っていたのか。こんなに神を狂わすほどのコダマという女は、どの様な女だったのか。俺は見ている光景を必死に理解しようとした。


稲妻が落ち、木々が燃え、逃げてゆく蛙たちの行く手を阻む。

渓谷の滝の下から蛙の鳴き声が不気味に聞こえてくると、男は山肌を飛ぶように駆け抜け岸に降り立った。


俺もまた女の匂いを感じて身体に震えを覚えた。

体が熱い。煮え繰り返る感情が噴き出す。

孤独に暮らす女の危機は誰にも見咎められなかった。神以外は。


男は握った剣を天に掲げ空を操った。自在に稲妻が落ち、男の身体を抜けては男の身体を強靭に作り上げてゆく。

男の湧き上がる闘志は制御できない。


滝つぼの奥から、「うぉぉぉぉ~」と低く唸る牛蛙のような鳴き声がきこえ、山肌にぶつかりこだまとなり反響している。


化け物の声もまた憎しみを孕んでいる。


男を呼びつけるように滝つぼから聞こえ、滝つぼは白く粟立ち始めた。

男は臆することなく、すぐさま飛び込み、気泡を舞い上がらせた。

雷に焼かれた刃は水中でジュウジュウと音を立てている。


ぎょろりと光る目と目が合った。

挑発的な笑いを浮かべる蛙の化け物が、大岩のような巨体で奥へ奥へと逃げてゆく。

男は逃がすまいと、逆流する水を蹴り飛ばし化け物に向かっていった。


魔物は神にかなうはずもなく、すぐに捕まった。


「おまえが木霊に惚れていたのは知っている。木霊をどこへ隠した」


蛙の化け物は答えない。


「答えないのなら、答えるまで、杭止めて置くぞ」


情け容赦なく、男は一気に魔物の身体を刀で突いた。刀は魔物の腹を貫通し岩まで突き刺さる。岩壁に男の背を優に上回るほどの巨体を押し付け刃で杭を打った。


蛙の化け物は苦痛も見せず、抵抗することもない。むしろ勝ち誇ったような薄笑いを浮かべながら言う。


「お前の起こす野分で住処や仲間を奪われた。女はお前の凶暴さに恐れ慄き、(わし)と逃げると言ってついてきた。儂らの命は儚いからな。お前と違って」


暗く虚ろな魔物の声が耳に残る。

森の奥で、寂しそうに手を振る女が見える。

男の心は騒めいている。

男はコダマに出会うまで、人の姿を『寂しそう』などと感じたことは無かったようだ。なぜとそう思うのか? なぜコダマを、人の女を助けてあげたいと思うのか?

崇高な神が、人の女に抱いた狂おしい感情に翻弄されている。

神と人の存在の隔たりを質し嘆いている。


「儂と女はその儚い運命を添い遂げた。お前にはわからないだろう?」


神は握る鞘に力を込めて、憎さそのままに魔物の腹にグイグイと刀を押し込んだ。

だが食い込む刀を握り締めた手が、とたんに酷く震え出した。

目を見開き、鞘をじっと凝視している。


押し込んだ刃から脳裏に伝わる違和感に息を飲み、手を放すことも出来ないでいた。


「自然も儂らも、そして人の命も容赦なく奪うお前には、悲しみなど生まれないはずだろう?」


神は有無も言わず魔物の脳天に雷を落とし黙らせた。魔物の首がだらりとし、体は水に揺れ出した。


「木霊……」


刀を握り締めた手が鋼のように固まり、まるで刀と同化したように動かなくなった。

神でさえ、時に抗うことはできない。

自分の犯した失敗に打ちのめされている。怒りと後悔に飲み込まれて動けなくなっていた。






握った刀から聞こえてくる……。


「――チカゲ様」


コダマの名残りの声が胸の内で反響する。

何度も何度もこだまするように。






















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