第三部
あれだけ大切にしていた、宝刀を父は手放した。
俺を寺に預け、宝刀を俺に託し出て行ったのだ。
父と言っても血の繋がらない親だ。歳も一回りしか違わない。
寺の縁の下で寝起きをしていた浮浪児の俺が寺に押し入った悪党を木刀で挑んだところ、剣豪の父にその話が伝わり、俺を引き取って後継者として育ててくれた。
二人で各地の道場を渡り歩き、修行をしていた。そんなある日、突然山中で数人に挑まれ、父は川に落ち流された。そうしてその翌日、挑まれた戦いもすっかり忘れた上、俺の心配もせず、意気揚々と俺の元へ帰って来た。
流れ着いた滝の落ちる川底で宝を見つけたと喜び、目を輝かせていた。戻って来たばかりだというのにその足で俺を連れ、その川に引き帰す始末だった。
その宝とは鋭い銀の刃が神々しく輝き、柄は金で装飾されている刀なのだという。鋭い半身を岩にのめり込ませているため抜けないらしい。
父は日に日に刀への執着が強くなっていった。まるでもう一人の人格が備わったかのように変貌していった。
修行や勤めの傍ら、思い立つと川へ赴いた。
刀に思いを寄せてから、剣豪と名を馳せる父の険しい顔つきは、穏やかになっていった。己を立志させる厳しい眼差しは、いつしか陰をひそめ、愁いを帯びるようになった。
夏の間は川に潜り、冬に滝が凍りつくと、宝刀との別れを惜しみ辛そうに山を下り、道場で剣術を教えた。
冬の間宝刀は、父の手によって氷の檻の中に保管されたように思えた。誰にも取らせないように、または宝刀を守るために。
そうして、季節が過ぎて行った。
その夏も父は潜った。日照りが続き、川は浅く滝は枯れた。
山里の住民が歌う、雨乞いの歌が風に乗って川岸まで降りて来た。
日暮れのこわい川嵐。
蛙鳴き声奪い去り
黒雲を連れてやってきた。
雷ゴロゴロ天の上。銀色の神様見ております。
波打つ木立がさわさわと姫様探しに参られた。
あわれ姫様こたえておくれ。
羽衣揺らし答えておくれ。
山彦呼んで答えておくれ。
数日後、雨乞いが叶ったのか、野分になった。
歌の通り、蛙の鳴き声が一斉に止み、黒雲が現れ天から豪雨と稲妻が落ちた。
豪雨が川面に打ち付け、飛沫を上げ、流れは濁流になりうねりを上げていた。そんな天候にも関わらず父は潜るという。俺は対流に飲み込まれたら溺れるだろうと思い、必死で止めたが、父は天の仕打ちに挑んむかのように川へ入って行った。
俺は、ずぶ濡れになりながら、しばらく川岸に腰を下ろし戻ってくるのを待っていた。
だが、いくら待っても息継ぎにも上がってこない。俺はとうとう死んだのかと思い、山に響き渡るほどの大声で、父の名を叫んだ。
幼い俺にとっては大人が必要だった。何より優しく男らしい父が好きだった。何度も叫び、戻って来てほしいと神に願った。
すると、濁った滝つぼの底にギラリと光りが横切った。それがだんだんと俺に向かって近づいてきた。
近づく影は鮮明になり、父の姿を映し出した。浮上してくるその手に薄く揺らぐ蒼い光を携えていた。
その光は狐火の様で、なんとも不気味だった。
上がって来た父は念願の刀を手に入れたにもかかわらず、肩を落とし項垂れていた。刀を握りながらも「手に入らなかった」と脱力し岸に上がった身体は、脆く泣き崩れたのだった。
宝刀を岸に投げ捨て、もう一方の手に握られた、薄い布に頬ずりをして。その薄い布は、汚れ、藻が絡まっていたが、蜘蛛の糸のような繊細な輝きを保っていた。
その布の控えめな美しい光沢に、先程の水底の光は刀ではなく、この布の輝きだったのではないかと思った。そして頬ずりする父の見たこともない女々しい姿から、この布に何か呪いでも掛けられているのではないかと思えてならなかった。
雨音と風雨に木立のしなる音、轟く雷鳴、それにも負けないほどの男のかすれた嗚咽が渓谷に響き渡っていた。
俺は幼く現状の理解など出来るはずもなかった。
男泣きする父に彼も人間なのだと情けもかけられなかった。
どうしたのかとも尋ねなかった。
男らしかった父から、感傷的な言葉を聞きたくなかった。
そうして、次の日には山を離れた。
だが、それ以来父の頭の中が分裂を起こしてしまったようだった。
負け戦を負った武士のように父は刀を寺に納め、山伏になると出て行ったまま行方知れずとなった。
俺は僧侶になりたいわけでもなく、寺に厄介になるのも申し訳なく思い、元服を迎える前に寺を出た。
宝刀を携え、山に入り父を探した。出会えるはずはない、死んでいるに違いないと思ってはいたが、気持ちの区切りを付けたかった。
父は俺の唯一の理解者だった。俺も父の唯一の理解者となりたい。だからこそ、いなくなった理由を聞きたかった。
俺は当てもなくいくつかの山を巡った。
宝刀を手にいれた山は、どこの山だったのかも覚えていなかった。寄る辺もない身の上で金もなく、目の前にそびえる山を前に、この山を最後に都へ赴き金を稼ごうと決心した。
夏の終わりの蒸し暑い日だった。咽る緑の匂いになぜか懐かしさを感じ心が浮き立った。そして吸い込まれるように山道に入っていった。
この山に父がいるかもしれないとなぜだか期待まで募らせた。
夏の天気は変わりやすく、大きな雲がそびえ立ち、強い日差しが照り付けていたかと思うと、瞬時に青かった空が真っ暗になり、ざぁっと山を洗うような豪雨になった。
頭上を覆う木々も役に立たない程の雨に、岩穴を見つけて、俺は逃げ込んだ。腹もすき、携える刀も少年の俺には重かった。
歩き疲れ、そこでしばらく座り込んで雨を凌いでいた。
岩肌を滴る雨垂れに手を伸ばし、手の平に水を溜めて顔を洗った。降り注ぐ雨を眺めれば、泣きくずれた父の姿が嫌でも脳裏に浮かび、頭を振った。
雨脚は弱まらない。物思いにふけりながら、俺はだるい体を岩に凭れかけていた。
その時だった、下草をバサバサと蹴散らす音が聞こえたかと思うと、瞬時に女の子が岩穴に飛び込んできた。
俺は飛び込んでくる眩しさに目を細めた。まるで目の中に一直線に日が差し込んできたかのような刺激に瞼を強く閉じた。
五感が研ぎ澄まされ、雨の匂いに交じり甘い匂いが鼻を付いた。
暗転し脳裏が蒼く点滅する。とたん、女の子ではなく猪にでも突き飛ばされたかのような衝撃を感じ、よろめく体を必死に支え、岩に押さえつけた。
瞼を閉じたまま、呼吸を落ち着かせるが、気分が酷く悪くなった。
点滅が収まれば暗闇に落ちてゆく。
そして何かがじわじわと体に入り込んでくるのだった。
既視感と数多な感情と見たこともない光景が体の中でとぐろを巻いた。
苦しくて泣きたくなる。はたまた幸せな気分にもなる。
そして、女の人の優しい声に導かれた。