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第二部


夏の終わり。野分の近づく暑い朝。

人知れず私はこの山から去った。






魔物は私をどこへ連れて行こうというのだろう。

ぎょろりとした濡れた瞳と眼があった瞬間、この暗闇に閉じ込められた。光と影の織り成す世界で私は影の世界に落ちてしまった。


美しい川のせせらぎは聞こえなくなり、狼狽するのも遅すぎた。

ここはすでに山の境界を越えているに違いない。それでも奪われたものを取り戻そうと、私は必死にもがいた。もがけばもがくほど魔物の()えた匂いが身体に纏わりついた。


――いやだ!


私は脈打つ魔物の体内で暴れた。山に戻るために。

あなたから貰った美しい帯が、もがいた体と共に揺れていた。暗い水の中にいるような揺らぎに合わせ、鳥の羽が光に反射するように帯はきらきらと発光いている。

暗い水底から放たれる輝きを、あなたが気付いてくれるかもしれないと、往生際も悪く願っていた。






***






真っ暗だ。夜闇の中で目が覚めた。

頭が霞み、虚ろなまま、闇をじっと眺めていた。目を凝らし浮かび上がってくる物の影を待った。


起きたらすぐに囲炉裏に火を灯して、それから今日は山菜を取りにゆこう。そんなことを考えながら黒い空間を見詰めていた。でも、闇は闇のままだった。

足も体も頭も動かない。声も出せず、そして何も聞えなかった。

私ははたして人の姿をしているのだろうか?

そう思わざるを得ない程伝わってくるものが何もなかった。

途方に暮れながらも、必死で記憶を掘り出し、この理由を見つけ出した。






川辺で魔物に捕まった。

最後は必死にもがいていた。手も足も動いていた。心音は響いてくる。でも、私の身体がどこにあるのか見つからない。


そんな絶望的だと思われた中、光が差した。一か所だけ意識が伝わる所があった。そこになんとなく浮遊感を感じることができた。その僅かな感覚を辿り導かれた先は、たぶん……利き手である右手なのではないかと思った。


記憶と感覚を合わせ思考した。

魔物と共に沈んだ先はたぶん川底。ならば、今感じているその浮遊感が導く揺らぎは水なのだと思い至る。冷たい感覚は底を這う水が手を撫でているのだろう。

残っていた右手は、手の平にひらひらと煽られ皮膚に当たる物を感じ取り、そして僅かに動かせた。

手なのだと思い込むと、記憶が微かな痺れと、冷たい刃の感触までも右手に与えた。それに感じ入ればドクンドクンと鼓動が大きく打ち始めた。


――今日はいつなのだろう……。


孤独の息苦しさと解放感は紙一重ということは山の暮らしで十分味わった。でもここには解放感などない。息苦しさを癒す自然がない。ただの暗い箱。その中に閉じ込められ出口さえも見つけられない。

出来ることは、唯一感じる右手を、日々研ぎ澄ますことだけなのだ。


課せられた試練のように私は右手で暗闇を探った。

そうして次第に右手が色々なことを伝えてくれるようになった。

水の流れの変化があった。それに『時』を感じた。

私は、誰かに問うことも、教えられることもなく、想像の中に世界を築き上げていった。


ふわふわと流れる水が冷たくなったり、温かくなったりする。

それが夜と昼を表しているのだろうと思い描いた。

また時折、コツン、コツンと何かが当たる感じがして、考えあぐねた。そして時にはさらさらと柔い何かが、撫でてゆく。水底にいることを悟ればやはり、『魚』か、もしくは『水草』なのかもしれないと思い至る。コツンと当たる回数が増えたらそれは春だ。魚が動き回りお腹を空かせて餌を突くように右手を突いているのだろう。反対に全く突かない時はきっと魚も眠る冬だ。

私は暗闇の中で季節の移り変わりを想像した。山の四季は宝箱を開けたように彩りに溢れていた。思い出の宝物を、一つ一つ並べ、この唯一の手の平で感じた季節に重ねて懐かしんだ。

そうやって水底の風景は美しいものに変わってゆくのだった。

水温の違いや水流の変化にも敏感になった。


大きな揺らぎの水流に煽られ、砂がチリチリと当たる感触。そんな時は野分を想像した。

野分を思えば、やはり感情が高ぶった。


魔物に抗えなかった、夏の終わりの日。

「もうじき野分が来る」そう告げられ、束の間の日差しと水浴びを楽しんでいた。私が消えた後、すぐに野分が山を覆いつくしたのだろうか。山の神は神秘の力で風や雨、雷を操ったのだろうか。

私はあの日、岩穴へ隠れるはずだった。


地上に思いを馳せれば、一瞬、手に光を感じた。目など見えず光を感じるはずなどないのに、明るくなったと脳が感じ取るのだ。同時に稲妻が爆ぜたような振動が手に伝わってくる。僅かな痺れが手に当たると、ぼやけた光景が脳裏に明滅した。

息を飲む。喉が痛くなる。切なさから呟きが漏れた。


「……チカゲ、さま」


魔物になった(かわず)に捉われ、水底に沈んでゆく私は、魔物の腹の中で雷鳴を聞いた。唸る神の声も聞いた。そして刃となった雷が魔物とその中にいた私を穿った。私はその貫いて来る刀にそっと手を当てた。その刃から伝わるあなたの存在を感じることが出来て私はうれしかった。


瞳に最後に映ったのは、突き刺さる刃が放つ蒼い光。森の色を思わす美しい光だった。


――私のことを探しに来てくれて、うれしかった。


あの日から、季節が何回過ぎたのかもわからないまま、水底に沈んでいる石のように私はここにいる。

あの刀から伝わったあなたの感情を知り、私は未練を募らせた。私はきっと、あの光によってここに閉じ込められたのだ。でも、あの光も、もうすっかり色あせてしまった。なぜ、いつまでもこのままなのか。置き去りにされたままならば、水に溶けて無くなってしまいたかった。


私は残った身体を壊すために、必死に右手を動かして酷使した。






だがある日、手に当たる水の流れが急激に変化し、右手に強い衝撃が走った。

距離感のない私は、あまりにも突然現れたその感触に心臓が止まるほど驚いた。


不意に、生温かい熱が触れたのだった。


それは、皮膚の感触にも似ていて、私は混乱した。手のひらから次々と伝わる感触に私は狼狽えた。

私の右手を包み、乞うように握ってくる……手があった。

それは確かに血潮が流れる懐かしい人の手の温もりだった。ごつごつとした手の平が右手の皮膚を摩る。冷えている指先が円を掻くように手の平を細く撫でるのだ。

そして手よりもずっと柔らかで熱を感じるものが、何度も触れてくる。水の中で感じるはずのない熱い吐息と一緒に。


――誰?


見て確かめたい。魚でも蛙でも水草でもない。


――この人は……チカゲさま?


山で過ごした日々が走馬灯のように蘇る。

病に伏せた私の手をあなたが握ってくれたことがあった。あの時、熱に侵され苦痛に悶えていた私の傍に、寄り添う圧倒的な存在感があった。強く手を握られれば、その苦しさが遠ざかり、安らぎが戻ってきたことを思いだす。

あの時と同じ感覚が、今、伝わってくる――。






***






月日が存在しない私に、あなたは明確に時を示してくれた。長い月日、何度もあなたは私に会いに来てくれた。そうして私の手を握るあなたの手は、時を追うごとに、だんだんと力も無くなり骨ばっていった。そして、いつしかあなたは現れなくなった。


彼が現れなくなった理由を想像し、胸が軋んだ。


彼は寿命を迎えたのだろうか。それならば私は神より長く生きるのかと自分に失望した。

もしかしたら、まだ魔物は朽ちてはいなく、彼を襲ったのではないだろうか。もしくは、やはりただ水底に揺れる私のことはもう、あきらめ捨て置いたのだろうか。


私は再び、孤独の時を揺蕩った。そしてあなたを憎むようになった。

いなくなるのなら、どうして現れたのかと。悲しませないでほしいと。






それなのにまた、時を経てあなたは、以前と同じように現れた。

年月が重なれば、彼の手は肉が落ち、骨ばった。

老いても私の右手を握る彼の手の力は強かった。私は愛しさのあまり、少しだけ力を入れて僅かに握り返してみた。彼は私の指が動いたのを感じ取ってくれたのか、大いに喜んでくれた。彼の歓喜がひしひしと手に伝わってきて、私も秘めていた想いを露わにするかのように、必死に彼の手に縋りついた。


秋の終わり、もう水が冷たいというのに、あなたは傍へやってきて、細く武骨な手で私の手を頬に当て、口づけを落としてくれた。だが、初めて現れた時とは比べものにならぬほど、彼の手は弱々しくなっていた。触れる指先は枯れ枝のように軽く、私の手の上にそっと置かれたまま、彼は動かすことをしなかった。


水の動きが、――泡の動きが止まった。


どうしたのかと心配になっても、見えず、聞こえず、救うことは出来ず虚しさが募った。

水の中で彼は、呼吸ができないだろう。誰か彼を助けてほしい。

私の叫びを拾うものは誰一人としていない。

彼は水の中に留まったまま、地上へ浮上しなかった。


冷たくなった指がぽろりと数本私の手から離れてゆく。それでも一点だけ皮膚に留まる感覚を残した。

一本の指が触れたまま、しばらくの間手の平に残っていた。


私は彼に縋ったことを、浅はかだったと後悔した。


――ごめんなさい。


私は彼の訪れる意味をようやく理解できた。


彼は神を捨て、何度も、何度も命を宿し、人として生きているのだと。神ならば、命は尽きない。こんな水底で命は落とさない。

山の神は私を忘れてはいなかった。やさしい彼は私を守れなかったことに懺悔をしているのではないだろうか。彼は私に許しを乞いに何度も現れるのかもしれない。






時は無情に過ぎた。

私はもう、彼の訪れを望んではいなかった。


しかし、再び気泡が手の上を転がり、ピリピリと稲妻を感じ始めた野分の頃、またあなたが現れた。

水の中であるにもかかわらず、手に涙がつぅっと伝うのを感じた。温かい一滴の水が手に伝ったのだった。


――山の神様。私はあなたをお慕いしております。

気持ちを整理し、思いを告白し、別れを覚悟した。


私はもう、手を握り返さなかった。握り返せばまた彼はやってくる。

潜ってくる男の手はまだ若い。ここに通い、私の救出に執着する彼を解放してあげたかった。

ひらひらと水に煽られる私の右手を彼は何度も摩る。もう一度握ってほしいと懇願するように。

反応しない手に苛立ち、そのうち摩るのをやめ、右手を手放した。


諦めたのか、そう思ったとたん、右手に砂がバチバチと当たり、水の動きが激しくなった。


――さようなら。ありがとう。さようなら、チカゲ様。


浮上してゆくはずの彼に、私は闇の中で声を張り上げていた。


だが、砂は舞ったまま、落ち着くことは無い。むしろ、さらに勢いを増して強く手に当たってくる。水は激しく渦を巻いているように思えた。


――彼は何をしているの?


時を遡り、水底に魔物と共に横たわる自分の姿を思い描く。

魔物の身体は朽ち果て、私の体は……、刀は……どうなっているのだろう。

彼は自分の刀を持ち帰ろうとしているのかもしれない。

暫くして渦を巻く水の動きが緩やかになった。とたん、不意に私の手が力強く握られた。手と手の間には温かいぬめりがあった。熱を持つ彼の手から血潮の疼きを感じた。皮膚が裂けているようだった。だとすれば、感じたぬめりは、きっと彼の血にちがいない。


――手の皮がむけるまで……何をしたの?


刀を手に入れるために傷を負ったのだろうか。手に入れることが出来たのならば、その刀を持ってまた神として天上人にもどってほしい。

もう、手を握らないで。はやく立ち去ってほしい。


――でも本当は置いて行かないでほしい。私も開放してほしい。またあなたに会いたい……。


私は矛盾する気持ちと葛藤した。


握られた手の指が名残惜しそうに手の甲を摩ってくるが、絶対に摩り返すことはしなかった。

躊躇いを含ませ別れを惜しむように感じるのは、私の過ぎた思いのせいだ。


動かない水流が時間の経過を告げてくる。またあの時のような不安が押し寄せてくる。前の彼のように死なせはしない。


――はやく!


そう言い放った途端、不意に水がすっと、横に裂かれ、同時に手綱を放された解放感と浮遊感を感じた。


――別れの時。


しかし私の手は、ずっとあなたの手に繋がれたままだった。






***






あなたの手に絡みつき、水に揺れ、気泡を纏い上昇する右手に、私自身がついて行く。


――不思議な感覚。


山の声が聞こえてくる。山の緑の匂いが胸を締め付けてくる。

懐かしさと切なさとこらえきれない嬉しさに私は泣いていた。


――助けてくれたの?


そうして、水に揺らぐ陽の光の温かさを感じた瞬間、私は外へ弾き飛ばされた。同時に彼の手の温もりも手放してしまった。


飛ばされた私は、また水の中だった。

しかし水底ではない温かく仄明るい水の中にいた。

そして意識がそう覚醒した直後、私は光の中に落ちた。何年も遥か昔に感じた日差しと清々しい緑の匂いと人の温もりに包まれていた。


温かい手が差し伸べられその手指の一本を力いっぱい小さな手で握りかえした。

そして「クク」と私を呼ぶ優しい声に縋りついて泣いていた。






















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