008 愛の女神様 壱
こっくりさんの事件から一夜明けた。
心身ともに疲弊していても学校はちゃんとあるし、二人はちゃんと出席をする。
探偵業をしながらも、学業はしっかりこなす。それが二人の決め事だ。
茨はうつらうつらと舟を漕ぎながら、好はぴんっと背筋を正してしゃんと授業を受けている。
こっくりさんは無事に解決した。けれど、二人の仕事はまだ終わった訳では無い。
愛の女神様。その正体を暴き、安心院五十鈴を開放しなければいけない。
大藤教諭に情報収集をお願いしてはいるけれど、それもいつになるか分からない。
最初は学校生活に慣れながら様子見を、なんて思っていたけれど、昨日の一件を見てそうも言っていられないと判断した。
美々花には狐、それも山神が憑いていた。
普段の様子は知らないけれど、明らかにその様子は異常であり、目に見えて疲弊もしていた。
直ぐに直ぐどうにかなった訳では無いだろうけれど、それでもあまり猶予は無かっただろう。あれだけ唸って暴れて、恐らくはまともに食事も摂れていなかっただろう。
そんな状態が何日も続けばいつかは事切れる。
幽霊に憑かれると言っても、その強弱はあるだろう。
幽霊に憑かれて身体が不調になったり、周囲で怪現象が起きたりもするだろう。酷くなれば謎の発疹が出たり、不明熱に侵されたりなどもするだろう。
そういうのはよく聞く話だ。
しかし、美々花のそれはよく聞く話のどれにも当てはまらなかった。
とり憑かれ、自我までも押し込まれていた状態だった。でなければ、歯を向き出しにして唸ったりはしないだろう。
その姿を見て、好は愛の女神様との差異に真っ先に気付いた。
愛の女神様は安心院五十鈴に憑りついている。恐らくは、安心院五十鈴の自我を抑え込んでいる。にも関わらず、安心院五十鈴の体調に変化は無い。
とり憑かれ、あまつさえ自我までも抑え込まれているという状況であるにも関わらず、美々花の時のような変化が無い。
霊体としての差なのか、それともまた別の要因があるのかは分からないけれど、それでも愛の女神様が異常な存在である事は確実だ。
催眠状態とは違うだろう。何せ、霊的な違和感を好と茨の二人が覚えているのだから。明らかに、何かがとり憑いている。
何か絡繰りがあるのか、それとも、もうすでに安心院五十鈴の自我は無いのか……。
いや、自我が失われる事は無いだろう。何せ、愛の女神様は受け継がれるものだ。三年生が一年生に受け継いで、更にその一年生が三年生になった時に一年生に受け継ぐ。
愛の女神さまが現れてから十年、そういう風に受け継がれてきた。
卒業した元愛の女神様は今も普通に暮らしているだろう。誰かが死んだとも聞いた事が無い。
そう。とり憑いているにしては愛の女神様はおかしいところが多いのだ。
その仕組みを解き明かさない限り、安心院五十鈴から女神様を取り払う事は出来ないだろう。
授業が終わり、お昼休み。
くわぁっと大きく欠伸をする茨は、ぽけーっとした様子で机に頭を置く。
「眠みの極地……」
「もっとしゃんとしろ。俺まで眠くなる」
言って、好は缶コーヒーを呷る。勿論、ブラックである。
「そう言えば、さっき連絡あったよ」
「誰からだ?」
「クレア先輩」
「本当か?!」
「うん」
茨の口から出て来た名前を聞いて、好は気色の乗った声を上げる。
クレアとは二人の先輩であり、またオカルト関係に詳しい――というより、オカルトが大好き――な人物である。同じ学校に進学しており、学年は一つ違いの二年だ。
「という事は、調査の方が終わったという事で良いんだな?」
「多分ね。終わったってメッセが来ただけだから。ほら」
茨はクレアとのトーク履歴を見せる。茨の言う通り、そこには淡白に終わったとしか書かれていなかった。
「今すぐ会えるか聞いてもらえるか?」
「もちもち」
たたたっと素早く文字を打つ茨。
なんでも良い。少しでも良い。何か手掛りになる情報さえ得られればそれで良い。
逸る心を抑えつつ、クレアからの返事を待っているその時、教室がにわかに騒めいた。
横目で一瞬騒めきの理由を確認する好。
ただ確認するために視線を向けた。けれど、その目は驚愕に見開かれる。
その者は悠然と教室を歩き、二人の隣までやって来た。
そして、まるで女神のように優しい笑みを浮かべて声をかける。
「君が、噂のホームズ君で良いのかしら?」
驚愕も一瞬。好は常の安い笑みを浮かべて言葉を返す。
「なんの事を言っているのか分かりませんが、俺の渾名はホームズですよ、安心院五十鈴先輩」
そう。二人の横に立っていたのは愛の女神様、安心院五十鈴その人だった。
茨は一度五十鈴を見るけれど、その視線を直ぐにスマホへと向ける。
五十鈴は茨を見ていない。その視線は好だけを捉えている。であれば、自分に用向きがある訳では無い。
僕関係無ーい。とばかりにスマホを見てクレアからの返答を待っている。
そんな茨を尻目に、五十鈴は好に訊ねる。
「今お暇かしら?」
「暇と言えば暇ですが……俺に何か御用ですか?」
「ええ。一つ、依頼をしたいの」
「依頼……?」
五十鈴が接触してきただけでも驚きだというのに、その上で依頼までしてくるのは想定外だ。
何を企んでいる……?
単純に依頼をしたいだけなのか、それとも何か思惑があるのか。
「内容によります。流石に、高校生では出来ない事もあるので」
「大丈夫よ。むしろ、貴方にしか出来ない事だから」
裏があるのか、それとも言葉通りなのか。今の五十鈴から、言葉の真意を計り知ることは出来ない。
「では、依頼内容の説明をお願いします。それによって受けるかどうかは決めますので」
「なら場所を変えましょう。此処で話せる事じゃ無いから」
「分かりました。行こう、ワトソン君」
「ん? クレア先輩は良いの?」
「先輩には後日時間を作ってくれと連絡しておいてくれ」
「ほーい」
返事をしながら、茨は即座にごめんなさいとメッセージを送る。本当はもっと長いけれど、要約するとそんな感じである。
「彼も探偵なの?」
「助手でーす」
五十鈴の言葉に、茨はにこっと笑みを浮かべて答える。
「そう……」
一つ頷いてから、五十鈴は歩き出す。
その後に二人は着いて行く。
クラス中から視線を感じるけれど、気にはしない。
しかし、クラスを出ても視線は途切れる事は無く、流石に少しだけ居心地は悪かった。
安心院五十鈴は愛の女神様という存在である前に、一人の女性。しかも、一般的に見ても美少女の部類に入る見た目をしているため、自然と人目を惹いてしまう。まぁ、それは二人も同じ事なのだけれど。
確かに、これだけ人目を集めてしまっては内緒話も出来やしない。依頼というのがナイーブな話であるのなら特にだ。
しかし、五十鈴が本当に依頼をしたいのかどうかは分からない。依頼とは周囲を欺くための言葉であり、本当は何か別の目的があるのかもしれない。
「さ、入って」
暫く歩いて、通されたのは応接室だった。
革張りのソファに、艶やかに光を反射するローテーブル。少しばかりの調度品が置かれただけの、お客さんと話をするためだけの部屋。
「勝手に使って良いんですか?」
「許可は取ってあるから大丈夫よ」
何食わぬ顔で五十鈴は応接室に入る。
二人は一度顔を見合わせた後、五十鈴に続いて応接室に入る。
一人掛けのソファに座り、対面に座るように促す五十鈴。
促されるまま、二人は対面に座る。
「さて、これでゆっくり話せるわね」
そう言った途端、五十鈴の表情から笑みが消える。だからと言って攻撃的な雰囲気は無く、ただ取り繕うのを止めたという様子だった。
様子の変わった五十鈴に、二人の警戒が上がる。
「ご存知だと思うけれど、私は安心院五十鈴。五代目の愛の女神様よ」
「では、こちらも自己紹介を。俺は――」
「法無好、でしょう? えっと、ごめんなさい。そっちの君は分からないのだけど……」
「和島茨でーす」
「そう。法無君に和島君ね。よろしく」
よろしくと言いながらも、その態度は二人と仲良くしようというものでは無く、ただただ事務的なものだった。
五十鈴の態度に、遊びはいらないと判断した好は単刀直入に訊ねる事にした。
「それで、依頼とは何ですか? ご存知だと思いますが、俺達は怪異探偵です。怪異的な事の方が専門になります」
「勿論、そっち方面の依頼よ。じゃなきゃ、貴方に依頼しようとは思わないわ」
「そうですか。ではお聞かせください。その、依頼というやつを」
「ええ。そうね、どこから話そうかしら……」
考えるような仕草を見せた後、五十鈴はゆっくりと語り出す。
「まず、貴方達は気付いていると思うけれど、私は安心院五十鈴では無いわ」
「――っ!」
唐突に自身の秘密を明かした事に、思わず好は反応を示す。
五十鈴の真意が分からず、一瞬硬直する。
しかし、当の五十鈴自身はそれを気にした様子はなく、話を続ける。
「私は、十年以上前に死んでるわ。多分だけど……」
「……では、貴女は安心院五十鈴にとり憑いた幽霊だと、そう認めるのですか?」
「ええ。愛の女神様っていう降霊術を使って、人に乗り移り続けてるただの幽霊。神様でもなんでも無いわ」
好の質問に、五十鈴はあっさりと自分が幽霊である事を認める。
あまりに簡単に認めてしまうので、何か試されているのかもしれないと更に警戒をする。
「貴女が乗り移っていて、安心院五十鈴は大丈夫なのですか?」
「家では私は引っ込んでるから大丈夫よ。それに、一応言っておくけれど、五十鈴とは合意の上でこの関係を続けてるわ。例え五十鈴の体調に何らかの悪影響があったとしても、その責任は五十鈴自身にもあるわ」
「言い逃れですか?」
「純然たる事実よ。過去の私が選んだ子達も合意の上で私は乗り移っているわ。誰一人、例外無く、ね」
「……」
嘘を言っているのかどうかは好には分からない。けれど、もし仮に五十鈴の言っている事が本当なのだとしたら、誰も被害者はいないという事に他ならない。両親から助けてほしいと依頼されている安心院五十鈴さえも、また。
依頼の必要性を一瞬考えてしまうけれど、まだそれを決めてしまうのは早計である。五十鈴の話を全て聞いてからでも遅くは無い。
「それでは、貴女は何が目的なのですか? 何のために、人の身体を渡り歩いているのですか?」
好の質問に、五十鈴はきゅっと口を真一文字に閉めてから、酷く恨みの籠った瞳で好を貫き、こう言った。
「私の目的は、私を殺した奴を見つけ出す事。そして、私の失った記憶を取り戻す事よ」