76話 来訪者
「——私、記憶を取り戻そうと思う」
そう言い放ったリフィにこの場の全員が息を飲んだ。
さらにリフィは言葉を続ける。
「タクトだけじゃない、みんなの事もちゃんと思い出したいって思ったの」
「で、でも……もしかしたら今の記憶が消えるかもしれないんだぞ? それが怖かったって……」
「そうかもしれない……でも、もう怖くないよ。だって——」
リフィは俺に体を向き直すと、悪戯っぽく微笑んだ。
「『私は私』でしょ? タクトがそう言ってくれたから、きっと大丈夫って思えた。私は消えない。タクトの言葉を信じるよ」
「リフィ……」
それでも、リフィという記憶が消える可能性がゼロではない。
どこにもそんな確証が無いのに……。
「……記憶を呼び覚ますには時間がかかる」
それまで黙って聞いていたメディが口を開いた。
「毎日数時間、少しずつ記憶を掘り起こして繋いでいくのよさ。中には思い出したくない記憶もあるだろう。それに伴って苦痛もある……それでも本当にいいんだね?」
「うん。よろしくお願いします」
リフィは一度、深々と頭を下げてから顔を上げた。
その表情は真剣そのもので、覚悟を決めた顔だった。
「……健気な嬢ちゃんだ。どっかの馬鹿とは大違いだね」
ちらと俺に目を向けてメディは片方の口角を上げる。
昨日までの俺ならリフィの決断に喜ぶところだったが、リフィの本心を知ったあとの俺は、素直には喜べなかった。
心のどこかでは無理をしているんじゃないか、と心配なのだ。
「ねぇ、タクト」
「ん?」
呼ばれて顔を上げた時、頬に柔らかな感触があった。
「なっ」
「おお」
「ひゃっ」
リオンたち三人はそれぞれが変な声を上げると、目を丸くして驚いている。
いったい何にそんな驚いて——。
「——んな?!」
顔のすぐ横にリフィの綺麗な髪があった。
隣に座っていたリフィが、俺の頬にキスをしていたのだ。
「ちょ、リフィ!? 何してんの!?」
リフィは俺から離れてソファに座り直すと、少女のような明るい笑顔を見せる。
「心配してくれてありがとうのお礼! えへへ」
お礼って……。
俺はハッとした。
昨日のキスはレイラのせいだったが、今のはどう見てもリフィからの好意だ。
恐る恐るリオンたちを見ると、三人からはジトっとした視線を向けられていた。
怒っている……わけではなさそうだが、カナタとリオンはなんだか不機嫌な様子だった。
ユルナはニヤニヤとした笑みを浮かべている。
その時、メディの大きな笑い声が部屋に響いた。
「初々しいねぇ……同じ女だ、恋する乙女は応援したくなる。やれるだけのことはやるのよさ」
その日から、リフィの記憶を取り戻す日々が続いた。
* * *
毎日二、三時間。ベッドに寝かせられたリフィに、メディは治癒魔法をかけ続けた。
それがどういったものでどんな事をしているのか俺には分からなかったが、メディの険しい表情を見るからに高度な治癒魔法なんだろう。
リフィは次第にカナタ、ユルナ、リオンのことも思い出していった。
「リオンは……料理が上手! ユルナは私と同じ槍術士で……私にいっぱい説教した人!!」
「いや……たしかに説教みたいなことはしたけども……そんな印象なのか私」
ユルナはがっくりと肩を落として凹んでいるようだった。
「カナタはー……いつもえっちなこと考えてる人!!」
「は、はあっ!? そそそそんなことないです! 偏見です!! ていうか、私のことそんなふうに覚えてたんですか?」
「くくく……あっはっは!! いいぞリフィ。なにも間違っちゃいない覚え方だ」
「ちょっとユルナ!! それはあんまりです!! リフィ、一緒に戦った時のことは思い出していないのですか?」
リフィはうーんと唸って思い出そうとしているが、まだそこまでの記憶は戻っていないらしい。
「ごめんねカナタ。ちゃんとえっちなカナタ以外も思い出すから……」
「その言い方は悪意がありますよ!! リオンも笑ってないでなんとか言ってください!!」
「ご、ごめ……リフィ、それはあんまり……ぷ、ふふふ」
リオンは笑いを堪えるのに必死なようだ。
リフィが少しずつ思い出していく中で、俺は不安を募らせていった。
いつか、ぱったりとリフィの記憶が消えてしまうんじゃないか、そう思えて仕方がなかったのだ。
ミュレで過ごすうちに季節はすっかり冬になった。
町を囲む山々は雪に覆われてこれが白銀の世界というものか、と最初は感動したものだ。
しかし、冬の山というのは想像以上に厳しい寒さだった。
「タクトー……もうちょっとそっち寄ってよ寒いんだけど」
「いやだ。ここは俺のベストポジションなんだ」
俺とリオンは暖炉前から動けずにいた。
自分が寒さに弱い人間なんだと、十六年生きて初めて知った。
オレ、フユキライ、サムイ、ウゴキタクナイデス。
この思いはどうやらリオンも同じなようで、二人揃って毛布を被り熱を求めている。
その時、家のチャイムが来客を知らせた。
ユルナは外に買い物に出ていて不在。リフィとメディは毎日の治癒魔法中で手が離せない。
俺とリオンの間に少しの沈黙が流れた。
「……リオン、誰かきたみたいだぞ」
「そうみたいだね。タクト行ってきてよ」
「俺が行ったら、ベストポジション盗るつもりだろ」
「ソンナコトシナイヨー」
再びチャイムが鳴った。
来客がメディにとって大事な用件だった場合、間違いなく怒られるだろう。
「くそ……しょうがないな。場所盗るなよ?」
「ウンワカッタ」
もし盗られていたらリオンの毛布を剥いでやる。
そう心に決めて俺は冷え込んだ玄関へと向かった。
もう一度チャイムが鳴った。これだけ鳴らすということは急ぎの用件だろうか?
「はーい、今開けますよっ……と」
三日に一度という頻度でメディの家には来客がある。
ただ、そのほとんどは貴族の使者だ。メディに取り入ろうとする貴族がパーティの招待状とか、贈り物の事前調査でやってくるのだ。
扉を開けた先には、背の高い男が立っていた。
男は腰を90度折り曲げて、仰々しいまでの挨拶をする。
「こちら、治癒術師メディ様の御自宅で間違いありませんかな?」
「そうだけど、えっとどちら様でしょう?」
男は体の線が細く、丸眼鏡に白髪で結構な歳なのが分かる風貌だ。
格好もそれまでの来た使者とあまり変わらない、執事だと一目で窺える服装をしている。
全身黒ずくめの男は庭に積もった雪を背景もあって、不思議な存在感を放っていた。
「大変失礼をいたしました。申し遅れました私、執事のウォンと申します。こちらにユルナお嬢様がいらっしゃると聞いて、伺った次第でございます」
ん? メディじゃなくてユルナ?
「はい、ユルナは居ますけど……あ、今は買い出しに行ってて居ないんですが」
「左様でございましたか。ふむ……ご帰宅されるまで、ここで待たせて頂いてもよろしいですか?」
「ここで……って、外で?」
「はい。もしご迷惑なら門の外でも構いません」
いやいやいや……こんな雪が降り積もる中で外にいたら、凍死してしまうだろう。
来客を家に上げるとメディが怒るんだけど、今回はメディ目当てじゃなさそうだし……いいか。
「あの、よければ中で待ちますか? たぶん帰って来るまでもう少しかかると思うので」
「……宜しいのですか?」
「メディには俺から言っとくので。どうぞ」
こうして話している間にも、冷たい風が家に吹き込んでくる。
俺は一刻も早く暖炉の前に行きたい一心で、ウォンさんを招き入れた。
「ではお言葉に甘えさせて頂きます」
ウォンさんは肩に積もった雪を払い、靴裏の雪も落として足を踏み入れた。




