54話 ティルエルの記憶
魔力ゼロと言われたあの日から、私の生活は一変した。
優しかった父は私を見て怒鳴るようになり、母からは笑顔が消えた。
重く沈んだ空気を変えようと、魔法の練習を母にせがんだが「ごめんね」と謝られるだけで、私はそれ以上何も言うことができなかった。
学校に行きたいと父にお願いしてみても、「行く必要はない」と言われ外へ出させてはくれなかった。
二人に嫌われたくなくて、怒られたくなくて、私は言われるがまま自室に閉じ篭るようになった。
私が何もしなければ、二人がこれ以上悲しむこともない、そう思ったから。
そんな日々が続いたある夜、私はなかなか寝付けないでいた。
何日も部屋に篭って、もう寝るのに飽きてしまっていたのだ。
ベッドから体を起こして外を眺めていると、どこからか声が聞こえてきた。
「……は悪くない。どうして……がこんな目に……」
声は廊下を挟んで対面にある、父の部屋から聞こえてきていた。
この時、私はそのまま寝たふりをしていれば良かったのだ。
けれども父のぶつぶつと呟く声に誘われて、体が勝手に動いてしまった。
部屋を出ると目の前にある父の部屋。その扉の下側からわずかな光が漏れている。
お父さんも眠れないのかな?
そう考えた私は、そっとドアノブに手を掛けて中を覗き込んだ。
室内には酒瓶がいくつも転がっており、ツンとした香りが鼻を突いた。
小さなランプに照らされて見えたのは、机に突っ伏して頭を抱える父の姿だった。
「――お父さん……?」
「――ッ!? 何時だと思っているんだッ! 部屋で寝ていろ!」
「で、でも……寝れなくて……」
今の父は、私の知る父とは思えないほど豹変していた。
私を睨む目は血走り、頬は痩せこけて、髭も伸びたままだ。
「あ、あのね……その、前みたいに一緒に寝てもいい?」
睨まれても怒鳴られても、きっとそのうち元の優しかった父に戻ってくれる……そう信じていた。
「――ッ」
バシンという乾いた音が部屋に響いた。
一瞬何が起こったのか理解できず、遅れてジンとした痛みを頬に感じた。
父に叩かれたのだと、理解するより先に涙が溢れた。
痛みよりも驚きのほうが大きかった。
突然の出来事に私は、目の前に立つ父を見上げることしか出来なかった。
「……お父、さん……?」
「お前が、お前が全て悪いんだッ!! 俺の人生はお前のせいで台無しだッ!!」
凄い剣幕で怒鳴る父に、今度は『怖い』という感情が私の思考を埋め尽くした。
「お前が魔法を使えてさえいれば……俺はこんな惨めな思いをしなくて良かったんだ……。もうこんな人生ウンザリだッ!!」
「なにを、言っているの……? お父さん?」
次の瞬間、父の大きくてゴツゴツとした十本の指が私の首を掴んだ。
「がっ……ぁ」
「町の為、存続のために結婚までして跡取りを作ったのに……!!」
「ぉ……ど、ざん」
「あなた、どうし――ッ ティルエルッ!!」
部屋に飛び込んできた母が体当たりをしたことで、父の手から逃れられた。
咽せかえる私を強く母が抱きしめる。
「おかあ、さん……」
「あなたッ いま自分のした事が分かっていますかッ!!」
父はゆっくりと起き上がると、床に転がっていた酒瓶を手に取る。
「どくんだ。もう、その子に価値は無いんだ……」
「価値って……この子は私たちの子供ですよッ?! それを、あなたは――」
「黙れッ!! 『魔法が使えない女』に価値なんて無いんだ!! 君の父……町長との契約を果たせないんだッ!! 魔法が使えなきゃ、その子も生きづらいだけだ。この先、惨めな思いをして生きていくぐらいなら――」
父は悲観と狂気に満ちた顔で、酒瓶を振り上げる。
「三人で死のう。大丈夫、きっと天国で会える。だって俺たちは家族なんだから」
「や、やめて……この子は何も悪く無い! 何もしてないわ!」
「何もできない、の間違いだろう? 何もできないからこうするしかないんだ」
ゆっくりとした動きで迫ってくる父は、まるで悪魔でも憑いているんじゃないかと思えるほど、恐ろしい笑みを浮かべている。
抱きしめられた母の腕の中で、眼前に迫る死の恐怖から、無意識に母の腕を強く握っていた。
私が魔法を使えないから……。
私が女に生まれたから……。
私が魔法を使えたら……。
私が……私が……私が……。
走馬灯のように浮かんでくる思い出の中、なぜか母の言葉を思い出していた。
『……お腹から力が湧き上がるイメージよ。頑張って!』
『……手のひらに力が集まってくるのを感じて……』
「お願い……やめて、誰か……助けて……」
「愛してたよ二人とも。俺も、すぐに行くから」
母の腕に触れた手のひらは温かく、体温以上の熱を感じる。
この温かさが母の言っていた魔力なのだろうか。わかるわけもない、だって私は魔力ゼロなんだから。
信じ、祈ることでしか助かる道はなかった。
私は藁にもすがる思いで叫び声を上げた。
「来ないでぇえッ!!」
その瞬間、手のひらに焼けそうなほどの熱を感じた。
熱は腕を伝い胸に到達すると、そこから全身へ広がり、全身が熱くなった。
宙を光が走って、床には見たことのない模様が描かれる。
家の中だというのに、私を中心に風が巻き起こった。
「こ、これは……ティルエルッ!! お前――」
「いやぁああああああああッ!!」
私に伸ばそうとした父の手が、その指先からねじ曲がる。
ぐにゃりと渦を巻いて指、手、腕、肩と、本来曲がるはずの無い向きへ曲げられていく。
痛みに絶叫する父の声は、風が撒く音と弾ける風圧で掻き消された。
「はぁはぁ……これが、魔法……?」
私の呼吸に合わせて肩が大きく上下する。
全身が痺れるような感覚が余韻として残っていた。
お腹の奥、ちょうどへそのあるあたりが、ポカポカとした熱を帯びている。
この温かさが魔力で、今しがた起きた事が魔法なんだ、と初めての感覚なのに不思議と納得している自分がいた。
私の体を覆っていた母が、ずるりと力なく床に崩れた。
「お母さん!!」
母は気を失って、眠るようにただ呼吸だけをしていた。
深夜、突然の爆発によって周囲の住民が通報し、駆けつけた自警団の人たちによって私と母は保護された。
室内は、まるで嵐でも通り過ぎたあとのように物が散乱していた。書棚は倒れ、窓は骨組みごと吹き飛んで無くなっていた。
抱き抱えられて運ばれていく中、窓が吹き飛んだ方向に人だかりが出来ているのが見えた。
人々の隙間からわずかに見えたのは、雑巾を絞ったようにねじ曲がった、人の腕だった。
* * *
「これは一体、どうなってるんだい……?」
母の容態を診ていた治癒術師のお婆さんが、訝しむように眉をひそめた。
「……体から、魔力が完全に消えている」