善は相対的でなく、絶対的である。
皆さんは善とは相対的であり、人それぞれであると考えているでしょう。「私には私の善があり、彼には彼の善がある、ゆえに善は相対的であり、人それぞれなのだ」と。
しかし「それでは善とは何だと思いますか?」と問えば、誰も答えられません。「善は相対的である」と言いながら善とは何かを知らないのです。愛とは何かを知らず、愛を説く牧師のようなものです。
つまり善は相対的であると言う人たちは、善を定義できていないから相対的であると言っているに過ぎないのです。善の定義が出来れば善は相対的ではなくなり絶対的なものになるのです。これは善だけではありません。例えば、何を美しいと思うのかは、今は人それぞれです。しかし、いつか美しいの定義が出来れば、美しいは相対的から絶対的になるのです。幸せもそうです、幸せは人それぞれと言いますが、幸せの定義がしっかりと論理的に定義が出来たならば、幸せは人それぞれではなく、絶対的なものになるのです。
人それぞれと考えられているものは、まだしっかりと定義できていないからそうなのです。定義が出来れば絶対的なものに変わるのです。「絶対的なものなどない」と言う考えを改めなければなりません。
私は善の定義を内包的定義と演繹法で「私より公を優先する行為、種族(民族)保存の為」と論理的に定義しました。私の善の定義は今後、論理的に否定されない限り、善は相対的なものではなく絶対的なものなのです。ですが、まだ多くの人たちは善は相対的であると頑なに主張します。そこで私は「それでは善、つまり正しいことで相対的と思うものを言ってみてください、私が答えてみますから」と言うのです。
それに対してある人は「各宗教ではそれぞれ正しいことは違う」と言います。しかし宗教で決められたことは正しいからではなく決まり事であるからです。ブルカを被るのは砂漠で暮らす人々にとっては必要なのかもしれません、また豚肉を食べないのは、当時不衛生なブタを食べて多くの人が死んだりしたからでしょう。また割礼をするのも正しいからではなく、決まりごとです。宗教における決まり事は正しいからではなく、ただのルールであり習俗なのです。
また先の大戦で戦争したのは日本には日本の正しさがあり、アメリカにはアメリカの正しさがあった、ゆえに正しさは相対的であると言う人もいる。しかし善の定義で考えれば日本の戦争は他のアジア諸国のように奴隷にされたくないと言う種族(民族)保存を賭けた戦いであったのだから善である。アメリカや白人国家にとっては領土を広げ、住民を奴隷にして、もっともっと豊かになりたいと言う欲の為の戦争であるから悪なのです。
またアメリカの日本への原爆投下はアメリカにとって善だったのだという人もいる。これも善の定義で考えれば民族保存が絶対善であるならば、他民族を滅ぼすことは絶対悪である。アメリカは種族(民族)保存が充分に図られていたにもかかわらず、他民族の非戦闘員を大虐殺したのだから悪である。
また日本には昔は仇討ちが許されていた。しかし今は禁止されています。これは時代により善は変わると言うことではないのかという人もいる。しかし仇討ちが正しいとされていたのは武家社会での決まり事だったのです。もし侍たちが「私より公を優先する」という善の定義で話し合えば本当に仇討ちは正しいとなったであろうか。侍たちが恥とか名誉という欲を少し抑えて公の為、社会の為とみんなで考えたならば、仇討ちは正しくないと否定されたであろう。侍たちも仇討ちという決め事にはうんざりしていたから、明治維新で即、廃止されたのでしょう。
このように今まで善は相対的であると考えられてきたものでも、善の定義で考えれば相対的ではなくなり絶対的なものになるのです。私たちはやっと自由に話し合える社会が実現したのですから、みんなで善の定義「私より公を優先すること、種族保存の為」で話し合えばきっと正しい事、つまり善は一つに収斂していくと思うのです。
皆さんも「絶対的などないんだ」と考えずに自分が相対善だと思うことを善の定義「私より公を優先する行為」で考えてみてください。人類に共通する思いやり「公の為」で考えれば正しい事、つまり善は一つに収斂していくと思うのです。
https://ameblo.jp/shinwood/entry-12277885699.html (絶対善の定義について)