破局と結実のエンタイトルー2ー
髪が濡れないよう合皮の防水機能のついたカバンを頭に掲げ、手土産の萩の月もどきの菓子箱が入ったビニール袋を少しでも濡れずに済むようジャケットの内側に隠すようにして持ち土砂降りの中を駆け抜けていく。辿り着いた鋳鉄製の門を押し込むように開け、玄関先の軒下へと駆け込んだ。僅か数十メートルの距離ではあったが、瞬く間にびっしょりとなってしまったことに少しばかり辟易する。特にパンツの裾部分は跳ねた泥水で汚れてしまった。明るめの紺色の下地ではやや目立ってしまう。週末はクリーニングに出さなくてはならないだろうことを思い、また余計な出費になるなと軽くため息をついた。
(…ま、なんとか菓子箱は守れたみたい、ですけどねぇ)
それだけでも幸いだと思い直して服についた水滴を手で払い落とし、最後にハンカチで丁寧に拭い去る。右内ポケットに入っているスクエアタイプの手鏡で自慢の髪のセット…前髪を少しばかりロールさせた変形リーゼントのようなそれを整え直す。十二分な睡眠、たっぷりの水分、就寝と起床に伴う化粧水とクリームの手入れも伴って肌ツヤもバッチリ整っている。
(ん、まぁ、これならいいでしょう)
セルフチェックを終えてから玄関のノブを回し入っていく。
何時もながら不用心だとは思うが、アポの時間になったら勝手に入って良いと言うのが家主にして担当作家たる西条の言い分なので仕方がない。ただ一応おじゃましますよと声はかけながら革靴を脱ぎ、お手伝いの鹿島さんが担当する午前中に用意してくれていたであろうスリッパに足を通し、そのまま廊下を通って彼が仕事以外の時を過ごす広めのリビングへと足を運ぶ。
(いつもながら綺麗なものですねぇ…全く、お手伝いさん様様ですよ)
ボロアパートにてやけくそ気味にあらゆる美術コンクールに作品を投稿しまくっていた頃の彼を拾ったのは彼の唯一にして直属の上司である社長こと北上七衛だった。顔の広い彼は時折青田買いの一つもしたいお年頃なんですよなどと妙な言い回しを嘯きながらあちこちの投稿作品を眺めに行くことがあり、そんな中でジャンルの指定も問わずに作品を送りまくっていた阿呆、もとい古き時代の画家のように狂人めいた作家の西条に興味を持ったという。その後無理やり会いに行った時の彼の家はまさしく画材以外のものはゴミしかないと言っていいような部屋だったらしい。風呂なしトイレ共同のボロアパートにて、日雇いの誘導やら土方で日銭を稼いではそれ以外の時間を創作活動に打ち込む日々を送っていた西条は髪はボサボサで着てるものも擦り切れたシャツとほつれが見え隠れする黒のチノパンのみ、ただただ眼だけがギラギラとしていたという、まるで飢えた野良犬のような風貌だったそうだ。
それから紆余曲折を経て、彼が代表作となる伽羅林檎シリーズを描き始め売れ出した頃、ひいてはその税金対策に社長のお膳立てで豪邸を建てるようになった頃から担当を任されたのだが、その野良犬の如き生活力のなさはまるで変わることがなかった。口にするものはインスタント食品かタバコだけ、創作活動以外のことには興味は持たない。社長が覆面作家ということで売り出したのは神秘性を押し出す為というより人前に出してはならない人物だったからではないかと本気で考えた。
いくらちゃんとした生活を送ってくださいと言っても煩い、俺の勝手だと聞きやしない頑固者だったので、一計を案じマトモな生活を送らせることが出来る人間を探し無理やり押し付けた。
(一応、私や社長は彼の仕事上のパートナー…でもあるはずなんですが、本当に聞きやしませんからねぇ。その点、なんというか少し高齢の女性ならどうかと思いましたが、上手く行ってホッとしましたよ)
知人の知人が暇を持て余しているということで試しに打診してみたのがこれがなんというかある種の傑物だった。かつて事業を起こし成功した為悠々と生活していたが、己を律する為に働き直したいという人物であり昔ながらの大和撫子がそのまま老成したような風格があった。そのピシリとしたオーラには誰であろうと従わざるを得ない物があり、私はおろかあの西条ですらまともに逆らえず人並みの生活リズムを刻むようになったのである。
彼女は朝早くにやってきては西条を叩き起こし、朝食をしっかり食べさせたあとこの無駄に広い邸宅を離れも含めて清掃、洗濯、そして昼と夕食分の食事まで用意して午後には帰っていく。契約上は基本的に平日ということではあったが、かといって休日にだらけて生活した後があれば雷が落ちる為、常に綺麗な部屋にはなっていた。
ぼんやりとこれまでの経緯を振り返ったのち、玖珠間はリビングを軽く見渡してみる。
(それじゃ早速、お仕事に励みますか…。新作の進捗確認と作風の変化でしたね。…ん、リビングに何か変化はありますですかねぇ)
鹿島の働きもあって邸宅内は整ってはいたが、一つだけ一月前に来た時には見当たらなかったものがあった。
(おや…ダンベル?)
水を入れて重石にするタイプの、片手で持ち上げるダンベルが二つほど置いてある。
40kgと書かれているようであり、二つも持てば大分重たいタイプのはずだ。
(ふぅむ。新しい趣味でしょうか。ま、筋トレしたくなること…も不自然ではありません…かね。出不精な身であろうと、運動してエネルギーを発散したくなることもあるでしょうし)
やや気にはなったが、問題視するほどのこととも思えない。
それ以外に何か変わった点も見当たらない為、玖珠間は奥に進むことにした。
リビングの隣部屋にあるもう裏口にて移動用のサンダルに履き替える。
数メートルほどの石畳を抜けて離れの引き戸に軽くノックした後声をかけながら中に入った。最後の履き替えを終え、室内扉を開くと学校の教室の半分くらいのサイズの開けた空間が広がる。お手伝いさんの働きにより綺麗に整頓された画材道具が置いてある一画とほぼ毎日シーツの取り換えられたベッド、天井はさながら教会のように三角型に大きな空間が空いており頂点に向かう二本の線の部分にそれぞれシーリングライトが取り付けられている。また頂点の部分だけやや平坦になり、採光用の天窓が備え付けられていた。
西条は珍しくぼうっと、タバコを火も着けずに口に咥え、部屋の中央あたりで椅子に座りながらキャンバスを眺めていた。
「お疲れ様です。西条センセ」
声をかけると気づかなかったかのようにビクッとしてからこちらを振り向き、一瞬訝しげな顔を見せてから私が誰かを認識すると少し気の抜けたような面持ちになる。そして。
「ああ、来たのか」
などとまたしても気のない感じに返事をした。
やはりおかしい。何も言わずとも作品を送りつけてくるほど燃え盛るような創作意欲に取り憑かれていた男のはずだった。こんな様子は初めて見る。出来ていなくともキャンバスを睨みつけるように座り込み、今にも襲いかからんばかり気迫を感じたものだ。
(これは本当に…何かあったんですかねぇ)
内心の疑問を顔に出さないようにしながら続けて声をかける。
「いや参りましたよ。車を止めた途端、急に降り出してしまいましてねぇ。こりゃ困ったな…と駆け出して来てみたはいいんですがやっぱり濡れちゃってですね。あ、でもこちらの手土産は濡れてませんから後で食べて下さい」
そう口に出しながらそっとベッドの上に手土産を置くも、大したリアクションはない。
相変わらずキャンバスを眺めているだけだ。




