芸術家のシーソー・ゲーム
キャンパスを殴りつける。
拳の先にあるセロハンテープで固定された開封済みのチューブからスカーレットレーキの絵の具が噴出する。繰り出された蹴りにより別のチューブからプルシャンブルーが、続く拳が、膝が、オーレオリオン、ミネラルバイオレット、デービスグレイのチューブを激しく潰していく。あっという間にキャンバスは凹んだチューブと、極彩色の液体達に染められた。
色が決まらない。
色が出ない。色が。
これではない。これではない。これでは。
西條彩人は沸き上がる苛立ちを抑えきれなかった。
キャップを開けた各色のチューブを2メートル平方はある特注のキャンパスへとセロハンテープで固定する。そしてそれぞれのチューブを思い切り殴りつけ、蹴りつけることで中身の絵の具を勢いよく噴出させる。そして色同士は激しくぶつかりあい、イメージした衝動そのものが混じり合う、筈だった。
思いついたときはこれだと思ったが、実際にやってみると何かが違った。
色が欠けているのだ。
噴出、爆裂、暴力、とにかく暴れるような熱いなにかをキャンパスに叩きつけてやりたいと考えた末に取った手法だったが、欲しい色が存在していない。
激しく噴出した色と色がぶつかり混じりあい、そこで生まれるべき色が生まれない。
衝動の色が生まれない。
彩人は近くに転がっていたバケツをもう一度激しく蹴り上げ、タバコに火をつける。
紫煙は教室程度の大きさのアトリエを漂った後、吹き抜けの天窓から抜けていく。
二等辺三角形のような形の屋根の頂点に位置する天窓はスイッチで開閉出来た。
そこから降り注ぐ太陽光を浴びながら、椅子に腰掛ける。
明るいベージュ色の長髪は上品さを感じさせる薄いオレンジのシュシュで纏められ、さながらポニーテールのように背中に垂れ下がっている。赤い光沢のあるフレームのメガネの奥の眼は碧く、彫りの深い、真っ白な顔立ちと合わさって彼の血が欧米系であることを雄弁に物語っていた。
新進気鋭の前衛芸術家“在原ゴウト”として売り出したのは既に6年も前になる。
孤児院を追い出された後、必死で稼いだ金で絵の勉強が出来る専門学校に潜り込んだ。生活費が無くなると同時に追い出され、野良犬のようにさまよっていたところをある画商に拾われ、欧米系の覆面芸術家として売り出された。
自分が何を書きたいのかわからないまま、ただ奥底から沸き上がる怒りや憎しみをキャンパスに叩き続けていただけだったが、何故かそれがウケた。批評家に言わせると日本の芸術家に無い独特の“ライン”がとても官能的に心をくすぐるのだそうだ。
馬鹿馬鹿しかった。
この排他的な国でどれだけ貧しい異邦人という自分が苦労したのかも知らずに、能天気なコメントで飯を食う馬鹿も、何も考えず、素晴らしいそうだから素晴らしいと判断する大衆も皆、死んでしまえと思った。
俺など誰も見ていない。居るのは俺の作品を供物に虚栄心を満たす馬鹿だけだ。
覆面芸術家として売れている以上、誰にも正体を明かすなときつく画商からは言われていた。言われずとも飯の種がなくなって一番困るのは俺だ。黙っていて欲しかった。
ふと二本目の煙草に写りながら今日の予定を思い返す。
そうだ。
今日は珍しく来客があるのだった。
一度だけ関係を持った白木華と、俺の血を引くガキが来る。
専門学校に居た頃、やたらと俺に絡んできた女だ。試しと思い、付き合ってみたらことの他、気を許してしまった。その癖、事が済むと直ぐに俺の前から消え去った。
人並みに女と付き合って上手くやれていると自覚のあった俺は少なからずショックを受けた。後から届いた手紙には妊娠していたこと、子供は竜之介と名付け、白木家の子供として育てることになることなどが記されていた。家の都合でもう会えなくなることも書かれていたが、もうどうでもよくなっていた。
要するに俺は裏切られた訳だったからだ。
もう二度と顔を見ることもあるまいと思っていたが、今頃になって向こうから子供が会いたがっていると俺のマネージャーでもある画商宛に連絡が入った。俺の正体は世間に公表されていないはずだが、金の力で探り当てたのだろう。制作活動も上手く行かず、退屈していたところだったので、一目くらいは構うまいとアポイントをOKした。
都内で庭付きの一軒屋だが、休日はハウスキーパーが来ない。
冷蔵庫から生茶のペットボトルでも出さなくてはいけない、面倒くさいなどと考えているうちに来訪を告げるチャイムが鳴った。
外開きの玄関を開けると、小奇麗な格好をした小学生くらいの少年と、黒いジャケットを脇に抱えた俺と同じ年ぐらい、背も同じくらいの高さの左側の前髪だけバックにまとめた男が突っ立っていた。
「…いらっしゃい。話は聞いているが、お前が、俺のガキ…だよな?」
「そうだよ。白木竜之介っていうの。貴方が僕の父さんにあたる西條彩人さんだよね?」
「ああ、まあな」
若干言い方が気になるが、まあこいつはいい。
「…で、アンタは誰だよ」
謎の黒ジャケ野郎を指差してやる。
「どうも、こんにちは。申し遅れました。私は竜之介君の戸籍上の父である東雲一馬と申します」
「そういうことじゃない。今日は白木華がこのガキを連れてくるはずじゃなかったのか?」
竜之介とかいうガキがむっとした顔をするがどうでもいい。
「いえそのはずだったのですが、生憎家内は体調を崩してしまいまして。
ただ折角、西條さんにご多忙の折、ご都合つけて頂いたということもありますからここは一つ、夫である私が代行させて頂きました」
「ふーん…ま、俺はこのガキと少しばかり話が出来ればなんでもいい。入りな」
応接室まで通し、お茶を持ってくる。
「飲みなよ」
言って先に自分の分に口をつける。この暑い日にわざわざ黒ジャケを選ぶ、極めてセンスのない東雲とか言う男はやたらニコニコしながらこちらを見ている。
覆面芸術家という職業柄、人と会うことは限りなく少ない。
その少ない経験から察しても何やら怪しい。
何故、初対面の人間を見てニコニコと笑っている…。
こういうのは早いところ帰してしまう方がいい。俺は目を竜之介に向けた。
「さて、改めて、俺が実の父親という奴だが、生憎俺はお前が生まれた瞬間に立ち会ってすらいない。それにその顔立ちも、目も、髪の色すら華の生き写しのようで、本当に俺の血が入っているのか疑わしいほどだ」
ニコニコ。
「僕も初めて貴方の写真を見たときは驚いたな。だってどう見ても外国の人だったのだもの。同じように本当に父親なのかなって思ったくらい。実際に会うともっと違うなって思うし」
ニコニコ。
「そう、そうだ。だからお前が俺に何を求めて来たかは知らないが…」
ニコニコ。
「…おい、そこの。東雲とか言ったな?そのニコニコ顔をやめろ。今すぐにだ。腹が立つ」
意識せずとも視界に入る。真面目な話をしようにもどうにも気を削がれて苛立たしい。
「あ、いや、その、これは失礼。決して悪気があった訳ではなく、何と言うか、これが感動の対面というやつなのかなあと」
東雲がややおろおろとし始めた。
「一馬さん。別に感動するような要素はないよ。僕は自分の血の繋がった親って奴をちょっとだけ見に来ただけなんだから。まあ、まさか初対面の人間に向ってこんなに口の汚い聞き方をする人なんて思わなかったけどね」
「あ?」
なんだこのガキは、とんだ物の言い方をしやがる。
「…オイ、ガキ、やっぱ直ぐに帰れや。俺もちらっとだけ自分の血を継いだ奴ってのを見られれば満足のつもりだったんだよ。それがなんだ、いざ会ってみれば俺の要素なんか欠片もありゃしねぇ。それどころか随分とナメた口利くしな。東雲、手前ェ、こいつの親やってんだろ?ちゃんとしつけてから連れて来いや!」
「いえ普段はこんな口の利き方をするような子じゃないんですが」
「僕はともかく一馬さんへの暴言はやめろ。言われなくても帰ってやる。それ以上汚い口を利かないでくれ。まがりなりにも僕の血の片割れがこんなだと思うと不愉快で仕方が無い」
「こら、やめなさい」
嫌な気配を感じたのか東雲が竜之介を注意するが、一向に収まる様子が無い。
同族嫌悪とでも言えばよいのか、見た目は違うが、中身は同じようなものが入っているせいなのか。先程から竜之介に対し、悉く苛立ちを覚える自分を感じていた。
「ああ、早く帰ってくれ。制作途中なのを思い出した。鍵などは気にしないでいいからとっとと玄関から出てってくれ」
「本当にすいませんでした、西條さん!」
深く頭を下げる東雲に、ろくに目もくれず立ち上がりアトリエの方へと踵を返そうとした。
その時だった。
「謝らなくていいよ一馬さん!悪いのは向こうなんだ。それにあんな品性じゃ、どうせ大した絵なんて描けない画家に違い無いんだから!」
その言葉を背中に浴びせられた瞬間、カッとなってしまった。
「手前ェッ!」
振り返り様、拳を振り上げていた。
自身の拠り所である制作が上手く行っていないことを見透かされた気がした。
それも不愉快な思い出を呼び起こす顔を持つ、自分の血を引いた年端も行かないガキに。
それに対する怒りが一瞬のうちに頭を支配していた。
だが同時に竜之介の、年相応に恐怖に歪む顔を見て正気に返る。
(…しまった!俺はこんな子供に!)
しかし拳は止まらない。既に怒りではなく、慣性に支配されてしまっていた。
やってしまう!と思った矢先、視界の端から黒い何かが飛び込む。
ぐしゃり。
鈍く、肉と肉がぶつかり合う嫌な音と共に右拳が東雲の頬にめり込んでいた。一瞬の間をおいて、東雲が床に倒れこむ。
「一馬さん!」
竜之介の悲痛な叫び声が響いた。
殴られた東雲は気を失ってはいたが、どこかに頭をぶつけたという訳でもない。
ひとまずアトリエに運び込み、備え付けのベッドに東雲を寝かせてやる。
彩人が東雲を介抱している間、竜之介は当初こそ自分の暴言がこの事態を招いたことに気付き、呆然自失としていたが、すぐに彩人を睨みつけ“一馬さんに何かあったら、お前を絶対に許さない”とだけ言うと、後は無言でずっと横たわる東雲の傍を離れようとしなかった。そのうち心配し続けて消耗したのだろうか、ふと気付くとベッドに突っ伏して彼もまた眠っていた。
彩人は再び煙草に火をつけながら、漠然と東雲の寝顔を眺めた。
これまで画商くらいしか足を踏み入れることが無かったアトリエに二人も訪問者が居る。
これは何だろうと、漠然と思った。
全くガキの顔など見るものではなかった。
自分を捨てた女と瓜二つの顔を持つ息子。10年前の出来事などもう振り切ったものだとばかり思っていたが、そう上手くはいかなかった。見ているだけであの裏切られた思い出が蘇り、どうにも憎しみが湧く。重ねて、竜之介の過剰なまでに不遜な態度の奥にあるもの、それは紛れもなく自分のDNAだ。
敵か味方かでしか人を見れない、呪われた視野狭窄。
異邦者としての自分が培わざるを得なかった能力。
竜之介は東雲を慕っている。それを傷つけるような者は絶対に許せない。
その思いもあって、俺にアレだけ攻撃的だったのではないかと今になって思う。
馬鹿馬鹿しい。
紫煙がまた一筋、アトリエの頂上から空へと消えていった。
うっすらと、目が覚める。
途端、左頬に火をつけられたような痛みを感じ、一馬は一気に覚醒した。
痛みに耐えかね、そっと手を触れるとガーゼが貼られていた。テープの貼り方はぐちゃぐちゃではあったが、誰かが手当てをしてくれたようだった。
「起きたか」
芸術家が座るような低い椅子に腰掛け、彩人が煙草を口にしながら話しかけてきた。
日光が彼のベージュ色の長髪を輝かせていて、どこか厳かな印象を受けた。
「ああ、貴方が介抱して下さったんですね。ありがとうございます」
ベットの上からではやや無作法な気がしたが、頭を下げた。傍らに竜之介がいるのが分かったが、疲れて寝ているようだったのでそっとしておく。腕時計を見ると先程の会見から1時間程度が過ぎていた。
「礼はいい。何か頭がおかしくなったりはしていないのか」
「凄い聞き方ですが、幸いそちらは問題ありません。頬の痛みくらいです」
彩人はそれならよしとばかりに目を閉じ、頷き、煙を深く吸い込んだ。
それから少しの間をおいて。
「…悪かったな」
煙と共に、呟くように言う。
「いえ、元はと言えば竜之介の暴言が原因ですし、ひいては私の教育不行届きです。こちらこそ申し訳ございませんでした」
「あんたもお人好しだな。普通はこういう場合慰謝料がどうのとか言い出すもんじゃないのか?」
「そういう方もいらっしゃるかもしれませんが、こちらが悪いのにわざわざベッドに寝かしつけ、手当てまでしてくれた方にそんなこと出来ませんよ」
「ふん、ならいい。まあ動けるようになったら出て行ってくれ。いい加減、俺も制作に取り掛からなくてはならないからな」
そういうと彩人はさっさと立ち上がり、奥へ消えたかと思うと、やたらと大きい白い板を引きずって戻ってきた。
「…それは?」
「竜之介からなにも聞いていないのか?」
「芸術家とはお聞きしておりましたが、なにぶん、筆名までは伺えておりませんでした」
「そうか。俺は前衛芸術家をやっている。名前は在原ゴウト。一応覆面芸術家ということでやっているから他言は無用だ。悪いが納期が迫っているから制作に取り掛からなくてはいけない。落ち着いたら適当にそのガキを連れて出て行ってくれ」
「わかりました」
そう言いつつ、左頬を押さえながら東雲が彩人の隣へ移動する。
「何をしている」
「いえ、痛みが引くまでちょっとお傍で見させて頂ければと、滅多にない機会ですし」
普段の彩人であればいいから失せろと一蹴するところではあったが、流石に故意ではないとはいえ、殴りつけた負い目があったのか、躊躇いを覚えた。
「…邪魔するなよ」
それだけ告げると、キャンバスを特注の鉄枠に固定し、再度チューブを貼り付ける作業を開始する。思いつくままに配置を終え、いざ殴りつけようとしたところで。
「これで、どうするんですか?」
一馬が声をかけた。
「邪魔するなと言ったはずだ。すぐに分かる。黙って見てろ」
説明は無駄だろうと割り切り、必要最低限の言葉に留め、作業を始めた。
ずどん。ばしん。
殴り、蹴る、迸るチューブの絵の具が再びキャンパスを染める。
我流の暴力は荒々しく不規則なようでリズムがあり、まるで踊りの様だった。
飛び散る絵の具が彩人本人と、隣に居る一馬に降りかかる。
贔屓のイタリア生地で織り上げたオーダーメイドのパンツが汚れていく。
それらを一顧だにせずに、一馬は圧倒されていた。
凄まじいものを見せられていた。
一馬は知らなかったが、特注のキャンパスも、絵の具セットも全て幾らでも用意出来る程、彩人は売れている。都内の一等地にあるこのアトリエも彼の物だ。
それだけ実力のある芸術家の生パフォーマンスに心奪われるのも無理は無かった。
作業自体はものの数分で終わった。
「ダメだ」
彩人は汚れた手も構わずに、出来上がったキャンパスの前で大の字になって寝転んだ。
全く、ダメだ。出来上がったキャンパスはいつもと同じだ。色が欠けている。
最も欲しい、衝動の色が。
口には出さずに内心でため息をつく。
「すごい…」
一方で一馬は目を輝かせていた。
前衛芸術など一馬は見たことが無かったのだろう。呆然と見つめていた。
「失敗作だ。あまり見るな」
「あまり芸術のことは分からないけれど、綺麗ですよ。コレ。色が爆発しているっていうか、とにかく見たことないです」
「お前がどう思おうと失敗作を見られるのは不愉快なんだよ」
「どこが失敗なんですか。これの…」
「五月蝿いな。色が違うんだよ、色が。俺はもっとぶつかり合った感じが欲しいんだ」
「ぶつかり合う、ですか」
それを聞き、一馬は少し考え込むような素振りを見せた。
かと思うと直ぐに靴下を脱ぎ、シャツの袖をまくる。
「何をしている」
「失敗作なのですよね?それでは私にも一つやらせて下さい」
許可する間も無く、一馬が拳を繰り出し始める。
ばしん。ばしん、ばしんばしん。
チューブから絵の具は既に噴出している。
乾いていない絵の具に、一馬の拳の痕が刻まれていく。
何を考えているかは分からないが、次の制作の邪魔だと止めさせようと思った矢先、彩人は目を見張った。
捻りを効かした一馬の鉄拳により、乾いていない絵の具達が混ざり合い始めている。
チャコールグレイ、ワインレッド、オーシャンブルーが拳の形に混ざり合い、淡い紫の如き不思議な色合いを発していた。
これだったのか。
飛び出したモノ達はそのままでは何者にもなれない。
大事なのはそこから混じり合わせることだったのか。これが衝撃の色か。
彩人は天啓を得た思いに駆られ、すぐさま一馬の隣に立つと同じように打ち込み始める。
ばしん、ばっしんばしん。ばししししん。
極彩色のキャンバスに、二人の拳が、足が叩き込まれていく。
一馬は何も言わなかったが、とても楽しげな顔をしていた。
彩人もまた同じだった。
まるで子供の遊びのように、二人の男は一心不乱に殴り続けた。
「それではそろそろお暇させて頂きます」
眠ったままの竜之介を背負い、一馬は玄関口に降り立つ。顔や手は洗わせてもらっていたが、シャツもパンツも絵の具塗れになっていた。
彩人はクリーニング代を渡そうとしたが、頑なに固辞されていた。
人の制作にいきなり絡んでくるほど無鉄砲かと思えば、礼儀はきっちり通したがるなど根は奇妙なほどに生真面目。
そんな一馬のことが何となく気にかかった。
「お前、普段は何をしている」
「ちょっとした営業ですよ。商社に勤めてましてこのあたりの代理店さんとか、工場とかよく回っているんです」
「そうか」
どこかで蝉が鳴き始めている。
日差しはとうに傾き、夕暮時だった。
西日が逆光となり、一馬の顔を隠した。
「もしよければ、今後も時々伺ってもよろしいですか」
「何故だ」
ダメだと言い切らない自分に、内心驚いていた。
「折角お知り合いになれましたし、何より今日は楽しかった。良ければ時々お話だけでもさせて欲しい」
「俺は忙しい。まともに相手は出来ない」
「まあそうおっしゃらずに、“在原ゴウト”さん」
「…存外お前もしたたかな奴だな」
「そんなことは無いですよ」
言ってにっこりと笑いかけてくる。
影に塗れた顔の中に狡猾そうな光が混じる眼差しと白い歯だけが浮かび上がっている。
全く、珍しい訪問者だからと内密の筈の正体を明かしてしまったのは不味かった。
「仕方が無い。邪魔にならない程度なら許可する。連絡はうっとおしいから適当に入ってきていい。俺は家に居る時は鍵をかけない。かかってたらそのまま帰れ」
「ありがとうございます。それでは営業で疲れたときにでもちょっと立ち寄らせてもらいます」
「好きにしてくれ。それとそのガキが目を覚ましたら怖がらせてすまなかったと伝えておいてくれ。もうここに来ることも無いだろうしな」
「分かりました。でも、もし竜之介が望んだ時は、会ってやってもらえますか」
「生意気な口を叩かなければ話くらいはしてやる」
償いの意味も込めて、素直にそう感じていた。
「勿論それで結構です!それではまた、必ずお会いしましょう」
「ああ、じゃあな」
最後に一礼すると、一馬は玄関を閉め、立ち去っていく。
車のエンジンが掛かる音がして、次第に遠ざかっていった。
電気をつけずとも、かろうじて室内を見通せるだけの陽光がアトリエを満たしていた。
彩人はその明りに包まれながら、ソファに腰掛けた。
画商以外の人間と話したのは久しぶりだったせいか、少し感傷的になっている。
絵を描く。
それだけが必要で、それだけで良かったはずなのにまた会いたいという誘いを断りきれなかった。断れば正体をバラすと暗にほのめかされていたのは確かだ。だが一蹴しても問題なかっただろう。そんなことをすればガキと俺の関係に悪影響があることくらい奴もわかっているはずだからだ。
そうだ、俺も分かっていた。
それなのに断れなかったのは、どこかでまた会うことを望んでいるからだろうか。
一馬の拳痕が残るキャンバスを見ても、答えは出てこなかった。