遠雷のタイブレイク
僕の名前は白木竜之介。
まあわざわざ言わなくても名前から何となくわかるだろうけど、男の子。年齢は12歳。
事情があって苗字が違う義父、東雲一馬という27歳の商社勤めのサラリーマンと
少し年上の29歳で同じ会社に勤めている東雲華という実の母親と三人で暮らしている。
家は新宿あたりにあって…と。
もしかしたら何故両親と苗字が違うのか気になる人がいるかもしれないからやっぱり先に書いておこう。
母の旧姓は白木といい、僕は二人が結婚するまで祖父の家で暮らしていた。
祖父は千人程度の社員を抱える商社の経営者で、とても、本当に、鬼のように厳格な人だ。
仕事も私生活も全てにおいていい加減なことを許さない。
そんな人だったので10代後半という若さで妊娠が発覚した途端、母は相手の父親と関係を絶たされ、
出産後はすぐに祖父の会社に入れさせられた。
そして僕は祖父の元、いつか白木家を背負って立つ人間として教育を施されるようになる。
幼い頃から学業、武道、教養とこれでもかという程詰め込まれた。
友達と遊ぶ暇も与えられない日々。
余りに疲れ、反抗すると徹底的にお仕置きを受けた。
蔵に三日間も閉じ込められ、意識を失うまで放って置かれることもあった。
そうやって死にかけるような思いを何度も繰り返す中で
僕は完全に祖父に逆らえなくなっていった。
その頃僕は母から一馬さんを紹介され、結婚することになったと教えられた。
それを聞いてもしかしたら鬼のような祖父の元を離れられるかもしれないと
考えた僕だったが、それは祖父に認められなかった。
祖父は会社の後継者として手ずから育て上げると言い切り、
二人は何度お願いしても認めてもらえなかったと聞く。
最後には僕自身が祖父の教育を必要としていると言い張られ、
二人が手出し出来ないよう、遠ざけられる羽目になったそうだ。
そこで一馬さんは祖父の不意を突くようにして
わざわざ結婚式の日に僕を車で連れ出し、
僕が本当に誰と暮らしたいかを問いただした。
祖父と共に暮らす選択だって十分に可能性がある。
教育も生活も優れた物を与えられるから。
それに対して俺たちが与えられるのは恐らく普通レベルの教育と…自由くらいだ。
どちらを選んでも君の自由だ。
これまではその機会すらなかったのだろうけど、今なら与えられると。
僕の気持ちは祖父の元を離れたいと強く決まっていた。
ただそれまで受けてきた恐怖が、それを望むことを許さなかった。
その様子を見て、一馬さんは何かを察したのかこう話してくれた。
もし答えが出せないのなら、そのまま黙っていてくれれば良い。
そうすれば君は悪い大人に誘拐された人質という立場で
新しい生活を送るという選択が出来る。
なにお祖父さんのことなんて怖がることはない。
その場合悪いのは全て俺たちだ。
君はなにがあっても怒られたりすることはないんだと。
いたずらっぽく笑いながらズルい選択を用意してくれた。
もちろんそんなもの、ただの方便といえば方便だったが、当時の僕にはそれは救いの言葉だった。
祖父の陰に怯えることなく二人との生活を選べることが出来ると
本気でそう思い、結局はその選択に甘んじた。
一馬さんたちの優しさに心から感謝しながら。
実際にはその後、祖父と一馬さんが相当話あったらしく
あくまで白木の性を名乗らせることだけは守るということで決着がついたらしい。
とにかくそうした経緯で僕は白木の性のまま、
そしてあくまで人質として…三人で暮らすことを選んでいる。
ずいぶん前置きが長くなってしまったけれど、ここからが本題だ。
この文章は自分の気持ちを整理する為に書いている
そう、読み手を意識することで状況を整理しやすくなるらしいとネットで知って実行に移している。
それだけ僕の心に、僕でも説明がつけられない程。不可解なことが起きている。
時間を少し進めよう。
暮らし始めて、僕は人質としての在り方というものを考えていた。
それまで全て祖父が僕の生活を決めていたから、
突然通うべき塾も、習い事も減って空白の時間が出来たところで
僕は自分がどうすれば良いのかわからなかった。
そこでとりあえず与えられた役割、つまり人質ということを…方便だとは理解した上で
本気でなぞってみようと考えた。
誘拐犯に当たるのは両親。
だけどいわゆる主犯に当たるのはこの場合一馬さんということになる。
実際に僕を拉致した。
実際に祖父と交渉した。
実際に計画を立てた。
これだけあれば彼を主犯とみなすのは当然だ。
次に人質の在り方とは何か。
それは誘拐犯に対して、巧妙に立ち回ることだ。
自分には価値があると思わせ、脱出の機会を伺い続ける。
それが人質としての自分の在り方であり、
それを成す為に誘拐犯の人物像を掴まなくてはいけない。
二年前の空っぽだった僕は本気でそう考え、実行に移した。
…今から思えばそれはどうだろうと思う部分も少なからずあるけど、
とにかく当時の僕は本気だった。
身長は他の大人よりも少し高いくらい。
家族で銭湯に行ったりした時に見た体つきは割と筋肉がある。
ねだれば一緒に遊んでくれるが、基本的にはよく本を読んだり寝たりしている。
お酒は呑むけれど、酔っ払うことはない。
会社の人からは結構頼られているらしい。
料理は下手で味覚音痴である。
多分甘いものの取りすぎで舌が壊れている。
当時のメモを振り返るとこんな風に書かれている…。
…僕も一体何を考えていたんだろう。
その中でも気になる記述を拾い上げるならこれだ。
…どうすれば喜んでもらえるのかが分からない…。
これだ。これが今の僕も悩んでいることだった。
二年間も一緒に暮らしていても、どうにも本当に一馬さんの心を掴めているか自信がなかった。
テストで満点を取ったり、おこずかいをやりくりしてプレゼントしたり
そういうことで喜んでもらえるかといえば褒めてはくれるけれど
認めてもらっているのかといえば微妙だった。
それでも一馬さんが今の生活に満足しているというのなら
僕もただ大人しくしていれば良い話だったろう。
だけどそうではなかった。
結婚生活が始まった当初こそ、何もかもが目新しい中にあって
一馬さんの心を理解することなんて出来ないのは当然だった。
だけど一年経ち、二年経つ中で一馬さんは少しずつ
僕らにも関心が薄れてきているように感じていた。
何もかも上手くいっているからこそ。
物足りないものを感じているのではないか…。
初めは人質ごっこから始まった僕の一馬さん研究はそう結論づけていた。
ただ僕は自分を助けてくれた一馬さんに喜んでもらいたかったし、必要とされたかった。
その心に偽りはなかったはずなのだけれど、そう結論づける中で
その”必要”の形が、便利だとか、気がきくとかそういうのではなくて
もっと支えになる、べき、というか…。
ストックホルム症候群という言葉がある。
人質が被害者という立場にも関わらず、誘拐犯による長期的な監視下という
特殊な環境に置かれ続けることで、逃避願望等の転換により犯人に好意を持ってしまうというそれ。
ケースによっては救出後、犯人を擁護したり、結婚に至った者までいるというそれ。
はっきり言ってそれに近い環境に僕は陥っている。
やはりこれは恋心だ。
不可解で認めがたい感情だったけれど、こうして状況を整理すればするほど
その結論を僕は認めざるを得ない。
僕はそうだ。
義理の父親に恋心を抱いている。
側で支え抜きたいとすら願っている。
こうなると僕がなんであの男に、ここまで腹が立ったのかもよく分かる。
あの時、一馬さんと二人であの男の家に行った帰り道、
とても楽しそうに一馬さんがあの男の話をとても楽しそうにするのを聞いて
なんで考えられないほど心の中が燃えたぎったのか。
それは嫉妬だ。
僕は一馬さんの心に入り込んだあの男に対して憎しみを覚えた。
本当ならば誰よりも僕に近いはずのその存在。
実の父親、西条彩人に。




