稚児のワンサイド・ゲーム
「東雲さん」
呼ばれて振り向くと同じ部署の事務担当である白木華が立っていた。
いつもは少し冷たいくらいの印象があるショートヘアの美人だが、今日は少し顔を赤らめ、何か言いにくそうにこちらを見ている。恐らくそのギャップに何か、ときめくものを少なからず感じてしまったことが原因だったのだろう。
「以前より好きでした。その、け、結婚してくださいっ!」
「あ、ああ。はい」
突然のプロポーズにうっかりとOKしてしまったのは。
本来の俺、東雲一馬は、男しか愛せないというのに。
第一章 稚児のワンサイド・ゲーム
「…もうあれから数ヶ月経つけど、まさか本当に結婚することになるとは思わなかったよ」
「えへへ、いいじゃない、そう何度も言わなくても」
突然の告白を受けてから、俺達は付き合い始めた。
流石にいきなり結婚というわけには行かなかったが、意外とウマがあったこと、そして何より彼女が社長こと白木辰彦の一人娘であったことが大きく、上を目指す俺は半ば打算も含めて婚姻を承諾した。
彼女の親にとって俺は会社の若手エース営業マンということもあり、人柄も信用出来るからとトントン拍子に式まで進んだのだった。
今日は日用品や食材を買い込んだ帰り道、新車で買ったスカイラインで海沿いの高速を飛ばしている。窓を開けて潮風を取り込みながらそっと彼女の横顔を伺うと、とても満足そうに風景を楽しんでいた。
全てが順風満帆というわけではない。
彼女にはまだ言えていないが、俺は世間で言うところのゲイだ。
それも大学を卒業するまでは月毎に男を変えるくらいの肉食系だった。
ただし、社会人になってからはノンケとして、秘密の趣味は自己処理の範囲に留めている。日本でも議論に上がるようにはなっているが、デリケートな分野であるには間違いなく、気軽にカミングアウトするにはまだ未成熟。うちのような昭和気質の会社では即座に出世の道が途絶えることは目に見えている。
だから、彼女との夜の生活も当然上手く行っていない。
何かと気遣ってもらえることはありがたいが、女性に対しどうにも体は望むままにはならない。何度臨んでも徒労に終わってしまうことに、彼女は少し悲しそうな目を見せるが、普段の生活では明るく接してくれることには感謝していた。また、幸いなことに子供が作れないことに対して俺たちがプレッシャーを感じることは無かった。
何故なら。
「ねえ、一馬さん」
後ろの座席から、声が掛かる。バックミラーをそっと覗きこむと黒髪の美少年と言ってよいだろう。小学生にして、この俺をドキッとさせるような大きく、利発そうな瞳とどこか大人びた顔つき、子供特有の天使のような透明感のある肌を備えた男の子が席を乗り出して話しかけていた。
そう、白木華は戸籍上で言えばバツイチではないが、連れ子が居た。
彼女は元々美術系の専門学校に通っており、ほんの一時期だけ男が居たらしい。
そのほんのひと時に運が悪いことに、いや俺にとっては幸いだったのだが、子供が出来てしまったそうだ。昔かたぎの社長はそれを知って激怒し、男と別れさせ、無理矢理自分の会社に彼女を勤めさせることにした。
息子である白木竜之介は私生子として、白木一家の中で育つことになる。
そして母親である華が結婚したことで、改めて東雲竜之介として俺と一緒に生活することになったのだ。
「一馬さん。ねえ、僕、お腹が空いてしまったよ。次のSAで休憩したいな」
「ああいいよ。そうだな。後10分くらいかかるからもう少し待っていなさい」
竜之介はありがとうと言ってスマートフォンをいじり出す。いつも遊んでいるアプリに戻ったのだろう。
先程の物言いもそうだが、竜之介はどこか冷めているというか、年の割にはとても落ち着いている。友達を家に連れてくることもなく、いつも本を読むかスマホをいじっている。かといってクラスで苛められているということもなく、大人のような立ち振る舞いを既に身につけ、上手くやっているとは華を通して担任から聞かされていた。
一緒に暮らすようになってもう数ヶ月は経つが、未だに竜之介のことはほとんど理解出来ていない気がする。呼ばれ方も未だにお父さんではなく、一馬さんであるし、距離感を感じざるを得ない。
俺は片田舎で育ってきたせいか、人との付き合い方など泥臭いやり方しか知らない。
一緒に風呂に入るなり、飯を食うなりしていけばそのうち仲良くなれるだろうと踏んでいたものの、勉強するだの、忙しいなどでいつも上手くかわされた。
せいぜい今日のような買出しに華も含めた上で付き合ってもらうことが限界だった。
SAに入り、三人でたこ焼きでも食べようということになった。
太平洋が見通せるテラスの眺めはまさしく絶景で、華は子供のように綺麗、綺麗とはしゃぎながらたこ焼きをほおばっていた。
彼女とは対照的に竜之介は物静かにたこ焼きを食べる。大き目のたこ焼きを少しずつ齧りながら味わう彼の唇が必然的にソースによっててらてらと輝く。本当に三年生かと思えるほどに色気を感じさせる彼に、俺はいつものように戸惑いを覚えた。
何かをごまかすように海へと視線をそらしながら、何度目かになる自問自答をした。
俺はこの子に恋慕の情を抱いてしまっているのだろうか。
そしてそれに対しての回答は常に否だった。
自分の性癖も確認しようと竜之介に似た男の子の画像も色々と見たが、惹かれるものは無かった。それに彼の仕草にときめくのは確かだが、付き合うなど想像も出来なかった。
それなのに彼であって彼ではない何かが確実に俺を惹きつけているのは事実で、不思議で仕方が無かった。
海鳥の影が俺たちのテーブルを横切っていく。
竜之介はたこ焼きを食べ終えていた。
この数ヶ月、そのことで悶々としていたのだが、先日思いもよらぬ形でヒントを得た。
一週間ほど前のことだ。
竜之介が寝静まった頃、俺は華に相談していた。
自分は家族として彼ともっと距離を縮めるにはどうすれば良いのか。
何度も相談したテーマであり、箱入り娘として安穏と暮らしてきた彼女に何がしかの知見を期待していた訳ではない。自分の考えを整理するという意味で相談を重ねていただけに過ぎなかった。
但しその日に限って、彼女が漏らした何気ない一言が妙に引っかかった。
「そうね、あの落ち着きようは“サイジョウさん”に似たのかも知れないわね」
口にしたあとハッとしたような素振りと共に、気まずげに口を閉ざした華であったが、俺は聞き逃さなかった。
“サイジョウさん”
あえて聞くようなことでもあるまいと触れることはなかったが、それは彼女の元彼氏であり、竜之介の実の父親の名前であることは疑いようも無かった。そして、その名を聞いた時に電撃的に閃いていた。俺を魅了する何かの正体は、まさしく竜之介に流れる“サイジョウ”の血に他ならないのではないかという推測を。それは男狂いという己の業が、長きに渡る抑圧に耐えかねて再び鎌首をもたげ始めたということであり、今の俺にとって最も恐れていたことだ。。
考えてはいけない。
理屈でそう、骨身に染みるほどに分かっていても、その時から俺は義理の息子を通して見えるサイジョウという陽炎に夢中になってしまっていた。
背は俺より高いのか、低いのか。芸術系の学校に通っていたそうだが今は何をしているのか。どんな顔で何を好むのか。そして嫌いなのか。
さすがに華に聞く訳にはいかない為、俺は以前よりも竜之介をよく観察するようになった。
髪をかき上げる仕草は必ず左手で行い、本を読むときは紙製の栞を使うことにこだわる。
うつ伏せで少し過ごしてから横向きになって眠る、焼き魚は頭の方から食べる。
雨が降れば裸足で過ごし、どちらかといえば暑がり。
そんなことを繰り返しているうちにいつしか、全てサイジョウ本人も同じなのか、確認したくてたまらなくなっていた。会ってどうしたいのかは分からない。付き合いたいとかそういう訳ではないが、ただ一目会いたいと強く願うようになっていた。
潮風が強くなる。
「先に戻っていて、いいかしら?」
初夏の折とはいえ、余りの風の強さに耐えかねたのだろう、華がそう告げたので、素直にキーを渡してやる。偶然とは言えチャンスだった。
華が離れ、竜之介と二人きりになった。
「なあ、竜之介」
「なに?一馬さん」
竜之介はスマホから一向に顔を上げようとしないが、構わず続けた。
「ちょっと嫌なことを聞いてしまうのだけど、いいかな?」
手に汗が滲むのを感じる。
「断っても続けるパターンだよね。その聞き方って。だからいいよ、話してよ」
言葉に詰まる。
皮肉の効いた返事はいつものことだが、これから聞くことが彼に不愉快な思いをさせるだろうということが重石になる。だが、このまま自分の気持ちを抑えることもまた難しい。
「すまん。それでは単刀直入に言おう。実の父親に会いたいと思うか?」
竜之介の方がピクリと動く。だがスマホから目を離すことはない。
「思わないかな」
そして吐き捨てるように言った。嫌と言うかもしれないとは思っていたが、予想以上に毛嫌いしているような物言いに心臓にヒヤリとしたものを感じた。
「僕は今の生活に満足しているよ。小学生の僕にフィルタリングのかかっていないスマホをくれるし、クラスの友達より高い生活水準で暮らしているもん。今更よくわからない実の父親に会った所で僕にメリットなんて無いもの」
俺は絶句してしまった。
確かに隔たりは感じていたが、こんな発言をするような子供だとは思ってもみなかった。生活水準など小学生が使う言葉なのだろうか。
「それにもし、親権がこっちにあるのに、無駄に実の父親に会ったりして向こうに変な勘違いさせたりさ、そう言うのって良くないよね。トラブルの種を蒔くだけだし、嫌かな」
ませた言葉遣いもすぎやしないか?近頃の子供は皆こういうものなのだろうか。深く考えず、あんぜんを考えてスマホを渡してしまったが、それの影響なのか?
「なあ、それでも一目くらいは会ってみたくはないか?いわば自分のルーツって奴だろ?」
何時の間にか威圧されている自分に気付き、巻き返さんとばかりに話してしまう。
竜之介は鼻で笑うように言った。
「うーん、やっぱり興味は無いかな。人間のルーツなんてアダムとイヴでしょ」
「いやそういうことじゃなくてだな…」
ダメだ。
大人びているとは思っていたが、まさかこちらが茶化されるとは。
営業マンとしては恥ずかしいが、年端も行かない少年と顧客では勝手が違いすぎた。上手く竜之介を唆し、サイジョウとの会見をセッティングして接点を得ようと思っていたが、水の泡になりそうだ。
だが、言い方はともかく物心もつかないうちに別れた父親と会っても仕方が無いというのは自然な考えではないか。むしろ華から上手く情報を引き出して素直に会いに行く方が良いのだろうか、子供を出汁にするのは間違っていたかもしれない。
「あの」
考えに耽っていると再び竜之介が口を開いた。
「でも、もし一馬さんが僕のことを想って父さんと会わせようとしてくれているのなら、少しだけ会ってあげても良いかな」
態度の急変ぶりに戸惑いは覚える。つい先程までのメリットが無いなどと話していた主張とはまるで間逆じゃないか。
「それは本当か?」
「うん。あと母さんが居ない時を見計らって提案してくれたってことは、一馬さんに言われたってことは内緒なんだよね?だから自分から興味を持ったって母さんには話すよ」
おかしい。余りにも俺にとって都合が良すぎる展開だ。
竜之介個人としてのメリットは無いけれど、この俺に貸しを作るチャンスは逃したくない、ということだろうか。
「だから僕の御願いを聞いてもらってもいい?」
やはりそうか。
子供の考えなど簡単なものだ。おおかたゲームソフトでも欲しかったところに、俺が弱っているところを見てつけ込もうとでもしたのだろう。
「構わないよ、言ってごらん」
「ええとね…」
竜之介にしては珍しく言い淀んだ。
そして、顔を上げてこちらを見る。
意外だった。
まるで突然告白してきた白木華のように、その顔は真っ赤に染まっていた。
「あの、僕と二人きりでお出かけしてくれない?」