総帥閣下の煩悶。
※旦那さんことレオンハルト視点です。
妻の額に浮かんだ汗を、ハンカチでそっと拭う。
すると彼女は伏せていた目を開けて、オレを見た。
「ありがとう、レオン」
気にしないで、という意図を込めて首を横に振る。
お礼を言われるような事ではない。
寧ろ、こんな事しか出来なくて申し訳ないくらいだ。
「他にも何か、して欲しい事は?」
「十分よ」
寝台のヘッドボードにクッションを重ね、そこに寄り掛かっているローゼは力なく微笑んだ。
破水が始まってから、そろそろ二時間が経つ。
陣痛の間隔も狭まってきたのか、痛みを堪えるような仕草をする事が多くなった。
だというのに、オレは何も出来ない。
ローゼは命がけで出産に挑んでいるというのに、オレは何て役立たずなんだろう。
「レオン」
ローゼは傍らにいるオレに手を伸ばし、つい数時間前と同じように頬を撫でる。
落ち込む子供を慰めるような手付きだった。
「そんな、今にも死にそうな顔しなくていいのに」
「……オレは役立たずだ。ローゼが苦しんでいるのに、何も出来ない」
「そんな事ない。汗拭いてくれたり、水飲ませてくれたりしたじゃない。それに、マッサージも。お医者様に相談して、わざわざ習ってくれたって聞いたわ」
「そのくらい当然だろう」
「そうかなぁ……? 出来ない人もいっぱいいると思うなぁ。寧ろ、出産に立ち会う旦那様の方が稀だと思う」
どうやら眠いのか、ふわふわとした口調でローゼは笑う。
柔らかな笑顔と口調。けれど顔色は蒼褪めており、手も冷たい。呼吸も浅くて、今にも消えてしまいそうな妻の姿に、胸が締め付けられるように痛んだ。
オレの頬に触れるローゼの手に、自分の手を重ねる。引き止めるように、細い手に頬を擦り寄せた。
「レオンは良い旦那様よ。やれる事は全部やってくれている」
「足りない。いっそ代わりたいくらいだ」
「私の役目がなくなっちゃうわ」
ふふ、とローゼは楽しそうに息を零す。
「ローゼは十か月も、子供を守り続けてくれていただろう。神様は気が利かないな。痛みくらい、オレに分けてくれたらいいのに」
冷えた指に自分の熱が移るように、少しでも温まってくれるようにと願いながら指を絡める。
この細い体で、これから壮絶な痛みに耐えなくてはならないのかと思うと、恐ろしくて堪らない。
代わりにオレが何か、差し出せたらいい。
妻と子供が無事なら、オレは何だって払うのに。
オレは祈るように願いながら、かつてないほどの無力感に苛まれていた。
「そんなこと言ってくれる旦那様、世界にどれくらいいるかな」
ぽつりと、ローゼが小さな声で呟く。
俯けていた顔を上げると、彼女は酷く優しい目をしていた。
「……口だけだ。実際は何も出来ていない」
「本当に出来るとしたら、躊躇わずにやるくせに」
「……」
何も言い返せずに黙り込むと、ローゼは喉を鳴らして笑った。
「ねぇ、レオン。私、幸せよ」
少女のように可憐な笑顔に、言葉を失くす。
あまりにも綺麗で、馬鹿みたいに見惚れた。
「大好きな人と結婚出来て、その人の子供を産める。しかも、その人は私の事を深く愛してくれるの。……これ以上ないくらい、すごく、凄く幸せ」
言葉通り、ローゼの笑顔は幸せそうだった。
心からの言葉に、オレはたぶん喜ぶべきなんだろう。
でも、オレの体は恐怖に震え出した。
「……レオン?」
繋いだ手から震えが伝わったのか、ローゼは不思議そうな顔で首を傾げる。
無垢な表情の彼女に覆いかぶさるように、体を抱き締めた。
「そう言ってくれるのは嬉しいけれど、今は止めてほしい。怖い」
「怖い……? 何故?」
「貴方が…………、いなく、なってしまいそうで」
遺言みたいだ、なんて言えなかった。
音にしたら現実になってしまいそうで、とてもではないが、口に出せない。
「……あ。あぁー、なるほど」
一拍遅れて、ローゼは気が抜けたような声を出す。
縋るように、震えながらしがみ付くオレの背を、彼女は擦る。『そういえば、死亡ふらぐだ』と独り言を零しながら。
「不吉な言葉は止めてくれ」
ふらぐ、とやらがどういう意味なのかは分からない。
分からないけれど、二度と言わないでほしい。
「ごめんなさい」
「……謝らなくていい。でも、嫌なんだ」
「うん、私の配慮が足りてなかった」
宥めるように優しく、ポンポンと背中を叩かれる。
これから父親になるというのに、妻に縋って、慰められている事が恥ずかしい。さきほどまでの無力感とは別の意味で、自分が情けなかった。
離れがたい気持ちを押し込めて、ゆっくり身を起こす。
「あのね、レオン。本当に心配しなくて大丈夫よ。兄様にも言った通り、安産だと思うの」
最愛の妻の言葉は信じたい。
けれど、今さっき知ったばかりの絶望が尾を引いている。
「……根拠は?」
つい訊ねてしまうと、ローゼは口角を上げる。
「母の勘」
目を丸くしたオレを見て、ローゼは『してやったり』と言わんばかりの顔をした。オレも釣られるように、眉を下げたまま笑う。
「それは信ぴょう性がある」
「でしょう?」
自信満々な様子のローゼを見ていると、さっきまで胸に巣食っていた不安が、いつの間にか消えていた。
「それに痛みがあるってことは、生まれる準備をしているって事だから……って、あいたたた……!」
「ローゼ!?」
話している途中で、ローゼは腰の辺りを押さえる。
痛みが激しいのか、横向きに体を丸めるようにした。
控えていた侍女が外へと出ると、さして間を置かず、医者や助産師、薬師達がゾロソロと入ってくる。
「失礼致します」
「そろそろ準備を始めましょう」
老齢の医者と女性の薬師は慣れているのか、取り乱しているオレとは違い、冷静そのものだった。
「では、旦那様は外でお待ちください」
「……傍にいる事は出来ませんか?」
「はい、失礼ながら……」
薬師が呑み込んだ部分……『邪魔』という言葉が、ハッキリ聞こえた気がした。
確かに、医学の知識もない、しかも狼狽える事しか出来ない男がいても邪魔にしかならないだろう。
トボトボと扉に向かいながら、未練がましく振り返る。すると、助産師の手を借りながら、体勢を整えているローゼと目が合った。
痛いだろうに、ローゼは小さく笑って口をパクパクと動かす。
声にならなかった言葉は『頑張るね』と言っていたように見えた。




