或る子爵の帰結。
※ミハイルとビアンカの実父、ディーボルト子爵のお話になります。
ディーボルト子爵家の現当主であるアルバンは、己が目で見ているものが信じられなかった。
送り主の几帳面さを表すような丁寧な文字で書かれた短い手紙を、再び初めから読む。睨み付けるような眼光で何度も、何度も。
しかし読み返したところで文面が変わるはずもない事を漸く認め、アルバンは手紙をグシャリと握り潰した。
「……っ、クソッ‼」
紙屑と化した手紙を、テーブルに叩きつける。振動でグラスが転がり、半端に残っていたワインがくすんだテーブルクロスに染みを広げたが、アルバンは気にも留めなかった。そんなものに割く心のゆとりすら、今の彼にはない。
直系の子供が、二人揃って籍を抜いた。
しかも当主であるアルバンに断りもなく独断で決行し、手続きが終わった後ですら、手紙の一つも寄越しはしない。
許しがたい暴挙だ。
古くからの慣例を無視するなど、蛮行にも等しい。
しかしアルバンは、一度は譲歩した。
自分からの手紙で彼等が己の無知に気付き、悔い改めるのならば、寛大な心で許すつもりだった。
ところが子供達からの返事の内容は、アルバンの望みからはかけ離れていた。
長女であるビアンカからの返事は簡潔に一言。二度と関わるな、それだけ。
次男であるミハイルは丁寧な文章ながらも、はっきりと決別を突き付けてきた。
「どうして」
どうしてこうなった。
何度考えても、分からない。
いつどこで、何を間違えたのだろうか。
アルバンの人生は順風満帆だった。
少なくとも少年期は、そうであったはずだ。
ディーボルト家は高位貴族ではなかったが、それなりに裕福で、アルバンは何不自由なく暮らしていた。
両親は多忙であったが、アルバンに無関心ではなかった。
忙しい合間を縫って時間を作ってくれたし、信頼出来る使用人を傍に置いてくれたので、寂しい思いをした事はなかった。
特に庭師の娘であるクラーラは、アルバンにとって大切な人だ。
勉強や鍛錬に疲れると、アルバンはいつもクラーラに会いにいった。すまし顔の貴族令嬢達とは違い、クラーラはいつも輝くような笑顔でアルバンを迎えてくれる。つまらない駆け引きなどせず、全力でアルバンに好意を伝えてくれた。
アルバンにとってのクラーラが、最も気の許せる幼馴染から、最愛の恋人へと変化するまで、そう時間はかからなかった。
少年期のアルバンの人生は満たされていた。
優しい両親と信頼出来る使用人に囲まれ、愛しい恋人まで出来た。
アルバンは、この幸福がずっと続くと信じていた。
しかし父が怪我をした頃から、輝かしい未来に陰が差し始めた。
父の怪我は想像よりも悪く、ある程度治っても、歩行に支障が出るらしい。元来、気の弱い母も社交に疲れていたので、夫婦揃って引退する事を決めた。
若くして当主となるアルバンの為、父は一年かけて仕事を教え、立派な家柄の令嬢との縁談を整えてくれた。
しかし、アルバンにはクラーラがいる。父には結婚前に別れるようにと言われたが、アルバンは愛する人を手放す事は出来なかった。
父が領地の別邸に移り住んだ後も、手紙は届いた。
妻を大事にするようにと何度も言われたが、アルバンは見ない振りをした。
クラーラが妊娠し、妻が心を病んだ事も、アルバンは見ない振りをした。
クラーラの子供を長男として認知したせいで、親族達が離れていった時も。
アルバンの妻への態度を見兼ねて、諫めようとした側近が退職した時も。
妻が生んだ男子が魔力持ちであった事も、それを気に病み、妻が本格的に心を病んだ事も。
その子供が家を出た事も、長女が自分を見限り、家を出た事も。いつの間にか、愛した人との間に生まれた子供さえもいなくなっていた事も。
アルバンは全て、見ない振りをした。
それが一番楽だったからだ。彼はずっと、ずっと、逃げ続けた。
だから今、アルバンの周りに何も残っていないのは、当然の結果だった。
しかし責任から逃れ続けたアルバンは、罪の意識さえも希薄。
だからこそ、『どうして』なんて言葉が出てくる。
彼以外の誰が見ても、理由は明白だというのに。
「失礼します」
アルバンが頭を抱えて項垂れていると、唐突に扉が鳴った。
「誰だ」
使用人には暫く近付くなと言いつけてあるのに、何用だとアルバンは苛立つ。
しかし入ってきたのは使用人ではなく、見知らぬ青年だった。
「お久しぶりです、兄上」
アルバンは呆気にとられた。
青年の顔を繁々と眺め、漸く、青年に自身の父親の面影がある事に気付いた。
「ファビアン、か……?」
年の離れた弟とは、殆ど会った事がない。
節目ごとに送られてくる両親からの手紙には成長が綴られていたけれど、実際に会った回数は片手で足りる程度。
最後に会ったのは十年近く前で、父の葬儀の日だ。しかし、その日もアルバンは、彼と殆ど話す事はなかった。
二人きりの兄弟だなどと言われても、実感はない。寧ろ気まずくて、葬儀の段取りや相続の手続きなどを理由にして、接触を避けた。
「……何か用があるのなら、先触れくらい出してくれ」
「手紙は何度か出しましたが、お返事がなかったもので。少々、強引な手を取らせていただきました」
ちらりとファビアンはテーブルに視線を向ける。
そこには、さっきアルバンが握り潰したばかりの手紙以外にも、未開封のものが無造作に投げられていた。
アルバンはきまり悪さを誤魔化す為に、手紙を乱雑に纏めて横に置く。
「い、忙しかったんだ。それで、何の用だ?」
ファビアンは、アルバンをじっと見つめる。無言で向けられる静かな眼差しに、アルバンは居心地の悪さを感じた。
上質なオニキスのような瞳に、ふっと諦観が過る。
「……兄上。もう止めませんか」
「……何?」
「当主を降りてください」
まるで明日の予定でも提案するかのような平坦な声で、ファビアンは言った。
「は……、なに、何を言って……」
愕然とするアルバンを、ファビアンはただ静かに見つめ続けた。
穏やかでありながら揺らぎのない眼差しは、亡き父を思わせる。まるで父に見放されたような錯覚に陥ったアルバンは動揺し、呼吸を乱した。
「な、いま、今更、何を言っている⁉ 今になって爵位が欲しくなったのか⁉」
「ディーボルト子爵家にそのような価値がないのは、貴方もよくご存じでしょう」
「……っ、それは」
「貴方が長い時間をかけて散々貶めた醜聞塗れの子爵位など、誰も欲しがりませんよ。現に強欲な親族ですら、貴方から距離を取っている」
アルバンは血が滲むほどに強く、唇を噛んだ。
叫びだしたい程の怒りを感じていたが、言い返す言葉が見つからなかったのだ。あらゆるものから目を逸らし続けてきたアルバンでさえ認めざるを得ないくらい、ディーボルト子爵家の凋落は明らかだった。
「おま、お前だって今まで、何も言ってこなかったではないか!」
「ええ、私は何もしませんでした。私はずっと部外者だった。直系としての特権を行使していない代わりに、自由が許されていたので、それでいいと思っておりました。最後まで部外者で、傍観者の立場を貫こうと」
「ならば」
「それを今、後悔しております」
「は……」
「貴方が冷遇した息子は……、ミハイルは、貴族として領民に恩返しをしたいと考えているんです。裕福な貴族の子に生まれながら、ささやかな贅沢も許されず、まともな教育さえ受けさせてもらえなかったのに、義務を果たそうとしているんですよ」
私は自分が恥ずかしいと、ファビアンは、噛み締めるように呟いた。
アルバンは何も言えなかった。生まれた時から多くを与えられ、食い潰してきただけの彼には、何も言えるはずがなかった。
化け物と罵った子供の顔が、ぼんやりと頭に思い浮かぶ。
気弱で大人しく、人の顔色を窺う子供だった。母親と姉をいつも気遣い、使用人にさえも礼を言うような子だ。
虫さえも殺せない子供は、多くの人間に傷付けられ、踏みつけられただろうに、そのまま優しさを損なう事なく育ったらしい。
化け物どころか聖人だ。
寧ろ、化け物は……。
「今更と仰いましたね。そう、もう遅過ぎるくらいだ。今からではどれほどの事が出来るかは分かりませんが、私が一生を賭けて、返せるだけ、領民に返すつもりです」
決然とした表情のファビアンは、ひたとアルバンを見据える。
「ですから、兄上。そこを退いていただきたい」
「……っ」
ひくりと、喉が震える。アルバンの頭は真っ白だった。
逃げ続けたアルバンには、何もない。足掻く言葉も、意地を通す意志も、虚勢を張るだけのプライドさえも。
何もないアルバンは、ただ震える事しか出来なかった。




