王妃陛下の回顧。
※ローゼマリーの母親、王妃の視点になります。
珍しくも、夫である国王に執務室へと呼び出された。
いつまでも身を固める様子のない息子二人の縁談についてかと思い、少々億劫な気持ちを押しやって向かってみれば、全く違う話を切り出された。
「……今、なんとおっしゃいました?」
凝視しながら問いかけても、目の前の人物の表情は欠片も崩れない。
私の鋭い眼差しを平然と受け止めて、口を開く。
「アレが妊娠した」
「……アレとは」
震える声で問いを重ねる。すると彼は、軽く息を吐く。面倒臭いと言いたげな顔は、それでも憎たらしい程に美しかった。
「私とお前の娘だ」
少々投げ遣りな口調から察するに、私と入れ替わりで退室していった息子達とも、似たような遣り取りを既にやったのだろう。
些細な問答を面倒臭がるくらいなら、そもそも指示語ではなく名前を呼べと思わないでもないが、今はそれどころではない。
ローゼが妊娠。
私の可愛い娘に、子供。つまり私に、可愛い孫が出来る!
なんて喜ばしい一報だろうか。
対話能力に壊滅的な欠陥がある夫に構っている暇などない。
「今日と明日……、いえ、一週間ほどお休みをいただきますわ」
「……落ち着け」
お前もかと言わんばかりの視線が向けられる。
呆れたと表情と声で示されて、密かに苛立つ。
「身内とはいえ、客が来れば対応せざるを得なくなる。暫くは放っておいてやれ」
夫に常識を説かれるのは、正直屈辱だった。
自分がルールだと言わんばかりの行動を取るくせに、こんな時ばかり。そう歯噛みしつつも、言っている事はまともであったので、反論も出来ない。
ローゼの母として訪問しようとも、私がこの国の王妃である事に変わりはない。娘の傍で何か手助けをしてあげたいと思っていても実際は逆。警備や接待で無駄に手を煩わせるだけだ。
不満をぐっと飲み込んでから、脱力する。
ソファの背凭れに、体を預けた。
「……こんな地位、さっさと誰かにあげてしまいたいわ」
溜息と共に独り言を吐き出す。
私の両親……特に母は王妃という地位を、『女性にとって至上の幸福』だと考えていた節があったけれど、私はそうは思わない。
人も金も思いのままだなんてただの幻想。表面上は傅かれていても些細なきっかけで足を引っ張られ、予算の使い方を誤れば、各方面から突かれる。
責任と制約ばかりが増えていく、とても不自由な地位だ。
もっとも、そう気付いたのは結婚してから十年以上が経ってからだったけれど。
政略結婚で結ばれた両親は、私が物心ついた頃には既に不仲だった。
由緒正しい侯爵家の人間らしく見栄は人一倍であった為、表面上は仲睦まじい家族を演じてはいたものの、実情は他人よりも距離がある。
父は仕事が第一で家庭を顧みる事はなく、母はそんな父に当てつけるように娘の教育に固執した。良家に嫁ぐ事こそが女の幸せだと繰り返していた母は、王妃陛下が病で亡くなられた事でそれまで以上に歪んだ。後妻として自分の娘を嫁がせ、王家の外戚となるチャンスだと、そう捉えたのだろう。
人の死を……しかも我が国の王妃陛下の死を悼むのではなく、喜ぶ母の悍ましさに、当時の私は気付けなかった。
つまりは私も親と同じく、非道な化け物であったという事。
母の思惑通りに王妃となったが、愚かな小娘であった私には過ぎた地位だった。
夫を振り向かせようと躍起になり、叶わないと分かると使用人に当たり散らす。母親を亡くしたばかりの義理の息子を慰めるどころか、虐げる。腹を痛めて産んだ我が子でさえ、思い通りにならないからと閉じ込めた。
御伽噺に登場する魔女のようだと、我が事ながら呆れる。
手本となる存在が両親だけだったなんて、言い訳にもならない。
だって私の娘は立派に成長したではないか。私も、おそらく夫も、まともな愛情を与えた記憶すらないのに、あんなにも素晴らしい女性に育ってくれた。
「アレは何なのだろうな」
静まり返った部屋にぽつりと落ちた呟きに、意識を引き戻される。
ふと顔を上げると、執務用の椅子に深く腰掛けた夫がぼんやりと虚空を見上げていた。
腹の上で指を組み、長い足を投げ出している様は脱力しているように見える。目さえ開いていなかったら、眠っているのだと疑わない程に。
珍しい姿に驚きながらも、言葉を拾う。
「……私達の娘ですわ。親に似ずに立派に育ってくれた、大切な子です」
夫は怒る事なく、「そうだな」と端的に肯定した。
夫の過去を詮索した事はないけれど、おそらく彼もまた親の愛情を知らずに育ったはず。
母親は流行り病で早世し、父親である前国王陛下はとても厳格な方だったと聞く。後継者として厳しく育てられたであろう事は、今の夫を見れば一目瞭然だ。
私達はどちらも、家族の何たるかを知らない。
形だけ親になっても子供の愛し方も育て方も分からず、ただ自分と同じ欠陥品を生み出すだけの悲劇になるのだと思った。
しかし、結果は違った。
幼い頃は父親に似た無機質な瞳をしていたクリストフは、いつの間にか穏やかな微笑みを浮かべるようになった。
母親である私に似てヒステリックな一面を持つヨハンは、理性で抑える術を学び、敬遠していたクリストフとも交流を持つようになった。
親である私達が放棄した役割を担い、穴を埋めてくれていたのは幼い娘だった。ローゼがいたからこそ、クリストフもヨハンも立派に成長してくれたのだと思う。
しかもそれだけに留まらず、あの子は私まで変えた。
不出来で愚かな母親を見限る事なく、やり直す機会を与えてくれた。
「何一つ、与えてこなかった。愛情も、親らしい言葉も、何も」
夫の声に悔いる響きはなく、常と同じ淡々としたものだ。それなのに少しだけ寂しげに聞こえるのは、私が抱えている罪悪感のせいか。
「親が私という存在を作った工程と同じはずだ。だというのに、何故、あんな想定外の生き物に育ったのか」
感嘆するように、吐息を零す。
「兄弟の手を引き、日の当たる方へ連れ出しただけでは気が済まずに、私達にまで手を伸ばしてくる。……その上、ここに」
夫は、掌を己の胸に押し当てた。
心臓の真上に手を置き、目を伏せる彼の姿は、まるで敬虔な信者のようだ。教会の像のように、触れるのを躊躇うような美しさがある。
もっとも夫は、神に救いを求めた事など一度も無いだろうけれど。
「空洞だった場所に勝手に感情を植え付ける」
身勝手極まりない、と呟く表情が柔らかく見えるのは、たぶん錯覚ではない。
「……素直に幸せだと仰ったらいかが?」
背凭れから身を起こした夫は、ふ、と口角を上げる。
笑えるようになったのかと、感慨深い想いが込み上げてきた。
大陸中に名を轟かせる、賢王ランドルフ・フォン・ヴェルファルト。
優秀な頭脳と圧倒的なカリスマ性でネーベルを統治する国王は、臣下や民に敬愛される一方で、畏怖される存在でもある。
年不相応な威厳と迫力、それから硬質な美貌も近付くのを躊躇わせる一因かもしれない。長年仕えた側近や親類であっても例外ではなく、夫の周りには、誰であっても踏み込めない領域があった。
妻となった私も言わずもがな。
必死になって縋り付く私に向けられたのは、炎も凍るであろう冷たい一瞥だけ。近寄るなという言葉すらなく、私の心を折る。
この方は一生、誰にも心を許さずに死ぬのだろうと思った。
ところがその不可侵な領域に、堂々と乗り込む者がいた。娘だ。
大の男でも怯む夫の視線をものともせず、正面からぶつかっていったローゼは、夫の興味を引いた。
しかし関心を持ったとはいえ、夫は決して優しくはなかっただろう。
子供相手でも手加減などせず、挫折すれば容赦なく切り捨てられる。常に綱渡りのような緊張感を強いられながらも、挑み続けたローゼがいたからこそ、今の夫がある。
「親にも夫にもなろうとしなかった私が、勝手に爺になっているとはな。人生何が起こるか分からないものだ」
いつになく穏やかな顔で呟く夫を見ながら、心の中で同意する。
本当に、人生は何が起こるか分からない。
「楽しみですね」
自然と口角が上がる。
「……そうだな」
結婚して初めて、夫とまともに意思疎通が出来た気がする。
この人とは一生分かり合えないと諦めていたけれど、もしかしたら。
普通の夫婦のようにはなれなくとも、いつか、古い友人のような存在にはなれるだろうか。
昔の私が聞いたら、あり得ないと一蹴しただろう。
しかし今、ぼんやりと物思いに耽る夫を見れば、そう無謀な夢でもない気がしていた。




