転生公爵の敗北。
立ち上る湯気と共に、酸味の強い香りが漂う。
磨き抜かれた銀のスプーンを手に取り、紅茶を軽く混ぜた。
白磁のティーカップの中、ぷかりと浮かぶのは輪切りのレモン。昔は見かけた事が無かったが、他国から流れてきて、ここ数年で根付いた文化だ。
ストレートとミルクティーに飽きた御婦人方に、すっきりとした味わいが人気らしい。
以前、ネーベル王国にレモンティーは無いんだなと思った事があったけれど、まさか後から流行るとは。
レモンそのものはあったので、やろうと思えば出来ない事も無かった。しなかったのは、単純に好きではなかったからだ。
レモンも紅茶も好きなのに、合わさると何故か苦手だった。
味が嫌だったのか、匂いが駄目だったのか、今となっては分からない。何せ、克服してしまっているから。
少し前からプレリエ領でも流行り始めた為、他所のお宅や店でも出される機会が増えた。苦手だからと気遣いを無視する事も出来ず、無理やり飲んでいたら慣れたらしい。
最近は寧ろ、美味しく感じるくらい。
スプーンでレモンを取り、ソーサーの上に避ける。
ハンドルに指を掛けて持ち上げて一口含むと、濃い香りが鼻を抜けた。
やはり、美味しい。
年を取ると味覚が変化すると聞くけれど、こうもガラッと変わるとは思わなかった。
自身の小さな成長を喜んでいると、紙を捲る小さな音がした。
目の前にいる人をちらりと盗み見てから、ふ、と息を零す。
成長と言えば、もう一つ。
幼い頃は、この部屋に入るだけで胃が痛んだものだ。ゆっくり紅茶を味わうような心の余裕を持てるようになるとは。
いや、余裕があるとは少し違うな。
強く、いや、逞しくなった……?
「随分と図太くなったものだ」
私の心の声を読み取ったかのような声が掛かった。
顔を上げると、薄青の瞳とかち合う。年を重ねても、凄味のある美貌に一切の陰りは無い。相変わらずの年齢不詳な外見にも拘らず、迫力だけは増すのだから厄介だ。
「お陰様で」
にこりと笑って返すと、面白くなさそうに鼻を鳴らし、再び書類に視線を落とした。
私が図太くなった原因の一端は、目の前の人……父様にある。
いたいけな子供相手に、何度も何度も無理難題を押し付けて。崖から這い上がってきたところを、また突き落とすんだから質が悪い。獅子だってもうちょっと優しいと思う。
ただ、悔しいけれど感謝もしている。
父様に放置されて、大人しく淑女教育だけ受けていたら領主なんて出来なかっただろう。完全なお飾りで、執務はレオンハルト様に投げっぱなしだったはず。
そもそも私が普通の王女として生きていたら、レオンハルト様と結婚する事もなく、公爵位を賜る事も無かっただろうけど、それはそれとして。
今が最高に幸せだから、細かい事は気にしない。
「お前一人で纏めたのか」
顔を上げた父様は、「これを」と書類を手の甲で叩きながら問う。私が提出したのは『奨学金制度』についての草案だ。
「まさか」
即座に否定した。
私が提案したのは、ザックリした枠組みだけ。
前世の記憶でぼんやりした知識はあっても、細かい部分など覚えていない。しかも、こちらの世界に適したものに変える必要がある。
細かい条件や仕組みを共に考え、穴を塞いで形を整えてくれたのは、旦那様を筆頭にした頼もしい仲間達だ。
「我が領には有能な人材が揃っておりますので」
「だろうな」
父様の眉間に皺が寄った。
「対象は平民に絞らなくていいのか」
「はい」
金銭的な理由で就学を諦めるのは、何も平民に限った話ではない。
裕福な平民がいるように、困窮している貴族もいるのが実情だ。
それに、女性の多くは勉強の機会を与えられない。他国に比べてネーベルは女性の社会進出が進んでいるとはいえ、まだまだ男尊女卑の風潮は強い。
平民でも貴族でも、男でも女でも関係ない。
能力も志もあるのに、金銭的な理由で埋もれてしまう才能を、拾い上げて開花させる事が目標なのだから。
「いいだろう」
「!」
「だが、利子の有り無しの判断基準がまだ甘い。そこを詰めて、もう一度持って来い」
「かしこまりました」
微笑む私の心の中もニッコニコだ。
父様相手に一度で通らないのは分かり切っているし、寧ろ思ったより好感触だった。
「本当に図太くなったな。何処かで可愛げを拾ってきたらどうだ」
「まぁ。面白い御冗談ですこと」
父様の前で可愛げが何の役に立つと言うのか。
純真無垢でいたいけな子供だった私を、欠片の容赦もなく谷底に突き落としたくせに。
「私が強くなったのは父様のお蔭ですので、感謝しております」
突き返された書類をトントンと揃えていると、父様は呆れたような顔をした。
『図太い』と『強い』は違う、と視線が言っている気がするけれど知った事ではない。
あ、そうだ。
感謝で思い出した。もう一つ、大事な用があったんだった。
「そういえば、父様にお渡ししたい物がございました」
「……渡したい物?」
胡散臭いものを見るような視線をスルーして控えていた侍女を呼ぶ。
受け取った青いベルベットのケースを、父様の前に置いた。
「私からの贈り物です」
「お前が、私に?」
父様は珍しく驚いている様子で、長い睫毛がゆっくりと瞬く。
箱を手に取って開く動作も、やけに遅くて丁寧に見えた。
「はい。是非、広告塔……ではなく、お父様に着けて頂きたくて」
正直な心の声が洩れかけたのを、どうにか軌道修正する。
断られやしないかと内心ビクビクしながら、領地にいる職人の話や、オステン王国の装飾品の技術について喋っても、いまいち反応が鈍い。
いや、鈍いどころか無反応だ。
無表情はいつもの事だとして、小馬鹿にしたような顔でも、退屈そうな顔でもない。何にも分類できない表情には、子供みたいな無防備さがあった。
何とも言えない沈黙が続いたのは、おそらくほんの数秒。
しかし私には、やけに長く感じた。
贈り物に視線を落としたまま、父様は細く息を吐き出す。
「……国王に宣伝させようとは、良い度胸だ」
目的はまるっとバレていたらしい。
「たまには、その素晴らしいお顔を役立ててくださっても宜しいのでは?」
「お前からの贈り物だと喜んでいた王妃や王子達が聞いたら泣くな」
開き直って言ったら即座に返されて、言葉に詰まる。
母様と兄様とヨハンには、王都に来てすぐに渡した。とんでもなく喜ばれて、罪悪感に苛まれたのは記憶に新しい。
宣伝に一役買ってほしいのも事実だけど、感謝の気持ちがあるのも本当なのに。
「……お嫌でしたら、持ち帰ります」
我ながら、拗ねた子供みたいな声だと思った。
返せと掌を向けると、父様は箱を遠ざける。
「嫌とは言ってない」
じとりとした目で睨むと、父様はふっと表情を緩める。
笑っているかと錯覚するような柔らかな顔が珍しくて、私は目を丸くした。
「娘からの贈り物を嫌がる親など、いるものか」
「っ!?」
カッと顔が熱くなる。
真っ赤になるのが自分でも分かって慌てて隠す。
けれど父様はどこ吹く風だ。ベルベットの箱を閉じて、「貰っておく」と言う顔は、いつものふてぶてしさに戻っていた。
「……狡い……っ」
謎の敗北感に、つい呟く。
何か言ったかと問う視線に、ふいっとソッポを向いたのは小さな抵抗。けれど自分の子供っぽさを再確認して、敗北感が増すだけだった。
やっぱり父様は苦手だ。




