第一王子の憂鬱。
※ネーベル王国王太子 クリストフ・フォン・ヴェルファルト視点となります。
「はい、確認致しました。本日分はこちらで最後です」
書類に目を通していた補佐官は、顔を上げてそう告げる。
羽根ペンを置いた私は、窓の外へと視線を移す。太陽の位置は低くなっているものの、まだ夕暮れと呼ぶ時間ではない。
執務を始める前には、今日中が期日の書類が山のように積まれていた。遅くまでかかるかと胸中でげんなりしていたが、想像以上に捗ったらしい。
「お食事まで時間がございますので、お茶の用意をさせましょうか」
「いや、いい」
夕食は簡単に済まそうと考えていたのに、まさか休憩を挟む余裕すら出来るとは。
我ながら分かり易い事だ、と自嘲とも羞恥とも取れる感情が湧き上がった。
私の仕事の進捗には、昼前ぐらいに届いた手紙が大きく関わっている。
執務机の隅。常に視界に入る位置に置いた手紙に手を伸ばすと、補佐官は笑顔になる。微笑ましいものを見るような視線に、ばつが悪くなった。
「では、各部署に書類を届けて参ります」
賢明な補佐官は余計な事は何も言わなかったが、眼差しが『ですから、ごゆっくりどうぞ』と語っていた。
二十歳を超えて子供扱いされるのには抵抗がある。しかし、最愛の妹から届いた手紙に浮かれていた自覚はあるので、何も言えない。
気恥ずかしさを誤魔化すように、咳払いを一つ。
改めて開いた手紙は、女性らしい綺麗な文字が並ぶ。『親愛なるクリストフ兄様へ』という書き出しで始まった文章を、ゆっくりと目で追った。
普段の手紙は、ローゼや周囲の近況、それから領地の様子が殆どを占める。だが今回は、そこに付け加えて嬉しい報告があった。
なんと近々、ローゼが王都に来るらしい。
直接会えるのは結婚式以来だから、一年以上ぶりだ。
領地運営に尽力していたローゼは自領から出られず、王太子である私も、簡単には王都を離れられない。
仕方のない事だと分かっていても、やはり寂しかった。
ヨハンがお忍びで会いに行ったと聞いた時は、可愛い弟相手でも少しばかり妬ましく思ったりもしたが……。
私も会えると決まった今では、寛容な気持ちで全てを受け入れられる。
鼻歌でも歌いそうな気分で、手紙を読み返す。
すると何処からか、視線を感じた。
「!?」
顔を上げた私は目を瞠る。
誰もいないと思っていた室内に、いつの間にか人がいた。
戸口に背を預けたその人物は、呆れを隠しもしない視線を私に向けている。
「その締まりの無い顔を止めろ。『完全無欠の王太子』の名が泣くぞ」
尊大に言い捨てられ、言い返したいのに言葉に詰まる。
『完全無欠な王太子』なんて恥ずかしい名で呼ばれたくないとか、いつの間に入って来たんだとか、文句は山ほどある。
だが、締まりの無い顔をしていた自覚もあるので、反論し辛い。
「……陛下、入室前に一声かけていただけませんか」
悩んだ末、代わりに出て来たのは小声での苦情。情けないとは、誰に言われずとも自分が一番そう感じていた。
しかも相対する人物……国王に、溜息交じりで「かけた」と言われてはぐうの音も出ない。
「返事が無かったのでな、勝手に入らせてもらった」
集中しているのを邪魔したな、と淡々と続けられて口を引き結ぶ。
口角を一切上げない無表情のまま、嘲笑われた。こんな屈辱を味わうくらいなら、正面切って叱責された方がマシだ。
「ご用件は?」
苛立ちを抑え付けて、端的に問う。
どうせ口論しても負けるのだから、無意味な時間を費やしたくない。さっさと追い返すのが得策だ。
「これだ」
国王は手に持っていた物を、執務机の上に放る。
少々、無造作とも言える手付きで置かれたのは分厚い本……ではないな。見慣れてしまったソレの正体は絵だ。
見ずとも分かるが、全て、若く美しい令嬢が描かれている。
将来の伴侶を選ぶ為、つまり見合い用のものだ。
うんざりした気分に合わせて、顔が勝手に歪む。
自分が結婚適齢期であるのは理解しているが、ここ最近は頓に酷い。社交の場に顔を出す度に囲まれ、ギラギラした目で結婚の話題ばかり振られては辟易する。
王太子となったからには、婚姻は義務だ。
周りを取り囲む令嬢方にも各々の事情があり、自らの欲でなく、家や領地の為に動いている女性もいるだろう。
分かっていても、まるで自分が種馬にでもなったかのような気分になる。
「手ずからお持ちくださらなくとも、届けさせれば宜しかったのでは」
「部屋の隅で埃を被っている物を見て、もう一度言ってみろ」
「…………」
無言で、すいと視線を外した。
有能な使用人らのお蔭で埃は被っていないものの、一度も見ないまま放置している絵の山がある。
補佐官や他の側近には、たまに遠回しに苦言を呈された。けれど私が多忙であるのもあり、食い下がられはしない。
そろそろ呼び出されるかもしれないとは思っていたが、自ら乗り込んでくるとは予想出来なかった。
「お前達は本気で結婚する気があるのか?」
「必要に迫られれば、いつなりとも」
国の為の政略結婚だと言われれば、どんな相手であっても結婚する覚悟はある。
そして結婚したからには、妻を幸せにする努力は欠かさない。
けれど、好きにしろと言われたら逆に困る。
派閥や情勢を鑑みて、最適な相手を……という風にしか考えられない。だが、それは本当に正しいのか。
功績を挙げ、愛する男との結婚を勝ち取った妹の顔を思い浮かべると、考えが揺らぐ。
「締まりの無い顔で妹からの手紙を読んでいる限り、その日は遠そうだ」
「……放っておいてください」
「アレが男だったのなら、後継者問題は簡単に片付いただろうな」
国王は眉間に皺を寄せて呟く。
アレとは、ローゼの事だろう。
「ラプターの王女も、お前達には欠片も興味を示さず、アレの話ばかりだった」
先日、ラプターの王女殿下が我が国を訪問した。
美しいが油断ならない毒花のような女性だという噂を耳にしていたが、直接会った彼女は穏やかな方だった。
賢い女性のようで会話の端々から知性を感じたが、作為は無かったように思う。
特にローゼの話題を振ると、年相応な少女のように表情を緩めた。いつの間にか妹は、元敵国の王女とすら仲良くなっていたらしい。
あの子の社交性や人望には、驚かされる。
確かにローゼが王子だったのなら、地位や権力など関係なく、嫁ぎたいと願う女性が列を成しただろうな。
それに私も、ローゼが王太子となるなら席を譲る。
ヨハンと二人、喜んで補佐に回ろう。
「ありもしない未来を夢想する暇があるなら、釣書に目を通せ」
想像を膨らませているうちに顔が緩んでいたのか、小言が飛んでくる。
煩わしさを隠しもせずに顔を顰めると、眇めた目で睨まれた。
暫しの睨み合いの後、国王は嘆息する。
「結婚相手を選べる権利を、不要なもののように扱うな。命を懸けてそれを欲した人間がいる事を忘れるなよ」
「!」
思わず息を呑む。
胸を刺し貫かれたような衝撃を受けた。
そうだ。
妹は、ローゼは、許されなかった。想う相手がいるのに、隣国との同盟強化の為、政略結婚を強いられそうになっていた。
愛する人の手を取る為に、あの子が何度、危険に飛び込んで行ったか。レオンハルトと結ばれるまで、どれ程の困難を乗り越えてきたか。
愛する妹の努力を、間接的であっても、私が軽んじていいはずがないのに。
「……申し訳ございません」
悔いる気持ちを吐き出し、首を垂れる。
顔を上げた先、国王は相変わらずの無表情で、何を考えているのかまるで分からない。
しかし国王もまた、結婚相手を選べなかったはずだ。私の産みの母親も、おそらく義母上も政略の為の婚姻であっただろう。
平和な時代だからこそ許される自由を、当たり前だと享受してはならない。
「理解したのなら、目を通しておけ」
「かしこまりました」
私は父が好きではない。
だが、国王としては尊敬している。現在のネーベル王国の発展は、この人無くしてはあり得ないのだから。
きっと学ぶべきところも多い。
苦手だと子供のように避けて通るのではなく、話を聞いてみるのも良いかもしれない。
用件は済んだとばかりに出ていこうとする背を見送る。
しかし国王は、ぴたりと足を止めた。
「今度、お前の絵も新たに描かせるか」
「私の、ですか? 確かに前に描いたのは二年前ですが、あまり変わってはいませんが」
見合い用の絵と実物がかけ離れていては不味いが、私の成長期は既に終わっている。
二年前も今も、さして変わりはない。
「いや。不愛想で面白みのない顔よりも、さっきの締まりない顔の方が令嬢方も安心するかと思ってな」
「!」
またしても無表情で嘲笑された。
唖然とした後、怒りが込み上げてくる。ぐっと拳を握り締めて、笑顔を浮かべた。
「必要ありませんね」
「そうか」
なぜ、欠片も表情を変えていないのに、馬鹿にされているのは伝わるのだろう。
去って行く背中を蹴り飛ばしたい気持ちを抑えて、溜息を吐き出した。
やはり、嫌いだ。




