或る王女の笑顔。(2)
※引き続き、ユリア視点となります。
地平線に夕日が沈む。
宝石のようにキラキラと輝く一日の終わりは、締め括りさえも美しい。その光景に、胸を締め付けられるような寂しさを覚えるのも初めての経験だった。
夢のような時間が終わってしまうのだと密かに落胆したけれど、日が沈んでも、まだ一日は終わらなかった。
晩餐と湯浴みを終えて、後は寝るだけという時間になった頃に、部屋の扉が叩かれる。現れたのは、枕を小脇に抱えたローゼマリー様だった。
「どうしたの?」
「今日はここにお泊りさせてください」
「お、お泊り?」
お泊りも何も、この屋敷は貴方のものでしょうに。
呆気に取られる私の横を通り抜けて、ローゼマリー様は部屋の奥へと進んでいく。寝台へと乗り上げた彼女は枕の位置をずらして、持ってきた枕を隣に並べた。
唖然として見守ってしまっていた私は、そこで漸く我に返る。
「ちょ、ちょっと待って。本気?」
「駄目ですか?」
有無を言わせず行動していたはずなのに、こちらが慌てると、しおらしい態度になるのだから狡い。
こんな絶世の美女に仔犬みたいな目で見上げられて、否やと跳ね除けられる人間がどれほどいるのだろうか。私は無理だ。
「……いいえ。駄目ではないわ」
了承すると花開くように笑う。
鼻歌を歌いながら枕や布団を配置する姿は、子供のようで微笑ましい。
色んな意味で予想外な方だと思っていたけれど、新たに一つ、発見した。
この方は人を振り回す天才だと思う。
呆れながら眺めていると、笑顔で手招きされて溜息を吐き出す。
こうして振り回されても嫌な気持ちにならないのは、たぶん、ローゼマリー様の行動の根底にあるものが優しさだからだろう。
夜に訪ねてきて飲み物を淹れてくれたのも、街へ連れ出してくれたのも、こうしてお泊りなんて突飛な事を言い出したのも、きっと沈み込んでいた私を励ます為。
「さぁ、ユリア様」
シーツを捲り上げて誘うローゼマリー様に、私は苦笑した。
「仕方のない公爵様ね」
ベッドに乗り上げながら、密やかな声で戯れに詰る。
すると隣の美女はシーツに包まりながら、微笑んだ。
カンテラの薄明りに、仄かに照らされる姿は昼間とは違う魅力がある。街歩きの時の彼女は太陽の化身のようだったけれど、今はまるで月の女神だ。
同性である私でも胸が騒ぐのだから、改めて規格外な方だと思う。
それから私達は、色んな話をした。
社交以外で同世代の女性と話す経験なんて初めてで、少し緊張したのは内緒だ。共通の話題を探して悩んだのは、ほんの一瞬。
ローゼマリー様は聞き上手な方だと思っていたけれど、話し上手でもあった。
特に旅の話は、聞いているだけで異国の景色が思い浮かぶようだ。
船上の潮風、フランメの乾いた熱さ、森の中の湿って重い空気。
王宮で傅かれ、何不自由なく暮らしていた私では知る事の出来なかった世界を共有してくれた。
世界は私が思うよりもずっと広い。
今日一日で知った宝物のような景色が他にも、まだまだ沢山ある。
夜が更けても話は尽きず、カンテラの油が切れて、灯が消えても終わらない。
夜明け前に鳴く鳥の声を聞いたのが、最後の記憶だ。
翌日は二人揃って盛大に寝過ごして、目覚めたのは昼前。
品行方正な王女としてはあり得ない大失態だけれど、一度くらい、こういう日があってもいいだろう。
そのまた翌日、王都へ出発する私に、ローゼマリー様は沢山のお土産をくださった。
前日に店で買った髪飾りを手渡してくれたローゼマリー様は、別れ際、そっと私を抱き締める。身内にするように抱擁して、『絶対にまた、いらしてね』と言ってくれた。
王都でも歓待を受けたけれど、プレリエでの一日に敵うべくもない。
一流の楽団が奏でる音楽よりも、雑踏の中で聞いた吟遊詩人の歌声と、昼を知らせる鐘の方が私は好きだ。
豪華な食事より甘ったるい飴玉の記憶の方が鮮烈だし、着飾った淑女達との会話よりも、ローゼマリー様の冒険譚の方がずっと面白い。
たった数日の思い出が、私という存在そのものを塗り替えてしまった。
私にとって良い変化かどうかは分からない。けれどもう、知らなかった頃には戻れない。
ラプター王国へ帰国した翌日、叔父……国王陛下への謁見を申し込んだ。
「お帰り、ユリア」
国王就任当初は幽鬼のような顔色だった叔父だが、最近は少し戻ってきた。目の下に常時刻まれていた隈も、大分薄くなってきたと思う。
「ネーベル王国はどうだった? ラプターの王女だからって意地悪されなかったかな?」
軽口を叩く叔父に、苦笑を返す。
「国賓として丁重に持て成していただきました」
「そう、それは良かった」
頷いた叔父は、紅茶に手を伸ばす。
ローゼマリー様がお土産として持たせてくれた茶葉は、とても香りが良い。叔父も気付いたらしく、感嘆するように息を吐いた。
「香り高いだけでなく、上品な渋みとコクがあるね。美味い。何処の国のものだろう?」
「シュネー王国の山岳地帯で栽培しているそうですよ。最近になって、プレリエでも流通し始めたとか」
そう答えると、叔父は目を瞠る。
まじまじと私の顔を眺めた後、『何でもない』と示すように軽く頭を振った。
「そうか、プレリエね。あそこは何でも揃っているなんて噂が流れているが、あながち嘘じゃなさそうだな」
「確かに、色んなものがございましたわ」
流行の最先端から錆びついた年代物、最高級の逸品に用途不明なガラクタ。
新旧入り混じったプレリエの街並みのように、色んなものが混在している。
雑多で、不揃いで、でも不思議と温かい。
あの街は領主である公爵閣下みたいに、色んな魅力がある。
「……楽しかったみたいだね」
数日前の記憶を思い返していた私は、叔父の声に意識を引き戻される。
我に返った私を見て、叔父は苦笑した。
「私は、」
「ああ、勘違いしないで。責めている訳ではない」
狼狽する私の言葉を、叔父は遮る。
「出立する前の君は死にそうな顔をしていたから、寧ろ元気になって良かったよ。……これでも一応、心配していたんだ」
叔父はきまり悪げに、視線を逸らしながら言った。
飄々として掴みどころのない彼らしからぬ表情に、少し驚く。
「叔父様……」
思わず呟くように呼べば、視線が合う。
叔父はカップを置いて、手を組んだ。
「君は頭が良い子だ。誰に言われずとも自分の役目を理解し、行動出来る。でもその賢さが君の人生を狭めているように、僕には見えた」
「!」
「斜陽を迎えた国の王族として、選べる道はそう多くはない。しかし、絶望して全てを諦めてしまうには、君はまだ若すぎるよ」
僕とは違ってね、と叔父は片目を瞑る。
かつて叔父は、暴君である兄に殺されない為に色んなものを諦めた。
生き延びた現在も、先王の残した負債を肩代わりさせられている。そして、その道を選ばせたのは私だ。
だから私も殉じる責任がある。一人だけ逃げるのは許されない。
そう、思っていたのに。
「ネーベルの王子に惚れたのなら嫁げばいいけど、違うんだろう?」
「今の私では釣り合いませんわ」
王太子殿下は噂通り美しい方だった。
冷たい印象を受けたけれど、ご家族の話をされる時だけ眼差しが和らぐ。その時のお顔は優しくて、ローゼマリー様に少し似ていた。
ヨハン様はプレリエ滞在中、ローゼマリー様を独り占めしてしまったせいで恨み言を言われた。自分も滅多に会えないのにと言いつつも、一度も邪魔をしてこなかった彼は、やはり優しい方だと思う。
どちらも素晴らしい方だからこそ、隣には立てない。
プレリエ領を訪ねる前の私は、身勝手な理由で契約結婚を申し込むつもりだったから。
現在、ラプター国王である叔父に妻子はない。
そして女である私に王位継承権はないが、子供にはある。
私を娶って子を産ませ、次期国王の内戚になろうと企む貴族は多い。
前時代の栄華を忘れられず、現国王の堅実な政治に不満を抱く愚か者共は、先王の血を引く私と私の子供こそ王座に相応しいと嘯く。
先王の周りで甘い汁を吸っていた奸臣、佞臣は粛清されたというのにキリがない。叔父の足を引っ張る人間は、いくらでも湧き出てくる。
全員を処罰するのは現実的ではない。
けれど叔父が結婚して子供が産まれた時に、私に子供がいたら、大それた野心を抱く者が出てくる恐れがある。
だから国を出ようとした。
そして夫になる方には白い結婚を望み、跡継ぎを産む役目は別の女性にお任せしようと考えていた。
王太子殿下を相手に、それを望むのは流石に難しい。
でも合理的に物事を判断されるヨハン様なら、可能性はあると思った。
兄王子の治世の邪魔になり得る存在なら、監視目的で手元に置いておくかもしれない。人質としても一応、価値がある。
一考する余地はあるだろうと。
今考えると、かなり的外れだと分かる。あの方は紳士だ。苦手な相手であっても、女性を道具扱いする事は出来ないだろう。
「なら、急いで結婚しなくていい。僕達が王族である限り、全部好きにしろとは残念ながら言えないけれど……まぁ、どうにでもなるでしょ」
明日の事は明日の僕らに任せよう、と叔父は口角を緩く吊り上げる。
その言葉に勇気を貰った私は、思い切って口を開いた。
「叔父様。許されるなら私は、世界を見たい」
一拍置いて、叔父の目が丸くなる。
意外な言葉を聞いたばかりに、唖然としていた。
「ネーベル王国に行って……いいえ、プレリエ公爵閣下にお会いして、私は己の無知を知りました。自分が如何に狭い世界で生きて、凝り固まった考え方をしていたのか、ようやく気付いたのです」
驚いた様子の叔父だったが、途中で口を挟もうとはしない。
黙って、私の話を聞いてくれた。
「王族として、果たすべき責務から逃げるつもりはございません。ラプター王国の為に、私に出来る事があるのなら謹んでお受け致します。ですがその前に、私が自分自身を見つめ直す時間が欲しい」
フランメの赤い大地、大海原を渡る船、高く聳える山々と裾野に広がる森。
自分の目で、見た事のない景色を見に行きたい。世界の広さを知ってから改めて、自分に何が出来るのかを考えたい。
「うん、いいよ」
「……えっ」
さらりと返された言葉に、今度は私が固まる番だ。
一国の王女が自分探しの旅なんて、普通は考える迄もなく却下だろう。
駄目だと言われても簡単に諦めるつもりはなく、交渉材料を用意しようと考えていたのだけれど、まさかの即答だった。
「さっき言ったように、君はまだ若い。大人になるまでの猶予期間くらい、好きな事をするといい」
「私はもうデビュタントは終えたのですが」
「十代のうちはまだ子供だよ。というか、それを言ったら僕は何年ふらふらしていたと思う?」
あははと叔父は声を出して笑ったけれど、倣っていいものか悩む。
「行っておいで、ユリア。僕はここで君の帰りを待っているから」
「!」
まるで父親のような……否、実の父親にすら向けられた事のない、慈愛の籠った目で叔父は私を見た。
柔らかな微笑みに、胸が詰まる。
「……っ、はい」
ぐっと込み上げた涙の衝動をなんとか呑み込み、不格好な笑みを返した。




