転生公爵の憂い。(2)
たまに思うんだけど、私ってかなりアホなのでは?
そんな独り言を胸中で呟きながら、私は夜中の廊下で立ち尽くしていた。
ユリア王女に会いに行くと決めた私は、まず厨房に向かった。
明日の朝食の仕込みも終わった時間なので、既に人気は無い。
たまにストレス発散を兼ねて夜中に厨房を使う事が多い私は、既に火の取り扱いも慣れたものだ。
ささっと手際良くお湯を温め、二人分の飲み物を淹れて、両手に持ったところで、ふと思い付いた。
両手が塞がって危ないから、お盆を使おうと。
真剣だった。本気でナイスアイディアだと思ったんだ。
うん、馬鹿ですよね。
お盆を持っても両手が塞がっている事に変わりないんだよ。
冷める前にと速足で廊下を進み、部屋の前まで辿り着いたところで漸く、その事に気付いた。ドアをノック出来ない。
ずーんと沈み込んだ後で、ちらりと視線を泳がせる。
少し離れた場所にいる夜間警備の騎士と目が合った。時間が時間なので大声も出せずに、目で意思表示する。
しかし私の訴えは届かず、彼は恭しく首を垂れた。
廊下で立ち尽くす深刻な面持ちの私を見て、声を掛けるべきではないと判断したのかもしれない。
違うんだ。
『見ない振りをしろ』っていうアイコンタクトじゃない。単純に、助けてほしいんだよ。
「っ、え?」
どうしたものかと悩んでいた私は、唐突に感じた刺激に小さく声をあげる。
足首の辺りを、柔らかいものがするりと撫でた気がした。
「なに……って、ネロ!」
お盆を上げて足元を覗き込むと、黒い毛玉、ではなく愛猫の姿がある。
「どうしてここにいるの?」
ネロは、私が王女であった頃から飼っている黒猫だ。
猫は環境が変わるのを嫌がるらしいが、プレリエ領に移ってきてからも悠々自適に暮らしている。
お気に入りスポットは温室に四阿、私の執務室にあるソファの上だ。
今日はソファでずっと眠っていたから、もしかしたら今になって目が冴えているのかもしれない。
宝石みたいな青い瞳がキラリと輝くのを見て、嫌な予感がした。
待って、ネロ。
今は遊んであげられる状況じゃないの。
「ちょ、ダメよ?」
長い夜着の裾に爪を引っ掻け、よじ登る姿勢のネロに私は焦った。
大きく動けば、飲み物が零れる。もしネロが被ったら大変だ。
でも放っておいたら、ネロは登山を開始してしまう。既に後ろ足が浮いていて、成猫の体重を支えている夜着の裾が嫌な音を立てている気がした。
止めて、夜着って生地が繊細なの。薄いから引っ張るとすぐに傷んで……あ! ああ、あ、今、生地が泣いてる! 悲鳴上げてるからぁ!
蒼褪める私の耳に届いたのは、布が裂ける哀しい音ではなく、キィと扉が開く音だった。
「…………」
「…………」
「……何をなさっているの?」
無言でたっぷり十秒、見つめ合った後に、ユリア王女はぽつりと呟く。
真夜中に、猫を裾にぶら下げた女がお盆を持って廊下に棒立ちしていたら、誰でも抱く疑問だと思う。
「……えっと、お邪魔しても宜しいでしょうか?」
何と答えるべきか迷った私は、へらりと笑ってそう問いかける。
虚を衝かれたように目を丸くしたユリア王女は、暫くしてから頷いた。
「どうぞ」と大きく開けてくれた扉から、私よりも先にネロが室内に滑り込む。
まるで案内するかのように我が物顔で部屋を進み、ソファに座ったネロを見て、ユリア王女は少しだけ、表情を和らげる。
「ごめんなさい」
「いいえ、気になさらないで。猫は好きなの」
少し距離を空けて腰掛け、ネロを見守る目は優しい。どうやら気遣いではなく、本当にお好きなようだ。
お蔭で気まずい空気が流れずに済んで、ほっとした。
ありがとう、ネロ。後で鶏ささみを献上しよう。
「美味しい」
ユリア王女は一口飲んでから、吐息を零すように呟く。
「紅茶かと思ったけれど、違うのね。この匂いは……レモンと蜂蜜かしら?」
「はい」
「良い香り。とても落ち着くわ」
「お口に合って良かった」
飲み物で喉を潤しながら、たまに当たり障りのない会話を続ける。
ゆったりした時間が過ぎて行き、いつの間にか私の隣に来ていたネロが寝付いた頃、ユリア王女は一度、目を伏せた。
「……私ならば、ここには来なかったでしょうね」
「え?」
静かな声で語られた言葉の意味が、すぐには理解出来なかった。
問う眼差しを投げかけても、視線は交わらない。手元に視線を落としたユリア王女は笑みを浮かべる。音も無く降り積もる粉雪のように、美しくも哀しげな微笑だった。
「国賓とはいえ、格下の国の王女。最低限の礼儀を尽くせば、後は放置で構わないと判断したでしょう。体調を崩したのならともかく、相手の機嫌など知った事ではないわ」
乱暴な言葉選びに驚くも、口を挟まずに話を聞く。
「だって、何の利益にもならないもの。媚びを売っても得にならない相手の為に、己の時間を割くなんて非効率的だわ。体裁を考えたとしても、翌朝、一声かけるだけで十分」
ユリア王女の手に力が籠る。
空になったカップを支える指先が、血色を失って白くなっていた。
「じゅうぶん、なのに」
声が途切れる。ユリア王女は泣き笑うみたいに、黒水晶の瞳を細めた。
「貴方は温かい飲み物を淹れて、訪ねるのね。格下の人間でも、自分を嫌っているかもしれない相手でも」
凛とした声が、震えるように掠れた。
それにどうしようもなく、落ち着かない心地になる。
だんだんと俯けていく姿が見ていられない。
最後まで黙って、話を聞こうと決めたつもりだったのに。
「私には出来ないわ」
「やらなくていいんです」
反射的に否定してしまった。
強めの声が出て、ユリア王女は驚いたように顔を上げる。
悩みを相談してほしかったはずなのに、私は何をしているのか。
せっかく話してくれたのを遮って、しかも否定するなんて。
でも黙っていられなかった。
「私と同じようにする必要なんてありません」
「……私と貴方では、同じようにはいかないものね」
「それはそうです。両手が塞がっていて、ドアが開けられずに困った経験とか無いでしょう? 裾に猫がぶら下がって取れなかった事は?」
黒水晶の瞳が、きょとんと丸くなる。
驚いた顔は幼くて、毅然とした王女殿下とは別人のように見えた。
「そんな間抜けは、私一人で十分ですよ」
笑って言うと、ユリア王女はパチパチと数度瞬いた。
「確かに私は、悩むくらいなら動くようにしています。でもそれは信念に基づいてとか、誇りがどうのとか、立派な理由ではありません。ただ単に、不器用だからです。私の場合は考え込むより、即行動に移した方が良い結果に繋がる事が多いので」
そう、私にとってマシな方を選んだだけ。
それが誰にとっても最善とは限らない。
「行動力があるなんて誉めてくれる方もおりますが、そんな良いものではありません。結果的に上手くいっても、もっと効率が良い方法があったんだろうなっていつも思います」
父様のように書類と報告だけで判断が下せるように、本当はなりたい。執務室で完結出来るのが理想。
けれど実際の私は未熟故に、自分の目で確認する必要がある。確実ではあるけれど、時間は倍以上かかってしまう。
でも、しようがない。
それが私なんだから。
人には向き不向きがあるのだから、手段が違って当然。
「私のやる事は正解ではないです。でも私にとっての最適なんだろうなって、そう信じているからこそ選んでいるだけ」
「最適……」
「はい。だから、ユリア様はユリア様の最適を選んでください」
呟くユリア王女の目が、瞬きの度に光を増しているように見えた。眼前の霧が晴れたかのように、表情の迷いも消えていく。
賢く、凛々しく、麗しく。
ネーベルよりも更に男尊女卑の風潮が強いラプター王国にありながら、毅然と咲く黒百合のようなこの方に、私は憧れている。
だから迷い悩んでいたとしても、卑下してほしくない。
「そうね。私は私、貴方は貴方」
肩の力が抜けたような声だった。
ユリア王女は眉を少し下げて、「ありがとう。少し、スッキリしたわ」と笑った。




