或る王女の独白。
※ラプター王国王女、ユリア・フォン・メルクル視点となります。
人で賑わう広場の奥。
遠くに一際、大きな建物が見える。
無駄を全て削ぎ落したような建物は、贅沢こそ貴族の義務だと考えている人々からは、さぞ無骨に見える事だろう。
けれど私の目には、酷く尊いものに見えた。
見栄も体裁も関係ないとばかりに華美さを捨て、頑丈さと使い勝手に重点を置く構造は、発案者である公爵閣下の清廉さを表しているようだ。
何もかもが、私とは違う。
地位も年頃も性別も境遇も、あらゆるものが重なるというのに。何故、これほどまでに差があるのか。
「ユリ殿?」
物思いに耽る私は、声を掛けられて我に返る。
顔を上げると、ヨハン様と視線がかち合った。
人混みの中、唐突に立ち止まった私を訝しんでいるのだろう。
感情を人に悟らせず、貼り付けた笑顔で対応する彼にしては珍しく、表情から困惑が見て取れた。
ヨハン様は彼の姉君とは違い、私と同類だと思っていた。
物事の判断基準は善悪ではなく、利害。
守るべきものの為ならば、躊躇いなく手を汚せる部類の人間だと。
「具合が悪いのなら、何処かで休みましょう。確か近くにカフェがあったはずです」
しかし、嫌々ながらも気遣うヨハン様の姿に、己の認識が誤りであると分かった。
彼はおそらく優しい人。ただ、必要ならば冷酷な判断も下せるというだけ。
私とは根本的に違う。
自分しか大切なものを持たない、私とは。
私、ユリア・フォン・メルクルは大国の王女として生を受けた。
母国であるラプター王国は、一年の半分以上は雪に埋もれる。
国土こそ広いものの三分の一は山岳地帯と永久凍土が占め、作物は育たない。慢性的な食糧不足は鉱物資源の利益と、他国からの略奪で賄ってきた業の深い歴史を持つ国だ。
力こそ正義を地で行く我が国では、女は戦利品で道具。王家に生まれた私も例外ではなく、政治の駒として扱われる。
幼い頃から物覚えが良く、周囲からは神童と褒め称えられても、国王にとってはさして意味の無いものだった。
能力が優れていたところで、多少、道具としての価値が上がった程度の誤差。
いずれ有力者の元に嫁ぎ、国の利益となるよう動く事以外の期待はされていない。
王妃である母は夫の言いなりで、二言目には「お父様に逆らっては駄目よ」と私に言い聞かせた。
異国の本も優秀な教師も、女である私には必要ないと遠ざけたのは、目立つ事で父の不興を買うのを避けたのかもしれない。それが子供への愛情によるものか、保身なのかは分からないけれど、私の身を助けていたのも事実なのだろう。
けれど、余計なお世話だった。
『女である』という唯一つの理由の為に、私の人生の選択肢は消えた。
それは私にとって、屈辱を伴った絶望を齎した。
私には、己が優れた人間であるという自負がある。
それなのに性別の違いだけで、私よりも能力が劣る人間が優遇される事が我慢ならなかった。
兄の代わりに王位に就けなくてもいい。広大な領地も、資金もなくていい。
ただの平民としてでもいいから、自分の力を試してみたかった。
何も無いところから始め、見事、億万長者となるか。それとも道半ばで挫折して、野垂れ死ぬか。
どちらでもいい。思うがままに生きる権利が欲しかった。
けれど王女として生まれた私には、たったそれだけの自由が何よりも遠い。
男に媚びて生きる道以外、私には許されてはいなかった。
ならばせいぜい、美しく着飾ろうと思った。
どうせ買われるのならば、より高く買われてやろう。
地位が高く、愚かで操りやすい男が望ましい。
熱心に媚びて、愛を囁いて、いつか裏から全てを掌握してみせる。
そんな私の歪んだ決意は、ある日、一瞬で崩れ去った。
ヴィント王国の王太子の交代、母国の衰退、ネーベル王国との同盟。世界情勢に大きく関わる大事だが、そんなものが理由ではない。
ネーベル王国第一王女、ローゼマリー殿下が婚姻を機に臣籍へ降下。
世界初の女公爵の地位を賜ったという。
しかも複合的な医療施設という画期的な計画もあり、彼女が治めるプレリエ領は発展の一途を辿っている。
世界中から注目を浴び、今後も益々の飛躍が期待されるだろう。
近衛騎士団長であった夫の支えはあるだろうが、医療施設計画の要を担い、領地運営を主導しているのは間違いなく、ローゼマリー様ご本人。
誰に媚びる事なく、誰に汚される事もなく。
容姿と同じく心根も清らかなまま、私の欲しかった全てを手にした方がいる事に、愕然とした。
ならば、私が今までしてきた事は何だったのだろう。
そう気付いた瞬間、足元が崩れた。
自分が望む方向へ続く細い道を、必死に踏み外さないよう歩いてきたのに、踏み固められていない大地を自由に上っている人の背中を見てしまった。
その時に感じた絶望は、性別を理由に人生を諦めた時など比にならないものだった。
私は優秀な人間などではない。
自惚れが強い凡人の一人に過ぎなかった。
そんな残酷な事実を簡単に認められるはずもない。
ネーベル王国からの招待にかこつけて、プレリエ公爵領を訪れたのは、悪足掻きだったのかもしれない。
プレリエは明るい街だった。
市場は活気にあふれ、人々は生き生きと暮らしている。
古い建物に新しく整えられた道路と、新旧が混ざった街並みはちぐはぐで、整然とした景観とは言い難いものではあったが、不思議な魅力があった。
貴族と平民とで生活する区域は分けられているものの、貧富の差は大きくないと感じる。
細い路地や建物の裏、街はずれを見ても、暗部がない。
急成長した場所にありがちのひずみが、この街には無かった。
そんな筈はない。
若い娘が功を焦って政策を推し進めたのなら、何処かに皺寄せがくる。輝かしい功績の裏側には、必ず影が落ちるものだ。
しかし、姉を訪ねて来ていたらしいヨハン殿下に案内を頼み、巡ってみて分かった。
ローゼマリー様は革新的な発想を持ちながらも、本質は堅実な方らしい。
この街には今、人も物も溢れている。
手段を択ばないのならば、国家予算にも匹敵する金貨を稼ぐ事も夢ではないだろう。
けれどローゼマリー様は目先の金には惑わされない。
数年の繁栄ではなく、長期的な、それこそ子孫の代まで続く安定した領地運営を目指されている。
私なら、どうしただろう。
そう考えるのも罪な気がした。
小さな村の毛織物一つさえ、おざなりには扱わず、時間をかけて法を整備している彼女に敵う余地など端からない。
私の敗因は、女として生まれた事ではなかった。
上に立つ者の器でなかった、それだけの話。
ぽっかりと胸に大穴が空いた心地だった。
笑いたいのか、泣きたいのか、それすらも自分では分からない。道の途中で放り出された迷い子のように、ただ途方に暮れた。
唐突に動かなくなった私に、ヨハン殿下は困り果てていた。
苦虫を嚙み潰したような顔は、余裕ある態度を崩さない彼にしては珍しい。
額に手を当てて溜息を吐いた後、私の手を引いて連れてきてくれたのは、街で一番大きな館。
門番が取り次ぎ、暫くしてやってきたのは、私が今、最も会いたくないと感じ、同時に誰よりも意識している方。
驚いたお顔も溜息が出る程美しい女性――ローゼマリー・フォン・プレリエ公爵閣下。
さっきのヨハン様と同じく困惑したような様子だった彼女は、じっと私を見た後、柔らかな微笑みを浮かべる。
「お久しぶりです。ようこそプレリエへ」
出迎えの声と笑顔は、この街の印象と同じように温かいものだった。




