第二王子の困惑。
※ローゼマリーの弟、ヨハン視点となります。
最愛の姉と過ごす日々は、最高の一言に尽きた。
朝起きて、朝食の席に着くだけで姉様に会える。
女神の如き神々しい笑顔で、「おはよう」と挨拶してくれる。
執務を少し手伝うだけで、とても嬉しそうに「ありがとう」と言ってくれる。
夜に「おやすみ」と別れる事になっても、当たり前のように「また明日」と翌日の約束をしてくれる。
目の端に邪魔な存在がチラチラと過るが、そんな事が気にならないくらい至福の時を過ごしている。
執務と女性等に追われ続けた地獄の日々すら、今日の幸福の為にあったのなら仕方ないと流せた。
そのくらい満ち足りた時間であったのに。
翌日、街歩きをしていた途中で思いがけない人物に出会い、僕の穏やかな休日は終了した。
「あら、ヨハン様。偶然ですわね」
「……何故ここに」
唸るような低い声が洩れた。
我ながら嫌そうな声だなと思うのだから、相手にも伝わっているだろう。けれど相対する人は微塵も怯んだ様子はなく、見本のように綺麗な笑みを浮かべた。
腰まで届く長い黒髪に、長い睫毛に飾られたオニキスの瞳。
肌は新雪よりも白く、端整な顔立ちも相まって人間味が薄い。小柄な体躯は少しでも力加減を間違えれば折れてしまいそうに細く、庇護欲を掻き立てられる男は多い。
しかし繊細なガラス細工のような容姿とは裏腹に、内面は冷静で強か。
ラプター王国第一王女、ユリア・フォン・メルクルは、そんな油断ならない女性だ。
「予定よりも随分と早いお着きで」
「天候が安定していないようでしたので、日程に余裕を見ましたの」
ラプター王国一行の到着は来週の予定だ。
余裕のある日程を組んだにしても早過ぎるだろうと、心の中で毒づく。そもそも、どうして王都ではなくプレリエ領にいるのかの答えになっていない。
それにユリア王女の服装は、ごくシンプルなオリーブグリーンのワンピース。髪も一部を編み込んでいるだけで、装飾品の類は一切付けていない。護衛も、目に見える場所には一人だけ。
それでも高貴さは隠しきれるものではないが、良家の子女という範疇にどうにか収まっている。
あまりにも用意周到。
最初から、お忍びで見て回る気があったとしか思えない。
そんな僕の心情を読んだかのように、彼女は「それに」と言葉を続けた。
「今、話題のプレリエを一目見てみたかったのです」
確かにプレリエは今、世界中で最も注目を集めている地域だ。医療施設建設に伴い、各地から商人が押し寄せて商業の要となりつつある。
この街が流行の最先端となる日は、そう遠い未来ではないだろう。
若い女性が興味を持ったところで、なんら不思議ではない。
だが、元敵国の王女の言葉だと思うと、穿った見方をしそうになる。
流石に王女相手に『偵察か』なんて聞けなかったが、顔には出ていたんだろう。ユリア王女は溜息を吐き出す。
「ご安心ください。竜の逆鱗に手を伸ばすような度胸も力も、もう我が国にはございませんわ」
竜の逆鱗とは、プレリエ公爵領の事か、それとも姉様の事か。
おそらく両方なのだろうな、と胸中で呟いた。
ネーベル王国にとってプレリエは、王都に次ぐ重要な拠点となる可能性が高く、価値はどんどん上がっている。
そして、ただの田舎町であったプレリエを急成長させた領主たる姉様の価値も、言わずもがな。
かつてラプター王国は、姉様の暗殺未遂という最悪の形でネーベル王国の逆鱗に触れた。次は国力を削ぐ程度では済まされないだろう。
とはいえ、まだ警戒を解くには早い。
「これは私個人の、ただの興味です」
しかし、そう呟いたユリア王女の表情を見て、毒気を抜かれる。
整った顔には、いつも浮かべている隙のない微笑はなかった。取り繕っていない自然な様子の彼女の目に、嘘はないように思える。
「それでも心配なようでしたら、傍で監視なさったら如何?」
「……は?」
素に近い無表情は一瞬で消え、笑顔に戻ったユリア王女に驚いて反応が遅れた。
「初めてきた場所で、右も左も分かりませんの。エスコートしてくださる?」
まさか、淑女に恥をかかせる事はしないわよね?
そう言外に突き付けられ、顔が引き攣りそうになる。
「……もちろん。僕でよければ、喜んで」
ユリア王女が興味を示したのは、一般的なご令嬢の好むような店ではなかった。
彼女が案内を望んだのは、ドレスやアクセサリーなど貴族向けの店が立ち並ぶ区画ではなく、庶民で賑わう大通りだ。
日用品や食材が雑多に並ぶ店先で、ユリア王女は明らかに浮いている。
今日の為に目立たない服装を選んだのだろうが、生まれ持った気品や美貌は隠しきれるものではない。
今も毛織物を手に取り、繁々と眺める当人は気付いていないようだが、その美しさに気圧される形で周囲にぽっかりと空間が出来ていた。
疲労を感じて、つい吐息を零す。
近くにあった薄手のショールを適当に選び、店員を呼んで支払いを済ませた。
「ユリ殿」
これだけ目立っているのに、本名を呼ぶわけにはいかない。
ただの偽名だが愛称のようだなと思うと、疲労感が増した気がした。
「ああ、お待たせしてごめんなさい」
顔を上げたユリア王女は、僕を待たせていた事を思い出したらしく謝罪した。
「随分と熱心にご覧になっていましたね。編み物にご興味が?」
織物の店から離れ、通りを歩きながら問うとユリア王女は軽く頭を振る。
「刺繍も編み物も、どちらかといえば苦手です。ですが目は肥えていますから、品の良し悪しは分かりますわ」
彼女の指示で、さっきの毛織物を護衛が購入していた。
つまり良品だと判断したのだろう。
「編み目も素材も素晴らしく、品質に殆どばらつきはありません。それに価格もここ数年、安定していると聞きました」
そういえば、プレリエ北部の村の毛織物の需要が、近年高まりつつあるらしい。
商機だと捉え、大量生産して売るのも一つの手ではあるが、姉様の考えは違った。
強引に生産数、生産速度を上げようとすると、一つ一つの品質が落ちる。
そうなると一時的に莫大な利益を得るのは可能でも、継続的な需要は見込めない。品質が落ちれば、信用も同じく落ちるのだから。
無理のないペースでの生産拡大を考えており、その為に関税、保障の法整備を進めていると言っていたような気がする。
高騰も暴落もなく、一年中、安定した価格である事が望ましいと。
こんな往来で詳細を説明するのもどうかと思い、大まかに姉様の意図を伝えると、ユリア王女は目を瞠った。
彼女だって人間なのだから、驚く事もあるだろう。
しかし貼り付けた笑顔を見慣れてしまっていたので、素の表情を見せられると、どうにも居心地が悪い。
ただでさえ恐ろしく整った容姿なのに、無防備な表情は幼子のようで、そのアンバランスさが更に人目を引く。
通り過ぎる男達が頬を赤らめて振り返るのを見て、さっき買った物の存在を思い出した。
「……日差しが強くなってまいりましたので、宜しければこちらを」
目立っているから顔を隠せとは流石に言えず、下手な言い訳と共にさっき買ったショールを渡す。
するとユリア王女は素直に受け取り、フードのようにショールを頭から巻いた。
その後もユリア王女は気になった品の前で足を止め、一つ一つ、ゆっくりと眺める。
香辛料の種類の豊富さ、食材の鮮度や価格にも興味を示し、驚く姿はまるで普通の少女のようで調子が狂う。
「貴方のお姉様は、本当に凄い方ね」
広場の一角で足を止め、少し先にある医療施設を見つめながら彼女はぽつりと呟いた。
その声には媚びる色も、蔑む意図もない。
つい零れた本音のようなその言葉には、ほんの少しの諦観と憧憬だけが込められていた。




