侯爵令息の想い。
※侯爵家嫡男、ゲオルク・ツー・アイゲル視点となります。
※同日に二話、連続投稿しています。一話分抜けないようお気を付けください。
穏やかな風が吹き抜ける。
目の端をひらりと舞った金色を、追いかけるように視線を向けた。季節外れの蝶かと思ったものは、隣を歩く少女の髪だった。
彼女が歩く度に緩やかに波打つプラチナブロンドが、日差しを受けて煌めく。蒼い瞳も、太陽の下で見ると一際美しく輝いて見えた。
血色の良い白い肌に、薄紅色の唇が良く映える。細い体を包む、暗めの赤の花柄生地に黒のレースをあしらった大人びたドレスも、今の彼女には良く似合っていた。
ネーベルの至宝、生ける宝石と呼ぶ人々の気持ちが痛いほどに分かる。
久しぶりに会った初恋の人は、眩いばかりに美しい少女へと成長していた。
今までも十分に高嶺の花だった方が、更に遠くへ行ってしまったように感じる。
「ゲオルク様?」
「……はいっ?」
ぼんやりと物思いに耽っていた僕は、可憐な声に意識を引き戻された。
大袈裟に肩を跳ねさせてからマリー様を見ると、少し困った顔で微笑む。
穴を掘って埋まりたくなった。
何故、僕はいつもこうなんだろう。一番恰好良い姿を見て欲しい方の前で、最悪な姿ばかり見せている気がする。
赤い顔を伏せた僕に、マリー様が更に困った顔になった事に気付いて、もうどうしたらいいか分からない。
侯爵家当主である父に仕事を教わる過程で、社交界で、叔父の仕事先で、数え切れない程の人間と会った。
老若男女問わず、貴賤も問わず。様々な人間と会い、話し、時に危ない橋を渡った事もある。それらを叔父と父に鍛えられた頭脳と話術で切り抜けてきた。
けれど今、どの記憶も役に立たない。
いつもこうだ。僕はマリー様の前だと、世界一情けない男になる。
彼女の口から、僕と一緒にいるこの時間を厭う言葉が出てくるのではと思うと怖くてたまらない。遠回しにでも帰りたいと言われたら立ち直れない。
今、あの小さな唇から溜息が一つ零れただけで、きっと僕は致命傷を負う。
しかしマリー様は僕の予想に反し、帰りたいとは言わなかった。そして、用件を急かす事さえなく。
気まずい沈黙なんてなかったみたいに、普通に話題を振ってくれた。
「先日、弟が帰ってきたんです」
「あ、ああ。ヨハン殿下がヴィント王国の留学を終えて、帰国されたそうですね。突然のお話だったので驚きました」
マリー様は楽しそうな顔で頷く。
「そうなんですよ。随分と無理をして帰ってきたようで、暫く執務室に籠りっきりです」
残してきた仕事の引継ぎが終わったら、私の相手もしてくれるみたいですよと、マリー様は悪戯っぽく笑った。
僕も釣られる形で笑顔になる。
そうだ。僕はこの方の、美しい容姿に惚れたのではない。
息をするように他者を思い遣り、気遣う事の出来る優しさにこそ惹かれたのだ。
「ヨハンは商人の知人が多いので、異国の話を沢山知っているんです。色々と聞かせてもらえるのが、今から楽しみで」
それから、好奇心旺盛なところ。
貴族のご令嬢方が退屈しそうな話でも、目を輝かせて、楽しそうに聞いてくれる。
「マリー様は昔から、異国の文化に興味がおありでしたからね」
「ええ、とても」
「いつもマリー様の知識の豊富さには驚かされます」
「書物に載っている内容を披露しているだけで、私自身は割と世間知らずですよ」
ドレスや宝石よりも、書物を好むところ。
博学でありながら、決して驕り高ぶらないところ。
マリー様は、ふと遠くを見るような目をする。
「本当は、自分で見に行きたいんです。誰の目も通さない、ありのままの景色を、この目で」
そして、実は行動力の塊なところ。
幼い頃から変わらない真っ直ぐな眼差しが眩しくて、目を細める。
じっと見つめる僕の視線に気づいたマリー様は苦笑した。
「こんな発言、王女失格ですね」
内緒にしてください、とおどけるように肩を竦める。
純粋で真っ直ぐな気質でありながら、自分の立場も見失わない。自由に振る舞えば周囲にも影響を及ぼすと分かっているからこそ、そうやって笑って誤魔化す。
貴方の強さと弱さを知る度に、堪らない気持ちになった。
「そんな貴方だからこそ……僕は」
「え?」
足を止めて、掻き消えそうな声で呟く。マリー様は僕に倣う形で立ち止まり、届かなかった言葉を聞き返した。
濁りのない蒼に自分が映っている今が、永遠に続けばいい。
そんな決して叶わぬ願いを抱きながら、僕は口を開く。
「そんな王女失格な貴方が、僕には眩しかった」
「……え」
虚を衝かれたように、マリー様は目を丸くする。
「綺麗で可愛くて、何でも知っていて、それに優しい。小さな僕にとって貴方は女神様に等しかった」
「えっ、あ、ええっ?」
白い肌がじわじわと色付く。
美辞麗句など聞き飽きているだろうに、こんな拙い言葉に照れてくれる純真さが愛しい。
目を細め、口角を薄く上げる。とっておきの秘密を披露するように、そっと囁くような声で告げた。
「僕の初恋は貴方なんです」
マリー様は驚きに目を見開き、固まる。
一瞬の空白の後、ぶわっと顔を真っ赤に染めた。
その反応に僕も驚く。
多くの男に跪かれて愛を請われているはずなのに、思い出話にかこつけた、告白の出来損ないを笑い飛ばさずにいてくれた事が嬉しい。
心の端っこにいた、内気で痩せた子供時代の僕が笑う。
『マリー様を好きになって良かった』って。
「ご婚約されると聞きました」
真っ赤な顔で固まっていたマリー様が、ぱちぱちと瞬きをする。
話の流れが突然変わって、理解が追い付かないのだろう。戸惑いながらも「はい」と彼女は肯定した。
少しでも痛みが混ざらないよう。顔が歪まないように。
全身全霊の力を込めて、微笑んだ。
「おめでとうございます」
満面の笑みで祝福する僕に、マリー様の表情が緩む。
からかったのかと詰ってもいい場面なのに、責める事はせず。あくまで過去の話なのだと理解した彼女からは、安堵さえ感じた。
「ありがとうございます」
はにかむような笑顔に、少し……ほんの少しだけ心が痛む。
けれどそれ以上に、誇らしさがあった。
「どうか、お幸せに」
幸せの絶頂にある愛しい方の心を、無為に傷付けずにすんで良かった。
馬車に乗り込んで、無言のまま腰を下ろす。
向かいの席にいる叔父上は、僕を一瞥したが、すぐに窓の外へと視線を戻す。流れた沈黙を気にする間もなく、馬車は走り出した。
石畳を車輪が滑る音を聞きながら、ぼんやりとさっきまでの事を思い出す。
ずっと好きだった方に、過去形であれど気持ちを伝えられた。
冗談として流されず、けれど相手の負担にならない重さで締め括れたのは上出来だと思う。
噛まずに最後まで言えたし、祝いの言葉も贈れた。
僕にしては、良くやったと言っていい。
一つ頷いて、窓の外を見上げる。
今の僕の気持ちのように、清々しく晴れ渡った空が広がっていた。
「…………っ」
ぽつ、と。膝の上に置いた手の甲を、雨粒が打つ。
空には雲一つなく、尚且つ室内なのに、降り注ぐ雫は止む事はなく僕の手を濡らす。
なんで、駄目だ。最後の最後でこんな。
こんな恰好つかない終わり方は、嫌なのに。
あの方にいつか、僕の初恋であった事を誇ってもらえるような男になりたいのに、こんなんじゃ駄目だろう。
顔を隠す為に手で覆うけれど、雫は止め処なく零れ落ちた。
「……何を考えているか、大体は想像つくけれど」
今まで沈黙していた叔父上が、静かに告げる。盗み見るように指の隙間から覗くと、相変わらず視線は窓の外へと向いたまま。
こちらを見ないのは、きっと僕に対する配慮なのだろう。情けない姿を晒す甥の矜持を思い遣っての事。
「ゲオルクは恰好良いよ」
穏やかで優しげな外見に反し、手厳しい叔父上らしからぬ優しい声だった。
「誰が何と言おうと、自慢の甥だ」
「……っ」
ぐっと唇を噛み締めて、嗚咽を呑み込む。
普段、容赦なく酷評してくるくせに、こんな時だけ優しくするなと言いたい。
余計に泣けてくる。もうこれ以上、情けない部分を晒したくはないのに。
「まぁ、今はちょっと不細工だけど」
茶化すように笑って付け加えた叔父上を、僕は泣きながら睨む。
「煩いですよ」
「好きなだけ泣いて、ちゃんと乗り越えるといい。そうしたらマリー様を想い続けた時間は無駄にはならない。未来の君の糧になるよ」
「…………」
俯いたまま、小さく頷く。
胸の痛みはまだ鮮烈過ぎて、想い出になる兆しさえ見せない。
好きだと思った表情、仕草や言葉も、何一つ過去にはなっていないけれど。
いつか、と少し先の未来を見つめていた僕の視界を白いハンカチが覆う。
頭上から被せられたハンカチ越しに、宥めるように頭をポンと軽く叩かれた。
「頑張れ、青少年」
「……年寄臭いですよ」
叔父上の手を払いのけて、涙を拭う。
鈍く痛む頭とは裏腹に、気持ちは少しだけスッキリしていた。




