第二王子の葛藤。
※ネーベル王国第二王子 ヨハン・フォン・ヴェルファルト視点になります。
どうか否定してくれと願う僕の前で、姉様は花開くように笑った。
小さく頷く姉様は、見た事もないほど嬉しそうな顔をしていた。蕩ける眼差しが、甘い声が、柔らかな弧を描く唇が。全てが喜色に溢れている。
こんなにも幸せそうな姉様を前にして、どうしたら『結婚なんて止めろ』だなんて言えるのか。
無理やり飲み込んだ懇願は、苦味を残して腹の底に落ちていった。
それでも、どうしても。
おめでとう、とは言えなくて。言いたくなくて。
ただ拳を握り締めて俯く事しか出来なかった。
父である国王からの手紙で、姉様とレオンハルトが近々婚約する事を知り、僕は帰国を決意。即日出立すると言い出した僕を誰もが止めたが、親友であるナハトだけは呆れつつも背を押してくれた。
取るものも取り敢えず、転がるような勢いで母国を目指した。
ほぼ休憩なし。護衛さえ振り切る速度で馬を駆り、こうして姉様の元に帰ってはきたけれど。
結局は何も出来ない。かける言葉一つ見つからない。
「……ヨハン?」
様子がおかしいと気付いたのか、姉様は気遣うような声で僕を呼ぶ。
我に返った僕は、慌てて顔を上げた。
「どうしたの? 何かあった?」
「い、いいえ! 何も」
表情を曇らせた姉様に、僕は無理やり笑顔を浮かべて頭を振る。
けれど急拵えの笑顔は不格好だったらしく、憂いが晴れる事はなかった。
心配させたいんじゃない。悲しませたい訳でもないのに。
なんでこう、何一つ上手くいかないんだろう。
逡巡している様子だった姉様は、白く小さな手を握り締める。
何かを言おうと決意した顔で口を開く姉様に、僕の体が強張った。
「……ヨハ、」
僕を呼ぶ姉様の声に、ノックの音が被さった。
姉様が席を外させた侍女らが戻ってくるには早すぎる。
誰だろうと考えていると、姉様が「はい、どなた?」と返事をした。
「ローゼ、私だ。ヨハンが帰ってきていると聞いたのだが」
姉様以上に離れていた時間が長すぎて、声だけで判別出来るかは自信がない。でも姉様と僕の呼び方で、自ずと対象は一人に絞られた。
「おりますよ。どうぞ、入ってください」
「失礼する」
短い挨拶と共に入ってきたのは、癖のないプラチナブロンドと空色の瞳を持つ白皙の美青年。
その姿形には面影は残っているものの、記憶にあるよりも身長は高くなり、体つきも逞しくなっている。なにより顔立ちから幼さが抜けており、穏やかでありながらも威厳に満ちていた。
長い睫毛に飾られた蒼天の瞳が、僕の姿を捉えて丸くなる。数度瞬いてから、ふわりと緩んだ。
「久しぶりだな、ヨハン。立派になって……見違えた」
実の親よりも親らしい言葉をしみじみと言われ、自然と苦笑が浮かんだ。
「相変わらず、爺臭いですね。兄様」
軽口を叩いても、兄様は気を悪くした風もなく鷹揚に笑う。
颯爽と現れて、気まずい空気を払拭してくれた兄様に、心の中で感謝した。次いで、兄様の護衛の姿が傍らにない事に気付き、首を傾げる。今は絶対に顔を見たくなかったので、好都合ではあるが。
僕の視線に気づいたのか、兄様は「執務室に置いてきた」とサラリと告げる。
「渋ってはいたが、久しぶりの兄弟水入らずの時間を邪魔するつもりかと言ったら、苦い顔で黙ったよ」
至極楽しそうに言う兄様に僕は呆気に取られた。
品行方正な王太子らしからぬ砕けた様子に驚いているのは姉様も同じだったらしく、ぱちぱちと大きな目を瞬かせている。
「ローゼ。せっかくだから三人で、中庭でお茶でもしないか」
「えっ、あ、はい」
水を向けられた姉様は、少し閊えながらも応じる。しかしすぐに何かを思い出したのか、小さく「あ」と声を洩らした。
「でも私、お医者様からまだ外出の許可が出ていなくて……」
「ああ、侍医には許可を貰ったよ。少しの時間なら問題ないそうだ」
そう言うなり兄様は、ベッドの横にあったひざ掛けを手に取り、そのまま姉様へと手を伸ばす。
「えっ、に、にいさまっ?」
背と膝裏に手を差し込み、抱き抱えられた姉様は驚きと羞恥に顔を赤らめる。
横抱きにした姉様を見て、兄様は形の良い眉を顰めた。
「軽いな。ちゃんと食べているか?」
「しっかり食べています……けど、そうじゃなくて! 下ろしてくださいっ」
姉様の悲鳴に近い声を聞き、呆然と見守ってしまっていた僕も我に返った。
「兄様、お戯れが過ぎます。姉様をこちらへ渡してください」
ずいっと両腕を差し出すと、涙目の姉様と呆れ顔の兄様の視線が僕へと集まる。
「羨ましいなら、素直にそう言いなさい」
「羨ましいので代わってください」
即座に返すと、兄様は破顔した。
「次の機会にな」
絶対にないやつだろう、それ。
じとりと恨みがましい目を向けても、兄様は欠片も堪えた様子はない。
苛立ちを溜息と共に吐き出す。
「兄様っ! 自分で歩けますから!」
「それは駄目だ。医師にまだ止められているだろう」
「なら、部屋でお茶すればいいではありませんか!」
「ずっと室内にいるのは体には良くない。気分も滅入る。それに、少しは日に当たった方がいいと、侍医も言っていたぞ」
兄様は姉様の抗議を、端から全て却下していく。
言っている事が正しいだけに、姉様も反論がし難いようだ。口籠り、悩んでいる間にも兄様の足は止まらない。
姉様を抱えたまま、器用に部屋の扉を開ける。
外にいる数人の護衛騎士は兄様達に気付くと、ぎょっと目を剝いた。
そりゃそうだ、と呆れながら思う。
教本にそのまま載っていそうな優等生である王太子の突然の奇行に、驚くのは致し方ないだろう。
珍獣を見るような眼差しにも動じず、兄様は護衛騎士を一瞥する。
ちなみに腕の中の姉様は恥ずかしさが限界値に達したのか、真っ赤な顔を隠すように両手で覆って縮こまっていた。可愛……ではなく、可哀想に。
「中庭に行ってくる。一時間程度で戻る予定だ」
「か、かしこまりました」
気圧されるように頷く護衛騎士。その隣に立つのは姉様付きの騎士で……確か名前は、クラウスだったか。苦々しい顔付きを見ていると、幼い頃の記憶が蘇る。
姉様至上主義で、他の人間なんてどうでもいいと言いたげな顔。懐かしい。
僕が言えた義理ではないが、コイツも大概、変わってないな。
おそらく僕達に付いてくるであろうクラウスではなく、別の人間に声をかける。
「四阿へ茶を用意するよう手配してくれ」
頷くのを見届けてから、兄様の後を追った。




