騎士団長の最愛。
※近衛騎士団長 レオンハルト・フォン・オルセイン視点です。
ちゅ、と。
オレにはまるで似合わない可愛らしい音がした。
呆気にとられて見開いたままだった瞳に映るのは、愛しい人の顔。
絵に描いたような柳眉に、整った鼻梁。花弁の如き薄紅色の唇。惚れた欲目を抜いても、オレはこの人ほど美しい人を見た事がない。
泣き腫らして赤くなった目元も乱れたプラチナブロンドすらも、彼女の美貌を欠片も損なう事はなく。寧ろ清楚な色香を醸し出していた。
伏せた長い睫毛がふるりと揺れる。瞼を押し上げて現れた瞳の美しさに言葉を失った。晴天の空よりも澄んだ青い瞳は涙に濡れて、まるで凪いだ湖面のようだ。
そこに自分が映っていることが、とんでもない奇跡だと思える。
頭がまったく働かない。ぼんやりとしたまま、唇を一瞬だけ掠めた柔らかな感触を追って、自分の唇に触れる。硬い指先の感触は、今さっきの柔らかさとは天と地の差があり、つい名残を惜しむようにローゼマリー様の唇を見つめてしまう。
すると、オレの動作を目で追っていた彼女は、何度か瞬きをしてから、耳まで赤くなった。
「ごごごご、ごめ、ごめんなさ……っ!」
真っ赤な顔で慌てふためく様は愛らしいけれど、それどころではない。
羞恥で体温のあがった手首の熱さが、掴んだままだったオレの手にも伝わる。じんわり汗ばんでくるのが生々しくて、思わず喉が鳴った。
生きているからこその反応。つまりこれは、白昼夢ではない。オレに都合のいい妄想でもないという事だ。
ローゼマリー様の意思で、オレに口付けてくれた。
「……っ」
まず押し寄せたのは歓喜。
そして少し遅れて、大きな疑問が頭を占めた。
オレは、振られそうになっていたのではなかったか?
魔王と対峙した時に晒してしまった粗野な言動に、引かれたのか。
それとも大人だと思っていた男の、あまりに無様な様に引かれたのか。
三十路の初恋とか、重すぎたとか。
もしくは嫉妬深くて呆れた?
思い当たる事ばかりで、逆に悩む。どれだ。全部か。
でも口付けてくれたという事は、もしかしたら完全に嫌われた訳ではないのかもしれない。
生まれかけた希望を胸に、じっとローゼマリー様を見つめる。
逃げようとするのを、手を引いて止めた。
顔を寄せて、至近距離で覗き込んだ目が涙で潤む。
真っ赤な顔で泣きそうになっている彼女は、嗜虐心と庇護欲を同時に擽る。
ああ、可哀想になと他人事のように思った。
こんな男に捕まってしまって、可哀想に。
掴んでいた手首から掌へと手を滑らせる。指と指を一本ずつしっかり絡めてから、小さな手を握り込んだ。
「レオンさま」
「オレが嫌になったのでは無い?」
吐息が重なる距離で問いかけると、蒼い瞳が丸くなる。思いも寄らない事だと言いたげな反応に勇気を貰った。
「嫌になんて……っ!」
「……うん」
ローゼマリー様は、必死に首を横に振る。
それが嬉しくて、嬉しくて。
だらしなく顔を緩めたオレは、彼女の額にそっと己の額をくっつけた。
「れ、れおん、さまっ」
顔が近いのが恥ずかしいのか、ローゼマリー様はきょろきょろと忙しなく視線を彷徨わせる。
ああ、可愛い。愛しい。
もう手放せない。どうあっても貴方だけは、絶対に。
じっと瞳を見つめていると、観念したように視線がこちらを向いた。光を弾いた蒼い瞳が、波打ち際みたいにキラキラと輝く。
吸い寄せられるように顔を近づけて、口付ける。
合わさった唇の柔らかさに、陶然と酔いしれた。
少しだけ離れて目を開けると、ローゼマリー様は目を見開いたまま固まっている。
その顔が可愛らしくて、赤くなった目元に口付けた。それに驚いたのか、細い肩が大きく跳ねる。
しっぽを掴まれた猫のような反応をする体を感情が命じるまま抱き締めると、更に彼女の体が硬直した。
「オレは、貴方を諦めなくていいですか」
「……っ」
息を呑む音がした。
その後、オレの背に細い手が回る。
「諦めては、嫌ですっ」
「はい」
ぎゅうぎゅうとしがみ付いてくる可愛い人を、腕の中に囲い込む。
胸に湧き上がる愛しさを少しでも伝えたくて、ローゼマリー様の頭に頬を摺り寄せた。
腹の底に溜まっていたどす黒い気持ちが、嘘のようにするりと解けていく。
さっきまで、焦りと不安と嫉妬に飲み込まれそうになっていたというのに、現金なものだ。
自分の身勝手さに苦笑しながらも、悪い気分ではなかった。
何か問題が起こっているのだとしても。
これからどんな高い壁が立ちはだかろうとも。
ローゼマリー様がオレを愛してくれているのなら、それでいい。
どんな困難な道でも切り開いて、この方の元まで辿り着いてみせよう。
ただ、とりあえず。
言質を取る事くらいは、許されるだろうか。
「ローゼマリー様?」
赤く染まっている耳に、直接声を注ぎ込む。
小さく震えてから顔を上げた。泣いて充血した目のせいもあって、ウサギみたいで愛らしい。
今度はコメカミに唇を押し当てる。ひょ、と小さな声で鳴くのが更に小動物めいていて、つい笑み崩れてしまった。
反応が可愛らしいという理由で、唇をくっつけたまま喋るオレは、どうしようもない男だと思う。
「貴方がまだ早いと感じているのなら、正直に言って。いつまでだって待ちますから」
表面上だけ、物わかりの良い男のフリをしてみる。
驚きに瞠られた瞳に、不気味なほどに柔らかい笑みを浮かべるオレが映った。
いくら見舞いという名目があっても、男と二人きりになった時点で、既にローゼマリー様の退路は閉ざされている。
その上密着して、何度も口付けているのだから、誠実な彼女はもう、他の男の手は取れないだろう。
逃げないのなら、追い詰めたりしない。
待てというのなら、いつまででも待とう。
いつかが約束されているのなら。
オレの病んだ思考など欠片も気付いた様子もなく、ローゼマリー様は何か言いたげな目でオレを見る。
おや、とオレは首を傾げた。
オレが用意した見せかけの逃げ道を選んでくれると思ったのに。
今は頷いてくれるだけで、オレは引ける。あくまで期間限定的なものだが。
「姫君?」
「……」
返事はない。ただ小さな手が縋るように、オレの胸元をぎゅっと握る。
上から包み込むように手を重ねると、震えている事に気付いた。
「ひめ、」
「……です」
消え入りそうな声で何事かを呟いた後、覚悟を決めたかのように顔を上げる。
真っ直ぐな視線に射抜かれて、無様にたじろいだ。
「いやです。もう待ちたくありません」
「……え?」
「私が尻込みしていたのに、我儘言ってごめんなさい。もう、顔が腫れていて恥ずかしいとか言いませんから、先延ばしにしないでください」
「……顔?」
全く話についていけないオレは、たまたま頭が拾った単語を繰り返す。
顔が恥ずかしい?
確かに目元が腫れて、小さな鼻の頭と耳は赤くなっているが、それの何が問題なんだろう。可愛い部分と美しい部分しか見つけられないのに。
「くだらない理由で、傷付けてごめんなさい」
「姫君」
「貴方が好きです」
「……っ」
息が止まるかと思った。
小賢しい罠をしかけるオレの醜さをものともせずに、ただ真っ直ぐに感情を向けてくれる濁りない瞳に、致命傷を負わされた。
「ずっと、ずっと、貴方に恋しています」
なんて、綺麗な人なんだろうと、馬鹿みたいに見惚れる。
煌めく髪、宝石のような瞳、整った顔かたちよりも、魂の在り方が一番美しい。この方がどんな姿になっても、見つけ出せると、根拠のない自信すらある。
こんなひと、世に二人といるはずがないから。
「どうか私を、貴方のお嫁さんに……」
勇気を振り絞って告白をしてくれている唇に、己の唇を重ねて言葉を封じる。
虚を衝かれたように瞬く瞳をゼロ距離で堪能したいのに、近過ぎて焦点が合わないのが残念だ。
しっとりと合わせた唇を、何度か啄んだ。
呆気に取られて薄く開いたままのソレに名残惜しさを感じながら、ゆっくり離れる。
「すみません。でも、それだけはオレに言わせてください」
ローゼマリー様の両手を掬いあげて、指先に口付ける。
さっきまでの雄姿から一転、迷子のように頼りない表情で戸惑う彼女と視線を合わせた。
「ローゼマリー・フォン・ヴェルファルト殿下」
呼びかけると、緊張した面持ちで背筋を正す。
花開くように美しい乙女に成長したのに、その眼差しだけは変わりない。
真っ直ぐに、ひたむきに、愛情を向けてくれるその目に、オレがどれほど救われてきたか。
成長しても追いかけてくれるその眼差しに、どれほどオレが安堵したか。
一生かけてもきっと、伝えきれない。
オレが貴方を、どれだけ愛しているかも。
「どうかオレと、結婚していただけませんか」
「……っ」
震えていた指先が、ぎゅっとオレの手を握り返す。
息を詰めたローゼマリー様は、くしゃりと顔を歪める。目尻に溜まっていた涙が零れ落ちて、頬を伝い落ちた。
小さな体がぶつかるみたいに腕の中に飛び込んでくる。
「はいっ……!」
感極まったように震えた声を、大粒の涙を零しながら笑うその顔を、オレは一生忘れないだろう。




