転生王女の愛猫。
緊張する……。
胃の辺りを擦りながら、私は溜息を吐き出した。
父様と兄様が帰った後、母様に手伝ってもらって簡単に支度をした。といっても入浴の許可は出ないので、体を拭き清めて着替えただけ。
腕を鼻先に近付けて嗅いでみる。一応臭くはないと思う。思うけど……心配だ。汗臭いと思われたら死ねる。
挙動不審な私の視線は、時計と扉との間を既に何往復もしていた。
レオンハルト様が部屋に来ると父様は言っていたけれど、具体的に何時なの?
聞いておけばよかった。いつ来るか分からないから、支度が終わってからずっと緊張のし通しだ。
落ち着け、落ち着くのよ。
今からこんなんじゃ駄目。
これから私は、レオンハルト様に気持ちを確かめるという重大なミッションが待ち構えているんだから。
……そう、気持ちを確かめる。てことは、逆プロポーズに近しい事をするんだよね。え、出来る? レオンハルト様に逆プロポーズ? 私が??
いやいやいや、無理無理無理。
好きって伝えるだけでも失神しそうなのに、結婚してくださいって? 無茶だ。下手したら私、その場でショック死する。
でも、じゃあどうすればいいの。
会話の流れで上手く水を向けて、レオンハルト様から言葉を引き出すとか。
結婚しますか的な言質を取る方法でいく?
それこそ無茶でしょ。
どんな奇跡が起これば、そんな言質を取れるんだよ。普通の会話でさえ挙動不審になっている私が、そんな高等技術を使えるはずがない。
……でも、諦めるのは嫌だ。
やる前から出来ないと決め付けてないで、まずチャレンジしてみる事が大事、だと思う。たぶん。
それに、夢でも聞き間違いでもなければ、レオンハルト様は私を好きと言ってくれた。あ、愛しているとも言ってくれた……気がする。
なら結婚も視野に入れてくれているかも。あとは私が上手く話を運びさえすれば……いや、それが難しいって話をしていたんだった。
こんな事なら、もっとちゃんと勉強しておけばよかった。
社交界デビューはまだだけど、お茶会という情報収集にうってつけの場があったのに。
ここにきて、最低限の社交しかしてこなかったツケが回ってきてしまった。
もしくは前世でも積極的に恋バナに参加すべきだったわ。
美容室で時間つぶしに開いた雑誌に載っていた、『付き合って〇年目の彼氏にプロポーズしてもらう方法』をもっとちゃんと熟読しておけばと、今更悔やんでも遅い。
「うぁー……」
奇声を洩らしながら、顔を覆う。
「ネロォ~……」
ベッドの傍にある籠に手を伸ばしかけて、固まった。
悩んでいる時の癖で、いつものように愛猫に癒しを求めてしまった私の視線の先には、からっぽの籠。
ラタンの籠に敷き詰めたクッションの上に丸まって、鬱陶しいと言いたげに片目を開けてこちらを見てくれる子は、もういない。
宝石よりも綺麗な蒼い目のあの子は、もう。
「…………そう、だった」
ぽすんと、布団の上に力なく手を投げ出す。
ヘッドボードを支えにして重ねた枕とクッションに、体を預けて天井を仰ぐ。
唐突にいなくなってしまったからか、実感が湧かない。
今も、城の中を自由に散歩しているんじゃないかと頭の隅で思っている。お腹が空いた頃にひょっこりと現れるんじゃないか。寝て起きたら籠の中で眠っているかも。そんな現実逃避みたいな事ばかり考えてしまう。
馬鹿みたい。世界中探しても、あの子はもう何処にもいないのに。
「……あはは」
乾いた笑い声が、酷く虚ろに響く。
誰も部屋にはいないのに、誤魔化すみたいに顔を片手で隠して目を閉じた。
実感がないと理由を付けて、寂しさと哀しさから目を逸らす。
それでも、胸に穴が開いたかのような空虚さだけは誤魔化しようがなかった。
「……?」
ふと、耳に小さな音が届いた。
いつの間にか眠ってしまっていたらしい。不明瞭な頭で、起きなきゃと思う。
けれど、ぬるま湯に浸かっているような感覚が心地よくて、目を開けられない。
手触りの良いシーツと、お日様のにおいがするクッション。
薄手のカーテン越しの光が、瞼を透かして仄かにきらめく。喧噪は遠く、葉擦れの音のよう。煩過ぎず、静か過ぎず。
私を取り巻く全てが、眠りへと誘う。
ゆりかごの中にいるみたいに、とても幸せな気持ちでもう一度眠りに落ちようとした。
そんな私を引き留めたのは、小さな声だった。
「こら、駄目だ」
艶のある低音が、苦笑するみたいな響きを含んで告げる。
眠っている私に配慮してか、内緒話みたいなボリューム。それでも引き留められたのは、部屋が静かだったからじゃない。
寝ぼけていても、一番好きな人の声だと分かったからだ。
「ん? オレでは嫌か。だがすまんな、少しだけ我慢してくれ」
幼子に語り掛けるように優しい声で、彼は誰かに語り掛ける。
「もう少し寝かせてさしあげたいんだ」
そんな彼の言葉に抗議するみたいに、小さな鳴き声が聞こえた。
にゃあ、と。
「聞き分けてくれ。な……って、こら、駄目だって」
少し慌てた声。すぐ後に、寝台に僅かな重みがかかって、軋む音がした。
寝具の上の小さな重みは、彼の制止も聞かずに寝台の上を移動する。お腹の上に置いてあった手に、ふわふわの毛が触れた。
顔の横に何かの気配を感じる。呼気が掠め、次いで濡れたものが頬に触れた。
さり、さりと、何かが私の頬を舐める。
ザラザラの感触は少し痛い。その痛みさえも、馴染み深いもので。
体が大きく震えた。
夢だ。夢に決まっている。
私は今、幸せな夢を見ているんだ。
必死に自分に言い聞かせる。
だって一度希望を持ってしまった後に幻だったと知ったら、今度こそ立ち直れない。苦しくて悲しくて、立ち上がれなくなってしまう。
彼が困ったように溜息を吐いた後、小さな声で「なんて羨ましいことを」と呟く。
「……しょうがないか。お前もこの方が大好きなんだよな」
慈愛の籠った声に勇気をもらって、少しだけ目を開ける。
ぼやけた視界に映るのは、顔の傍の黒い毛玉。そしてその小さな頭に手を伸ばす、大好きな人。
そっと撫でて、彼はくしゃりと破顔する。
「オレもなんだ。一緒だな」
彼の言葉に返事するみたいに、にゃあと一声鳴く。
そして私の方を向いたのは、蒼い瞳の黒猫。
空よりも青く、海よりも碧い。
綺麗な瞳の愛猫、ネロは、もう一度私の頬を舐めた。「おはよう」って言っているみたいに、にゃあと可愛らしい声で鳴く。
「…………ネロ?」
声が震える。
目と鼻の奥が熱くなって、叫びたくなるような感覚が込み上げた。
夢じゃないと確かめたくて手を伸ばす。けれど触れる直前に躊躇して手を止めたのは、私の弱さだろう。
ネロはきょとんとした顔で首を傾げる。
そして撫でるならさっさと撫でろと言わんばかりに、伸び上がって、私の掌に頭を擦り付けた。
「……っ」
馴染み深い感触に、胸が締め付けられた。
衝動のままに、小さな体を抱き締める。
「ねろっ、ねろぉ……っ」
ぼろぼろと両目から涙を流しながら、しゃくり上げる。
好きな人の前だからと取り繕う余裕もなく、幼い子供みたいに声をあげて泣いた。
涙でぼやけた視界に映るレオンハルト様は、呆れた様子もなく、ただ酷く優しい笑みを浮かべている。
大きな手が、私を驚かさないようにそっと背を擦ってくれた。
よかった。
どうしてネロが無事だったんだろうとか、今までどこにいたんだとか、今はどうでもいい。
私の大切な子が、生きていてくれた。
それ以上に大切な事なんて、一つもない。




