転生王女の夢語。
気が付くと、薄暗い場所に立っていた。
あれ……?
私、どうしたんだっけ。
記憶が曖昧で、思い出せない。
ふわふわと意識も足元も覚束ない状態で、周囲を見回す。四方に広がっているのは、ぼんやりした闇。果てなく続いているような空間の真ん中で私は、ここはどこだろうと途方に暮れた。
ただ、不思議と恐怖心はない。
ここで立ち尽くしているよりはマシだろうと、私は歩き始めた。
ぺたぺたと裸足で進む。といっても目標物も目的地もないので、本当に前に進んでいるのか確かめる術もない。
どれだけ歩いても、景色は一向に変わらない。
ぐるぐると同じ場所を回っているだけの可能性もあるのでは……? と少しばかり不安になった頃、ふと何か小さな音が聞こえた。
「……?」
耳を澄まして、音のする方へと向かう。
距離も正確な方角も分からないけれど、たぶん近づいている。
虫の音、葉擦れの音さえしない静寂の中でも聞き漏らしてしまいそうな小さな音が、少しだけ拾いやすくなった気がしたから。
音は形容しがたいものだった。
粘性のある液体を零したような、泥濘に足を取られたような。多くの人間は不快に感じるであろうソレを、忌避するのではなく探している自分が不思議ではあった。
どれくらい歩いただろうか。
視界の端に、何かを見つけた。
『何か』と表現したソレは、近づいてみても正体が分からなかった。黒っぽい塊は、道の隅に放り出された片方だけの靴に見える。
けれど微妙に動いているので、靴の線は消えた。
「……? ……っ!?」
距離を詰めて目を凝らした私は、ようやくソレの姿をちゃんと捉える。それと同時に、息を詰めた。
驚きすぎて、悲鳴も出ない。
ソレはまるで泥の塊だった。
セット売りされている絵具を全色混ぜ合わせたかのような、黒でありながらも純粋な黒ではない色をしている。
輪郭は曖昧で、ぐねぐねと波打つように揺れていた。そして波打つ度に、塊が崩れて欠片がべちゃりと落ちる。
手足はもちろん、口や鼻、耳のような器官は見つけられない。
それなのに生き物だと判断したのは、動いていたからだけではない。二つ開いた洞の奥底に、目のように光る何かがあったからだ。
ぞぞぞ、と背筋に冷たいものが走る。
な、なななななにこれ! なにこれ!?
訳の分からない生物と対峙しながら、私は固まる。混乱しきった頭の中で叫んでみても、誰も答えてくれるはずはなく。
凝視したまま、じりじりと後退する事しか出来なかった。
回れ右して走って逃げなかったのは、前世のテレビ番組の中で見た、クマと遭遇した時の対処法が何故か思い浮かんだからだ。クマじゃないけど。似ても似つかないけど。
「……?」
しかし、いつまで経ってもソレは、私に襲い掛かってくる様子はなかった。蠢くだけで、その場から動こうともしない。
何のリアクションもなく、私を認識しているのかも怪しい。
もしかして、害はない……?
恐る恐る一歩近づき、観察してみる。
プルプルと揺れる輪郭を見ていると、何かを思い出しそうだ。
どこかで見た何かに近いような、そうでもないような。
「……あ!」
唸って考え込んでいた私は、ふと頭に閃いた映像にポンと手を打つ。
はぐれメ〇ルだ! もしくはバブル〇ライム!
それの実写版みたいな。
自分で思いついておいて、とても微妙な気持ちになった。
あの可愛らしいキャラクターを実写化したら、こんなクリーチャーになるとか嫌すぎる。
某有名ゲーム会社に心の中で土下座しながらも、私はもう少しその生き物に近付いてみた。
「……ねぇ」
思い切って声をかけてみるが、反応はない。プルプルと揺れるだけ。恐る恐る手を翳してみても、『はぐれん』とか『ばぶるん』とか微妙な名前を呼び掛けてみても無駄。
途方に暮れた私は、その生き物が見ているらしき方向へと視線を向けた。
すると薄暗い空間に、長方形型に切り取られた映像が浮かぶ。
古びた映写機の映像みたいだ。色褪せているし、ところどころノイズが走っているみたいに不鮮明で、全体的にぼやけている。
私の隣にいる生き物は、その古い映画に似た映像を見ているようだった。
こぽり、と時折揺れて崩れながらも、目は映像を追っている……ように見える。
暫し逡巡してから、私はその生き物の隣に腰を下ろす。そしてその映像を、一緒に見る事にした。
ジジッと掠れた音を立てながら、風景が流れる。
映像は青々と茂る草を掻き分けて、森へと入っていくシーンから始まった。
一般的な映画のように第三者視点ではなく、誰かの目を借りる形の一人称視点で映像は進んでいく。
『 』
聞き覚えのない不思議な言語だった。けれど何故か、意味はぼんやりと理解出来る。
『兄さん』と呼びかけられた視点の人物は振り返る。背後には声の主らしき少年の姿があった。木製の籠を抱えた少年の年頃は、たぶん十歳前後。少し不安げな顔をしている。鬱蒼とした森は昼でも薄暗いから、入るのが怖いのかもしれない。
視点の主は『仕方ない』といった意味合いの言葉を呟いた後、少年に向けて手を差し伸べる。少年はその手を握ると、安心したように表情を緩めた。
目線の位置からして背格好は同じくらいだと思うが、もしかしたら年子の兄弟なのかも、と思った。
子供達は、母親の薬草を摘みに森へと来たらしい。
村はずれにある森は、本来は子供の立ち入りを禁止している。数年に一度、子供がいなくなるので神隠しの森と呼ばれて畏れられているからだ。
神様は怒ってないかなと心配する弟を、兄は神様なんていないと否定する。どうせ獣の仕業だと言い聞かせる兄の口調は大人びていた。
獣が出てくる前に、必要な薬草だけ摘んで早く帰ろうと兄が促して、薬草探しが始まった。しかし、森の入り口付近では薬草が見つからず、二人はどんどん奥へと入っていく。
必死になって探している間に時は過ぎ、いつの間にか日が傾いていた。
薄暗い森の中にオレンジ色の日が差し込み、影が長く伸びる。誰そ彼、逢魔が時と呼ばれる時間に差し掛かった。
流石にこれ以上は危ないと判断した兄は、帰宅を促す為に弟に声を掛ける。
二人で母の待つ家へと帰ろうとしたその時、異変は起きた。
突如、弟の足元が光り出す。
湿った土の上、木の根の合間を縫うように光で模様が描かれる。複雑な図形と文字で構成されたソレは、私の目には魔法陣に見えた。
戸惑って動けずにいる弟に、兄は叫びながら手を伸ばす。
しかし円から外へ引っ張り出す前に、光の勢いは増して弟を包み込む。
どうにか弟の手を取ったところで光の奔流に飲み込まれ、そこで兄の意識は途絶えた。
暫しの空白と無音。
次に兄が目を開けた時、彼等がいる場所は森ではなかった。
石造りの白い壁と柱。天井はアーチを描き、鋳物で装飾された灯りが等間隔に垂れさがっている。窓は木製の飾り格子が嵌っていて、美しい形の影を落としていた。
西洋風の建物は、今まで彼等がいた場所とは似ても似つかない。
混乱した二人の少年がへたり込んでいる白い床の上には、さっき見た魔法陣がくっきりと描かれていた。
『 』
硬質な靴音と共に、大人の男の声が響く。
神経質そうな顔立ちをした壮年の男は、貫頭衣と一枚布を組み合わせた服装をしている。
古代ローマを題材とした映画に出てきそうな……なんていう名前だったかな。トゥ……、えっとチュニックだっけ?
建物は私が今生きている世界のものに似ているけれど、服装は違う。国が違うのか、それとも時代が違うのか。
ただ今は、それは横に置いておこう。どうでも良くはないけれど、それよりも。
意思を無視して、召喚されてしまったらしい二人の少年。
彼等の行く末以上に、重要な事はないだろう。




