転生王女の絶望。(2)
ネロ、ネロ、ネロ。
私の大切な子。
そう、大切な子なのに。それは間違いないのに。
その器に宿る魂が挿げ替えられてしまった事に、私は気付けなかった。
ううん……疑問は持っていたのに、ずっと目を逸らし続けていた。偽物の平穏にしがみ付いて、大切な愛猫の異変を見ないふりしていた。
いつからだなんて、考えるまでもない。
石が割れたあの日。私を守るように、小さな体で襲撃者に立ち向かってくれたあの時に、貴方は。
「……っ」
泣きたくなんてないのに、視界が滲む。
目の奥が熱くなって、息が詰まった。
やだ、やだよ、ネロ。
そんなのやだよ。こんなお別れなんて、絶対にいやだ。
ぼたぼたと、大粒の涙が黒猫の顔に降り注ぐ。
黒猫は雫に濡れながら、不思議そうに私を見つめた。
『たかだか猫一匹の為に泣くのか。理解出来んな』
私にとってのネロは、たかだかなんて言葉で表していい存在じゃない。
そう言い返したくても、言葉に出来なかった。
悲しみと罪悪感に、圧し潰されてしまいそう。
私を観察するように眺めていた黒猫は、目を眇めて首を傾げる。
『動物でそれならば、親しい人間を失ったら、どれ程絶望する?』
「っ……」
しゃくり上げていた私は、頭に響いた声に凍り付いた。
涙の衝動を逃がそうと繰り返していた浅い呼吸は、ひゅっと乾いた音を立てて止まる。
一つの絶望に囚われる事すら、許されないらしい。
カラスが取り落としたナイフに、手が伸びる。
必死に抵抗しようとしても、体は言うことを聞いてくれない。指先がナイフの柄に触れ、ゆっくりと拾い上げる。
カラスは蹲ったまま、苦しげに呼吸を繰り返していた。意識を保っているだけで限界なんだろう。俯いている事で晒された首筋にナイフを振り下ろせば、ひ弱な私の力でも命を奪えてしまう。
ナイフをカラスに振り下ろす光景を想像してゾッとした。指先が遅れて、カタカタと大きく震えだす。
それなのに私の右手はナイフを取り落とさず、切っ先をカラスへと向けた。
いやだ……絶対に、嫌だ……‼
『……いや、コレではつまらんな』
ふと、何かを思いついたような声がした。
そして何故か、カラスに向けていたナイフがあっさり下ろされる。
『まだ壊すには早い』
状況が上手く呑み込めていない私を置き去りに、黒猫は独り言を零す。カラスには興味を失くしたのか、私の体は彼に背を向けるように歩き出した。
片手に黒猫、片手にナイフを持ったまま、扉へと向かう。
何処に行くのかと考えると不安だったけれど、一方でカラスから離れられる事に安心もしていた。
体で押すように扉を開ける。
廊下には護衛の騎士が二人、倒れていた。外傷はなさそうなので、たぶん眠っているんだろう。
今日の見張りが、クラウスでなくて良かったと少しだけ思ってしまった。
彼がもしこの場にいて眠ってしまっていたとしたら、後で自害しかねない。
城内は、不気味な程に静まり返っていた。
何人が、この異変に気付いてくれているのだろう。カラス以外にも意識を保てている人はいるのかな。
そもそも夜だから、もとより起きている人は少ない筈。
ペタペタと間抜けな足音を立てながら、廊下を進む。
大理石の床は冷え切っていて、裸足の私からどんどん体温を奪った。部屋着も薄手なので、防寒機能は殆ど期待出来ない。そういえばショールも、結局取れなかった。
腕の中の毛玉だけが、温もりを伝えてくれる。
あったかい。それなのに、中身は私の大切な子ではないなんて。
質の悪い冗談みたいだ。
「……っ」
じわりとまた涙が滲みそうになったのを、なんとか堪える。
泣いている場合じゃない。これ以上、誰も傷付かないようにする事の方が重要。哀しむのも悔いるのも後回しだ。
そう必死に自分に言い聞かせるけれど、哀しみは消えてくれない。
そんな私の耳に、背後から物音が届いた。
「……?」
自分の意志で振り返れないので、音の正体を探れない。
遠くの方から聞こえてくる音は、決して大きいものではなかった。城内がこれ程静かでなければ聞き逃してしまう程度のもの。
何かを引き摺る音……否、摺り足で歩いているような?
音に気付いたのか、黒猫は私の腕の中から伸び上がった。
肩に前足を掛けて、背後を覗き込む。
視界の端に映る黒い耳が、軽く揺れた。
『……なんだ、アレは』
暫しの沈黙の後、呆れたような声が頭の中に響く。
なんだと言われても、私は振り返れないから確認の仕様がない。
得体の知れない存在が、訝しむものが何なのかは気になるけれど。
そんな風に思っていたら、私の体がくるりと回れ右をした。
急に視界が変わって戸惑う私の前には、城の廊下が広がる。
等間隔に配置された灯りでぼんやりとオレンジ色に照らされているけれど、足元は暗い。おぼろげな闇には、何かが潜んでいそうな不気味さがあった。
遠くにうすぼんやりと見えるのは、私の部屋の前に倒れていた騎士達の体だろうか。
目を凝らしてじっと見つめていると、床の上にいる何かが、ずるりと動いた。
「……!?」
ひゅっと息を短く吸い込む。声が出せていたのなら、きっと悲鳴をあげていた。
真っ暗な床の上を、何かがずるり、ずるりと這う。
安っぽいホラー映画のワンシーンみたいな状況に、背筋が凍り付いた。
逃げ出したいのに、相変わらず足は動かない。
訳の分からないものが近づいてくるのを見つめているのが怖くて、せめてもの抵抗に、ぎゅっと目を瞑った。
「……り、さま……っ」
「…………?」
掠れた小さな声が聞こえた気がした。
しかも、とても聞き馴染みのある声だったような。
恐る恐る、目を開く。
薄暗い廊下の床に、這いずる何かに焦点を合わせた。
「…………」
無言で立ち尽くす私の唇が、驚きにぱかりと開く。
廊下に這いつくばっていたのは、得体の知れない化け物ではなかった。学校の怪談で語られる怪異でもなかった。
短く切り揃えられた焦げ茶色の髪と、目尻の下がった翠の瞳。細身ながらしっかりと鍛えられた体躯を包むのは、普段身に纏う近衛の制服ではなく、白いシャツと黒いトラウザーズというシンプルなもの。
左手には鞘付きの剣を握っている。
爽やかな笑顔が似合うと女性に人気の護衛騎士は、必死な形相でこちらへと向かってきていた。……匍匐前進みたいな恰好で、だ。
状況も忘れて、ぽかんとしてしまった。
だってテケ〇ケだと思ったらクラウスだったって、そんなの理解が追い付かない。
感動するシーンなのかもしれないけれど、絵面がショッキング過ぎる。
「ローゼ、マリーさま……! 今、お助けいたしますっ」
床を這っていたクラウスは、腕を突き、身を起こそうとする。
けれど体が上手く動かないのか、生まれたての仔馬みたいな不安定な様子だった。
クラウスって脳きn……じゃなくて物理タイプだから、魔法耐性低そうだよね。単なるイメージだけど。でもあながちハズレでもない気がする。
たぶん今も、相当辛いんじゃないかな。
『無様だな』
嘲るような声で黒猫は嗤う。
確かに恰好悪い。でも、同時に凄く恰好良いとも思う。
なんかクラウスらしいから、私も、少しだけ元気がでた。
負けるもんかって、ちょっと思えたんだ。
クラウスは一歩進んだかと思うと、すぐにべしゃりと床に崩れ落ちた。
私の体はクラウスが近づくのを待たず、踵を返して再び歩き出す。距離はあっという間に離れていった。
何度も私を呼ぶクラウスの声を背後に感じながら、私は心の中で語り掛ける。
大丈夫。私は諦めたりしないから。




