転生王女の絶望。
ぱちりと目を開けると、またしても周囲は真っ暗であった。
夢から覚めても暗闇。無限ループに陥ったかのような恐ろしさを感じて鳥肌が立つ。
でも少しすると目が暗闇に慣れたのか、室内の様子が見えるようになった。見慣れた自室の景色に肩の力が抜ける。
さっきまでの得体のしれない闇ではない。覚えのある、夜の暗さだ。
ほぅ、と安堵の息を零す。
威勢よく啖呵を切ったのはいいものの、正直怖かった。
私は花音ちゃんみたいに特別な力を持つヒロインではない。漫画やアニメの主人公達のように、才能がある訳でもない。
世界を救うどころか自分の身を護るだけの力すらないのに、正体不明の存在にたてつくとか、我ながら無謀だったと思う。
一歩間違えば、指先一つでぷちっと潰されていたかもしれないと思うと、今更ながらにぞっとした。
「夢で良かった……」
二重の意味で。
訳わからないものに対峙するのも、レオンハルト様に振られるのもご免だ。
というか、アレは魔王なんだろうか。
やはり魔王は、私の中にいるの?
己のささやかな胸に、そっと手を当てる。
だとしたら、夢という形でしか接触してこない事にも意味があるのかな。
もし魔力を殆ど持たない私の中にいる事で、なんらかの制約を受けているのなら、対応策があるかもしれない。
少し眠れたお蔭か、頭がすっきりしていた。
ネガティブな考えが消えて、代わりに楽観的な感覚が戻ってくる。
うん、そう。これが私。弱っちくて特別な力も持ってないけれど、精いっぱい足掻く。
恋も命も、簡単に諦めてたまるもんか。
そうと決まれば、やる事はいっぱいある。
まずは、今のうちに考えを纏めておこう。
寝台に手をついて身を起こす。
全身の怠さは、一週間にも及ぶ不摂生のせいだろう。でもその不調も、ここが夢ではなく現実である事の証拠みたいに思えて、少し嬉しくもあった。
「さむ……」
夜気が肌を刺す。腕を擦りながら辺りを見回すと、ソファの上に畳んで置かれたショールを見つけた。
取りに行こうとした私の足が、綴れ織りの上質な絨毯に触れるのと、ほぼ同時。
油断しきっていた頭に、声が響いた。
『出直してこいとは』
「……っ」
ざっと血の気が引く。
直接神経を撫で上げたような不快感が全身を駆け抜けた。
『温室育ちのか弱い蝶かと思っていたが、存外、図太いな』
幾人もの声が重なったかのような不協和音。ラジオのノイズに似た音は夢の中で聞いたものと同じ。
けれど夢ではない。思考や感覚がハッキリしていて、眠っている時の曖昧さがなく、それ故により不気味で、より恐ろしい。
さっきより闇が濃くなった気がする。
空気も重苦しく、息苦しい。
足元から冷気と共に、得体の知れないものが這い上がってくる。
ざわざわとした感覚に、悲鳴を押し殺した。
「!?」
後ろへ逃げようとして、異変に気付く。体が動かない。
恐怖で竦み上がっているとかではなく、自分の意志で体を動かせない。声も同じで、喉の奥で閊えている。
必死に口を動かそうとしても、乾いた空気が洩れるだけ。
『こんな脆弱な器では、小娘一人操る事も儘ならぬか』
私の自由を奪っておきながら、そんな事を言う。頭に響く声は、忌々しいと言いたげに舌打ちをした。
私の体が気に入らないなら出ていけと叫びたいのに、出来ない。悔しくて歯噛みしていると、体が勝手に動き出す。
ピアノ線に吊られた人形みたいに、私の意志を無視して立ち上がった。
『魔力はほぼ無く、ひ弱で腕力もない。そのくせ、折れない精神力だけはあるとは、厄介だな。使い道に困る』
どこか鷹揚な響きのある声が、溜息と共に吐き出す。
自分の体を他人に動かされるという感覚は、言いようのない恐ろしさがある。意識がはっきりしているからこそ、余計に怖い。心臓がバクバクと早鐘を打つ。
このまま窓を突き破って、飛び出されても私にはどうする事も出来ない。
他人に生殺与奪権を握られているという恐怖に、震えが止まらなかった。
ゆったりとした動きで、足が動く。
どこを目指しているのか、知らないのも怖いけど、知るのも怖い。
一歩、また一歩と足が動く。首を動かす事も儘ならない私の足元で、何かが蠢いた。
ひっ、と声にならない叫びが喉の奥で消える。
せめてもの抵抗に目を瞑った、その時。
ガラスが割れる派手な音が鳴り響いた。
「っ!?」
反射的に開いた目に映ったのは飛び散るガラス片と、揺らめくカーテン。
そして室内に転がり込んでくる、大きな黒い影。
カーテンに遮られていた淡い月光が、室内を照らす。
飛び込んできた影は、ガラスの破片が散った絨毯に手を付いて身を起こす。動くのに合わせて、暗色の外套がひらりと揺れた。
駆け出すと外套のフード部分が落ちて、癖のある黒髪が零れ落ちる。
カラス、と呼んだ声はやっぱり音にならなかった。
素早い動きで距離を詰めたカラスは、何かに向かってナイフを振り下ろす。しかし細身のソレは対象には掠りもせず、空気だけを切り裂いた。
カラスの動きに合わせるように、黒い塊が動く。
跳躍した塊を追って、カラスは何かを放る。カカッと連続した音が鳴り、壁に暗器が二本突き刺さった。
「っ……」
次の動作に移る前に、カラスは一瞬だけ動きを止める。膝をつきそうになるのを堪えたように見えたのは、気のせいか。
……ううん、違う。
以前に見たカラスの戦いは、目で追うのが難しいくらい速かった。今の彼の動きは常人より俊敏だけど、カラスにしては鈍いと思えた。
それに、なんだか苦しそうだ。
息切れしているような呼吸音が、時々漏れ聞こえる。
『しぶといな。眠気に抗わず、さっさと気を失えばいいものを』
頭の中に響く声は、カラスを嘲笑うかのように吐き捨てる。
眠気……もしかして、私以外にも何らかの力が働いているの?
ガラスが割れた音は結構遠くまで響いただろうに、誰も駆けつけない理由もそれ?
「っぐ」
がく、とカラスはその場に崩れ落ちる。重力に圧し潰されたかのように背を丸め、額に手を当てた。
酷く苦しそうな呻きが、薄い唇から零れ落ちる。
「……!」
もういいから逃げてと、そう声をかける事すら今の私には出来ない。
棒立ちするだけの自分が歯痒かった。
しかしカラスは、そのまま屈したりしなかった。
深く屈みこんだかと思うと、床に手をついてバネのように勢い良く駆け出す。黒い塊に向けて、何度もナイフを振り下ろした。
その攻撃の全てを黒い塊は避けている。
『しつこい』
うんざりしたような声で、何かは呟く。
「!」
すい、とまたしても私の足が、勝手に動く。
私の意志を無視して走り出した足に、上半身が戸惑っておかしな動きになった。下手くそな人形劇みたいにチグハグな動作のせいで、骨や筋が痛みを訴えている。
悲鳴さえも出せない私は、誰かに操られるままにカラスの前に躍り出した。驚愕に目を見開くカラスを見つめたまま、黒い塊を庇うように抱き寄せる。
私の顔に突き刺さる寸前で、カラスのナイフは止まった。
息を乱したカラスは、その場に膝をつく。からん、と手の中のナイフが床に落ちた。
『使い道に困っていたが、良い盾になりそうだな』
頭の中に声が響くのと同時に、腕の中の塊が身じろぐ。
得体の知れない何かを抱きかかえている筈なのに、とても手に馴染む感触があった。ふわふわの毛並みは、私がとても愛している彼と同じもので。
確かめるのが恐ろしいのに、勝手に視線が吸い寄せられる。
艶のある黒い毛並みに、小さな体。宝石を思わせる青い瞳は、今はグレーに近い暗さになってしまっているけれど……見間違えるはずもなく。
私の、かわいい、かわいい、大切な子。
「ねろ……っ!」
その時だけ声が出せるなんて、とんでもなく悪趣味だ。
罵倒してやりたいのに、声が詰まる。
苦しさに歪む私を見上げた丸い瞳が、三日月型に細められる。
表情筋が少ないはずの猫が、にやりと厭らしく笑った。
『やはり絶望は心地良い』




