第一王子の苦悩。
※ネーベル王国第一王子、クリストフ・フォン・ヴェルファルト視点です。
いい加減、我慢の限界だ。
廊下を進みながら、胸中で吐き捨てる。
腹の底に蟠る苛立ちは、動作や表情に出さないよう気を付けていたつもりだったが、道を空ける侍女らの顔色を見る限り、上手く制御出来ていないらしい。
「クリストフ殿下。どちらへ……」
困惑した様子ながらも後をついてくる護衛に、返事をする心の余裕さえない。
目的の部屋に辿り着くと、中へと取り次ぎを頼む。さして間を空けずに「入れ」と短く促されて、室内へと足を踏み入れた。
部屋の主たる国王が顔をあげ、書類が山積された執務机越しに視線が合う。
「いつまで放置なさるおつもりですか」
形式的な挨拶も前置きもなく、出し抜けに本題をぶつける。
控えていた文官は、ぎょっと目を剥いたが、国王は常の無表情のまま。すい、と手を振って人払いを指示する。文官は礼をとってから、慌てて部屋を出ていった。
私も視線で護衛に退室を命じる。
僅かの沈黙の後、出ていった彼の手で扉が閉められた。
国王は手元の書類に視線を戻す。酷薄な印象を受ける瞳が文字を追う様子を眺めていると、更に苛立ちが増した。
「陛下」
刺々しい心情を隠さず呼ぶ。しかし国王は私の声など聞こえていないかのように、羽根ペンを手に取って署名した。
決裁済みの山に書類を放り、羽根ペンを置く。椅子の背凭れに寄り掛かるように体重をかけると、ぎしりと乾いた音が鳴った。腹の上で手を組んだ国王は、ようやく私へと視線を向ける。
「それで、何の用だ」
用件など聞かずとも分かりきっているだろうに。
僅かの歪みもない端整な顔を真正面から睨め付けながら、私は唇を噛み締めた。
私の妹、ローゼの様子がおかしいと報告を受けたのが一週間前。
それ以降ずっと部屋に閉じ籠っているらしい。一度だけ図書館に行ったようだが、それだけ。毎日のように立ち寄っていた温室にさえ近づかない。
体調が悪いのか? なにか嫌な事があったのか?
考えてみたが、導き出される答えは否だ。
あの子は、自分よりも周りの気持ちを大切にする。
辛い事があったとしたら、閉じ籠るのではなく普段通りを装う筈。自分だけの問題なら、気取らせないよう、から元気でも笑ってみせるだろう。
そんなあの子が、部屋に閉じ籠っているというのは明らかに異常事態。
取り繕えないほど大きな問題を、一人で抱え込んでいるのではないか。
それは目の前の男も、気づいている筈なのに。
「……貴方が動かないのならば、それでいい。こちらも勝手にします」
「面会の許可をした覚えはないが」
薄青の瞳と淡々とした声に変化はなかったが、呆れと嘲りを向けられたと感じたのは被害妄想か。真実だろうと気のせいだろうと、どっちでもいいが。
「許可を出す気などないくせに」
ハッと鼻で嗤った。王太子という立場にあっても不敬だと断じられかねない態度を、改める気などない。
酷く凶暴な衝動が、腹の底で渦巻いている。吐き出さなければ、おかしくなりそうだ。
「お前はアレの事となると、途端に愚かになるな」
「否定はしません。ですが賢明な王太子であろうと願うのもまた、あの子の存在があってこそです」
弟妹の存在が良くも悪くも、私を人間にする。
「私とヨハンの原動力は、あの子だ。誰にも奪わせはしない」
室内に沈黙が落ちる。
ギィと椅子が鳴いた後、国王の薄い唇から溜息が洩れた。
「宣言されるまでもなく理解している。アレはお前達だけでなく、多くの人間の生命線だ。しかも揃って、国の中枢に食い込む要人ばかり」
厄介な事だ、と国王は目を伏せ呟く。
「ならば、何故」
分かっていながら、どうして放っておくのか。
暫しの間の後に開かれた目は、焦れたように疑問を投げる私を捉えた。
「手を出さないのではなく、出せない、が正しい」
「……?」
意図を汲み取れず、無言のまま次の言葉を待つ。
「閉じ籠るという行為は、他者との関わりを断つもの。考えられる可能性は、他者から己を守る為の行為。そして、その逆の二通りだ」
「逆……」
国王の言葉を、独り言のように繰り返した。
誰かから身を守る事の逆。
つまりローゼは、自分自身から誰かを守ろうとしている……?
そんな馬鹿な。
あの子が他人を傷つけるなんて出来る訳がない。
自分よりも人を優先できる子だ。
感情的になったとしても、誰かを害するという選択肢自体が存在していないのではとさえ思う。
ローゼだって人間なのだから負の感情くらい持っているだろうが、それにしてもあの子の気性を考えると、暴力とは結び付かない。
理性で制御する以前の問題だ。
誰かに命令でもされない限り、可能性はゼロ。
「……」
そこまで考えて、嫌な予感がした。
あの子の意思を無視して、他者を傷付ける可能性。
『魔王』という単語が頭に浮かぶ。
同時に全身から、ドッと嫌な汗が噴き出した。
「異世界からの客人と接触しても特に変化は見られなかった。その後も異変はなかったというのに、まさか今更になってとはな」
「っ、そうです。フヅキが触れても問題なかったと聞きました。なら、あの子が抱えている問題は別にあるのでは?」
上に立つ者は、常に最悪の状況を想定する必要がある。
王太子という立場にある人間が、希望的観測で見誤るなどあってはならないというのに、必死に可能性へと縋り付いてしまう。
「そうではない。客人との接触で炙り出せるという認識が間違っていたという事だ」
分かっているだろう、と言わんばかりに、国王は現実を私に突き付ける。
「魔導士長の指導の元、客人は能力の制御方法を学んではいるが、魔法とは似て非なるもの。何処まで通用するかは分からない」
剣や魔法は器に傷をつける事は出来ても、魔王そのものを滅ぼす力はない。
切り札とも呼べるフヅキの能力が未だ開花しきれておらず、滅ぼすには足りないのだとしたら。
「封印も考慮し、打てる手は既に打っている。しかし、今こちらから動くのは得策ではない。……現状、アレを人質に取られているようなものだからな」
苦い声でそう告げた国王の眉間には、深く皺が刻まれている。
普段の無表情との差が、差し迫った状況を物語っているようで、足元が崩れ落ちるような心許なさを覚えた。
ぐらりと揺らぎそうになった体を、ぐっと押し留める。
目を逸らしていても、現状は好転しない。
大切な妹が人質に取られているというのに、嘆いている場合か。
「……私に出来る事はございますか」
押し殺した声で問うと、国王は意外だと言いたげに軽く瞬く。
心情を読むようにじっと顔を見つめた後、ふ、と詰めていた息を吐いた。
「大人しく仕事でもしていろ」
ない、と言外に告げる。
「アレが守りたい人間の中にはお前も含まれている。不用意に近づいて、苦しめてやるな」
知ったような口を利くなと言ってやりたかったが、出来なかったのは、国王の表情が予想外に柔らかかったからだろうか。
しかし一瞬の後には、見間違いであったかのように、いつもの冷徹なそれに取って代わった。
「アレの精神が限界だと判断したら、消滅から封印へと切り替える。その覚悟はしておけ」
ぐっと拳を握り締め、衝動を堪える。
頷けないが、反論も出来ない。代替案を持たない私が「許さない」と喚いても、何の意味もない事は理解していた。
今、私が出来る事はここにはない。
時間を浪費するのではなく、ローゼを救う手立てを考えよう。
退室する旨を伝え、踵を返す。
扉が閉まる寸前、誰に言うでもない独り言めいた国王の言葉が耳に届いた。
「もっとも、あの能天気な娘が、闇に呑まれるというのは想像できんがな」
父親のような言葉は癪に障るが、私もそう思う。
優しく温かな、私の太陽。あの子に暗闇は似合わない。




