転生王女の初恋。(2)
頭の中が真っ白になった。
何が起こっているのか。現状がさっぱり理解出来ない。
ぱちぱちと、忙しなく瞬きを繰り返しても景色は一向に変わらず。
焦点が合わない程、間近にあるレオンハルト様の顔。そして唇に重なる感触。少しカサついた柔らかなソレは、たぶん彼の唇で。
えっと、どういう事だ。
口と口がくっついたら、キスになっちゃう。でも、レオンハルト様が私にキスする理由もないし。
じゃあ、コレはなんなんだろう。キスじゃないなら、何なの?
ぐるぐる、ぐるぐると思考がループする。
何一つ理解出来ないまま、私はレオンハルト様の長い睫毛を眺めていた。
時間はたぶん、ほんの数秒だったんだろう。
ちゅ、と濡れた音を立てて唇が離れる。
レオンハルト様の伏せていた目が開いて、至近距離で視線が絡み合う。
じっと注がれる眼差しは、焦げ付きそうに熱い。祈りにも似たひたむきな感情が、視線と共に捧げられた。
「……なん、で……?」
純粋な疑問が、ぽろりと口から零れ落ちる。
掠れた声は、近距離でも聞き取るのが難しい程小さなものだったけれど、レオンハルト様には届いたらしい。
端整な顔が、泣き笑うみたいに歪んだ。
「なんで?」
レオンハルト様は、私の言葉を繰り返す。私を責めているような、自嘲しているような。どちらとも取れるような声は、酷く苦しそうで。
無意識のまま伸ばしかけた手を、掴まれた。
レオンハルト様は、私の手を自分の頬へ導く。
押し当てられた私の掌に、懐くみたいに頬を擦り寄せる。
「そんなの、決まっている」
掌に唇が触れる。言葉と共に吐き出される呼気の熱を感じた。
「好きだからだ」
眉を顰めて、辛そうに声を絞り出す。
大好きな夜色の瞳が、ひたと私を見据えた。
「貴方を――愛しているから。それ以外に理由なんてない」
その言葉を聞いた瞬間、世界から彼以外の音が消えたような気さえした。
疑問とか猜疑心とか、色んなものが頭から消える。
真正面から捧げられた言葉だけが、すとんと心の中心に落ちた。
ああ、好きだから、口づけてくれたんだ、と。
じんわりと染み込むみたいに理解する。それを後押しするみたいに、レオンハルト様は私の掌や指先に、懇願するような口づけを繰り返す。
「ひめ、姫君……ローゼマリー様」
低く掠れた声で呼ばれても呆けたままの私に、今度はレオンハルト様が手を伸ばす。両手で頬を包み込まれて、さっきみたいに上向かされた。親指が唇を軽く押し、開かせる。
また、キスされるんだと思った瞬間。
はたと、我に返った。
「っ……!」
反射的に、私とレオンハルト様の顔の隙間に手を差し入れる。
「…………姫君」
私の掌で遮られている為、顔は見えないけれど、焦れたような声が降ってきた。
「ま、まって……っ。まって、ください」
顔が熱い。たぶん耳や首どころか、全身が真っ赤になっている気がする。混乱しすぎて、涙が滲んできた。
すきって、レオンハルト様が私をすきって言った?
そんな馬鹿な。だって、わたしだよ?
猪突猛進で、ネガティブで、お姫様らしいところなんて一つもなくって、子供体型で。レオンハルト様が好きだって泣き喚いた子供の頃から、何も変わってない。
そんな私をレオンハルト様が、好きになってくれた?
可愛い花音ちゃんじゃなくて、私を選んでくれたっていうの?
それ、なんて奇跡?
さっきまでと違う意味で、体が震える。
押し寄せるのは、戸惑いと歓喜。
失恋したと思いこんでいたから、唐突に訪れた幸せを受け止めきれなかった。
「……っ、あ」
混乱を極めたせいで声の出し方さえも忘れたんだろうか、私は。声が震えて、まともに出せない。
気を抜いたら、膝から崩れ落ちそう。
だって、レオンハルト様を諦めようと決めたのはついさっき。
失恋したって思って、十年以上温めてきた恋を手放そうとしていたのに。
そんなの、急に受け止めきれない。
胸がいっぱいになって、息が苦しい。呼ばれる度、触れられる度に、きゅうきゅうと心臓が締め付けられる。
幸せで死んでしまいそう。
「ローゼマリー様」
遮っていた手に、レオンハルト様の手が触れる。手首をそっと握られて、顔の前から退かされた。
今、きっと酷い顔してるのに。
真っ赤でぐしゃぐしゃで、見れたものじゃないはず。色んな液体が洩れてるし。こんなの、百年の恋も冷めちゃう。
視線から逃れる為に俯く。
それを拒絶と受け取ったのだろうか。手首を掴む手が強張って、指が食い込んだ。
「……っ、どうすればいい?」
「……え?」
レオンハルト様の声は、酷く硬い。緊張しているのか、手首を拘束したままの指先もどんどん冷たくなっていった。
急激な変化に驚いて顔を上げる。みっともない顔を隠していた事も忘れていた。
「何でも用意する。貴方が望むなら、なんだってする」
レオンハルト様の端整な顔からも、血の気が失せている。
絶望の淵に立たされた時に、人はこんな顔をするのだろうかと。そんな事を考えてしまうくらい、彼は酷い顔をしていた。
「だから」
「レオン様?」
「だから、どうか……もう一度オレを愛してくれ」
くしゃりと顔を歪めて吐き出された言葉に、胸の真ん中を刺し貫かれる。
どろりとした執着めいた言葉に、少しだけ喜んだ後、死にたくなるくらいの自責の念を感じた。
私は、大好きな人になんて言葉を言わせてしまったんだろう。
誰よりも幸せになってほしい人を、私が苦しめてしまった。
そんな死にそうな顔で、苦しそうに言わないで。
好きだから。ちゃんと私も、好きだから。
そう思うのに、上手く言葉が出ない。
頭はずっと開店休業状態。涙腺は壊れた蛇口みたいにゆるゆるだし。足もガクガクで、立っているのがやっと。
こんな大事な時に、何一つ思い通りにならないのが歯がゆくて仕方ない。
「……、き」
ああ、もう。
頑張って、私の舌と言語中枢。
涙で滲んだ視界の中、レオンハルト様を見上げる。濁りのない黒い瞳を見据えてから、一番伝えたい言葉を告げた。
「……しゅき」
噛んだ。
一番大事な場面で噛んだ。しゅきってなんだよ三歳児気取り(?)か。
今までの緊迫した状況が嘘のように、間の抜けた空気が流れる。
レオンハルト様の鋭い目が、きょとんと丸くなった。かわいい。かわいいけど、ちょっと今のやつは忘れてほしい。
これ以上ない程に赤かった筈の顔が、更に赤く染まっていく。そろそろ血管切れると思う。
両手で顔を覆って奇声をあげたいのに、両手首はレオンハルト様によって拘束されていて無理ときた。誰かわたしを埋めてください。もしくは軽く殴って、記憶喪失にして。
せめて笑い飛ばしてくれたらと思うのに、レオンハルト様は笑わない。
じっと私を見つめたまま、言葉を待っている。だから、私は覚悟を決めた。情けなくて消えてしまいたいけれど、もう一回。今度はちゃんと伝えるために。
ゆっくり口を開く。
「……すき、です。ずっと前から……ううん、今も」
息を詰めたレオンハルト様の唇が、きゅっと引き結ばれた。
期待と恐れに揺れ動く心を、眼差しが雄弁に語る。
ああ、なんて愛おしいんだろう。
「変わらず、貴方を愛しています」
「っ……」
告げた瞬間、レオンハルト様は私を掻き抱いた。




