騎士団長の苦悩。
※近衛騎士団長 レオンハルト・フォン・オルセイン視点となります。
城の中庭の端で、オレは今、異世界からの客人たる少女に抱きつかれている。
いくら人目につきにくい場所とはいえ、いつ誰が通りかかるか分からない場所で。原因の一端は自分にあるとはいえ、全くもって好ましくない状況に頭痛がする。
「……フヅキ殿」
困り果てたオレが名を呼ぶと、少女はギッと睨むようにオレを見た。
「レオンハルト様は、じっとしていてください!」
視線に込めた『離してくれ』という要望は、きっちりと読み取られた上で却下される。溜息を吐くのを堪えながら、オレは空を仰ぐ。
一体、どうしてこうなった。
現実逃避気味に心中で呟きながら、今までの経緯を思い出す。
始まりは悪夢だった。
悲惨な光景の比喩ではなく、眠った時に見る正真正銘の夢だ。
たまに夢見が悪い事なんて誰だってある経験だろう。幼子でもあるまいし、悪夢如きで夜泣きはしないし、一晩二晩続いたところで精神を削られる程ヤワではない……と思っていた。ついこの間までは。
どうやらオレは軟弱な男だったらしい。
大切な女性を泣かせる夢を見て眠れなくなる位には、駄目な人間だった。
夢の中でオレは、いつも彼女を泣かせていた。
彼女の周囲にいる男達を手にかける夢を見た。
怯えて逃げようとする彼女を押さえつけて、傷付ける夢も見た。
毎夜、オレの夢の中で彼女は静かに涙を流した。
泣き喚いてオレを責めるのではなく、深い絶望に支配された空虚な瞳から、とめどなく涙を零す。
何日も続けて似たような夢を見るなんて、それだけで十分異常事態なのだが、ただの悪夢ではないと判断するには決定打に欠けた。夢の登場人物は、オレと彼女。たまに他の人間も出てくるが、彼女やオレの周辺にいる実在の人物で、見知らぬ存在が介入した記憶はない。
外部からの干渉を受けている証拠どころか、根拠すらもない。
つまり、おかしいのは状況ではなく、オレの頭だという可能性もある。
これは自分の奥底に眠る醜い願望なのか。
それとも、何か計り知れない力が働いているのか。
悩んだオレは、フヅキ殿にさり気なく相談する事を選んだ。もしオレの中に魔王がいるのなら、早急に対処しなければならない。
魔王に理性を溶かされたオレが、再び、彼女に手を伸ばす前に。
そう考えて、フヅキ殿に時間を取ってもらった。
口下手なオレは、どう説明するか考えあぐねた挙げ句、失態を犯す。
魔王がオレの中にいる可能性はあるかと問うと、人当たりのよい笑顔だったフヅキ殿の表情が一転した。
心当たりがあるのかと厳しい顔付きで糾弾した彼女は、明言を避けるオレに苛立ち、あろうことか抱きついてきたのだった。
曰く、天敵である自分が抱きつく事で、嫌悪感や拒絶反応を示すのならばその可能性があるのではないかと。雑過ぎる。
しかしそう言われてしまえば、もう避ける事も突き放す事も無理になった。そして冒頭に至る。どうする事も出来ずに棒立ちするオレと、しがみつくフヅキ殿という地獄絵図の完成だ。
オレの一挙一動を見逃すまいと、フヅキ殿はじっと見上げてくる。
大きな榛色の瞳に、年頃の少女らしい初々しさはない。寧ろ、不審者を尋問する兵士のような鋭い目つきだ。
「……どうですか。不快だったりしませんか?」
不快とまでは言わないが、嬉しくもない。
健康的な成人男性として、可憐な女性に抱きつかれていながらその反応はどうなんだと自分でも思うが、正直言うと特に何も感じていないし、もっと正直に言っていいのなら、一刻も早く離れてほしい。
「……特には」
言葉を濁しながら苦笑いを浮かべる。
オレにとってフヅキ殿は、女性というより子供だ。
弟達や近所の子供にしがみつかれているのと大差ない。
十五歳といえば我が国では成人に当たる。社交界にデビューする立派な淑女だ。フヅキ殿の容姿は異性の目に魅力的に映るだろう。
しかしあどけない表情や幼い言動が目立つ彼女を、オレは異性として見られない。
年齢差もあるからな、と考えかけて固まる。
彼女は……あの方は、フヅキ殿と同年代。下手をしたら一つ下だ。
激しい自己嫌悪に、叫びだしたくなる。
十五も年下の少女を相手に、オレは何をしているのか。
夢の中で貪り尽くすだけでは足りず、夢だと勘違いして手を伸ばした。逃してなるものかと腕に閉じ込めて告げた呪いめいた言葉は、間違いなくオレの本音だ。
他の少女達を見ても子供だとしか思わないのに、どうしてあの方をそう思えない。いつオレは、あの方を『子供』ではなく『女性』なのだと認めてしまった?
幼い頃からずっと成長を見守ってきた。
小さな頑張り屋の姫君。
人に頼る事が下手くそで、一人で抱え込んでしまう不器用さを愛しいと思っていたが、あくまで庇護欲。
とても大切で、誰よりも幸せになってほしいと願った気持ちは、父親か兄に似た心境だった筈だ。
オレを慕ってくれていると気づいても、それは憧れだと思っていた。
幼子が父親のお嫁さんになるとねだるような微笑ましく淡いもの。年頃になればいつか消える。
だから絶対に、勘違いさせるような距離まで踏み込んではいけないと己に言い聞かせていた。
聡明で麗しく、心まで清らかな姫君。
あの方の隣には、誠実で有望な、同じ年頃の男が立つべきなのだから。
そうやってオレが作っていた壁を壊したのは、あの方だった。
『まだ、振らないで』
涙を堪えながら必死に訴えてくれた言葉に、殴られたような思いだった。
幼い恋だと勝手に決めつけて一歩引いていたオレを、見透かしていたのだろう。それなのに、責めるのではなく懇願する健気さに胸を抉られる。馬鹿にするなと、いっそ殴ってくれたらいい。
もうその頃には、オレにとってあの方は、世界で一番大切な女の子だった。
恋ではなくとも、愛しくて、愛しくて。
たまに沈んだ顔を見ると、どうにかして笑ってもらえないかと、そんな事ばかり考えていたように思う。
幸せであってほしい。
僅かも傷ついてほしくない。
無償の愛なんて崇高なものではないが、笑っていてくださればそれで充分だったのに。
いつこんな醜いものに変様した。
吐き気がする。
魔王が己の中にいる可能性が、ほんの僅かでもあるなら国王陛下に報告すべきだと理解している。それなのに躊躇ったのは、取るに足らない事で煩わせる訳にはいかないという忠誠心などではなかった。気の所為だと軽んじたのでもない。
臆病なオレは、あの方に――ローゼマリー様に、求婚する権利を奪われる事を恐れた。
どうか気の所為であってくれと祈る愚かなオレは、とっくにそんな権利はないのに。あの清廉で美しい方の前に立つ資格など、オレにはない。
「……?」
物思いに耽るオレを現実に引き戻したのは、小さな物音だった。
どさり、と何かが落ちた音がした。
フヅキ殿にも聞こえたようで、彼女も振り返る。オレは漸く解放された事に安堵の息を洩らしつつも、音の方向を視線で探った。
キョロキョロと辺りを見回しながら進むフヅキ殿だが、庭木の向こう側に何かを見つけたようで立ち止まる。
その場にしゃがみ込んだ彼女が拾い上げたのは、紙袋だった。
さっきの場面を誰かに目撃されていたのなら、少々まずい。
本当の事を話す訳にはいかないが、そのままにも出来ない。誤解させたくない方がいるから。
「なんだろ?」
紙袋の中身を、フヅキ殿は確認しようとする。
「お貸しください」
客人に万が一の事があってはならない。危険物だとも思えないが一応警戒する。
フヅキ殿から紙袋を受け取って、開く。ふわりと鼻孔を掠めたのは、焼き菓子の甘い香りだった。
「焼き菓子……クッキーですね。侍女の物でしょうか?」
「クッキー……クッキー!?」
オレの言葉を繰り返したフヅキ殿は、数秒間を空けて目を見開いた。
「み、見せてくださいっ!」
袋を奪い取ったフヅキ殿は、中を確認する。彼女の顔が、どんどん青褪めていく。
泣きそうな顔をしたフヅキ殿は、「誤解なのに」とか「嫌われる」とか真っ青な顔でブツブツと呟いた。
そしてオレがフヅキ殿よりも青褪める事になるのは、ほんの五秒後の未来だ。




