転生王女の当惑。(2)
自分の見た光景が、すぐには信じられなかった。
夢なんじゃないかと。私は立ったまま眠ってしまったんじゃないかと、ありえない考えに縋り付くように、瞬きを繰り返す。
けれど何度夢から覚めようとしても、覚めるはずがなかった。
だってこれは、――現実。
そう、現実なのだから。
混乱を極めた頭で、そうと理解すると同時に心の中で絶叫した。
……な、ななな何でぇええええ!?
なんでも何もない。そういう事なのだと頭の中で冷静な誰かの声がするが、頭を振ってその考えを振り払う。
なにかの間違いに違いない。私の目が悪くなったのかも。
女性の方を改めて見る。
シフォンベージュの柔らかそうな髪が、肩口で揺れる。くっきり二重の大きな瞳は濁りのない榛色。ちょこんと控えめな鼻と、花びらみたいな薄桃色の唇。
庇護欲を掻き立てる幼さの残る愛らしい顔立ちとはアンバランスに、ふくよかな胸から細い腰へと続く曲線は、女性らしいラインを描く。
今日も今日とて可愛らしい少女は、先ごろ異世界より招かれた神子姫。
花音ちゃんのような美少女が、二人といる筈がない。
次いで、視線を男性へと移した。
鍛え上げられた逞しい体躯を包むのは、黒を基調とした近衛騎士団の制服。
硬そうな黒髪の間から覗く、切れ長な黒い瞳。凛々しい眉と高い鼻筋。端正な顔立ちは美しいというよりも、雄々しいという印象の方が強い。
年齢を重ねて魅力は衰えるどころか、滴るような男の色気が増している。
見間違える事なんてありえない、私の大好きな人。レオンハルト様。
きっちり確認してしまった事で、私は自らの逃げ道を丁寧に潰してしまった。
つまり、つまりだ。私の目の前で、花音ちゃんとレオンハルト様が抱き合っていると。そういう事ですか。
ヒロインである花音ちゃんは、たくさんいる攻略対象達の誰も選ばず、何故かサブキャラであるレオンハルト様を選んで?
そしてレオンハルト様も、私ではなく、花音ちゃんを選んだと。
「……っ」
ひゅう、と不自然に吸い込んだ息が喉の奥で詰まる。
心臓が嫌な音をたてて大きく脈動した。寒くもないのに体が小刻みに震えだす。
なんで。
なんで、なんで、なんで。
私はいったい、どこで選択を間違えたの?
「ロー、」
「!」
クラウスが背後から私を呼ぶ。最後まで言い切らせずに、彼の口を両手で塞いだ。
手に持っていた紙袋が、地面に落ちる。物音に二人が気付いたのかを確認するのが怖くて、クラウスを引き摺るようにしてその場を去った。
もう一秒たりとも、ここにいたくない。
駆けるような速度で、廊下を進む。
クラウスは物言いたげな顔ながらも、逆らわずについてきてくれる。
たぶん彼の位置からは、庭木が邪魔でレオンハルト様達の姿は見えなかったのだろう。戸惑っている様子だが、何も聞かずにいてくれるのが有り難かった。
何も考えずに足を進めてきたが、体は道を覚えていたらしく、いつの間にか自室の前に辿り着いていた。
扉の前で立ち尽くしたまま、乱れた呼吸を整える。
「……ローゼマリー、さま」
背後から、躊躇いがちにクラウスが私を呼ぶ。
心配させてしまっていると分かる、彼らしくもない小さな声だ。
引きつりそうになる喉を無理やりこじ開けて、深呼吸を繰り返す。
込み上げる衝動を飲み下し、ぐっと腹に力を込めた。
「ごめんなさい、クラウス。急に走り出して、驚いたでしょう」
振り返って、クラウスに笑いかける。
無理やり出した明るい声は場にそぐわず、空回りする印象が虚しい。
クラウスは虚を衝かれたように目を瞠った。次いで、とても苦いものを飲み込んでしまったかのように、くしゃりと顔を歪める。
失敗した。
余計に心配させちゃってる。
それが分かっても、どうする事も出来ない。
弱音を零すという選択肢はなかった。
「ちょっと、考えたい事があるの。一人にしてもらえる?」
「しかし……」
「お願い」
食い下がろうとするクラウスの言葉を、強めの声で遮る。
クラウスは逡巡するように数秒黙った後、目を伏せた。短く息を吐き出す。
「……分かりました」
とても苦い声でクラウスは告げる。
「扉の外におりますので、何かございましたらすぐに声をおかけください」
最大限の譲歩だと言うように付け加えられた言葉に、私は頷く。
さっきまでの貼り付けた笑顔ではなく、ほんの少し口角を上げただけの不格好な笑みで「ありがとう」と感謝を伝えた。
部屋に入って、扉を閉める。
ふらふらと頼りない足取りで近付いたベッドへ、そのまま倒れ込む。多少軋んだ音をたてたが、高価なベッドは私ごときの体重ではびくともしなかった。
頬に当たる心地よいシーツの感触に、目を閉じる。
何も考えずに、このまま眠ってしまいたい。でも頭は勝手に、さっきまでの光景を何度も何度も繰り返す。
レオンハルト様の腰に手を回し、抱きつく花音ちゃんの姿。
レオンハルト様の手が何処にあったか確認するのが怖くてよく見ていないけれど、彼女の背に回ってはいなかったと思う。……自信はない。私の願望が大いに反映されている可能性が高いし。
表情はどうだったかな。
レオンハルト様は驚いているような顔で、花音ちゃんは真剣な表情だったと思う。
……もしかして、事故的なものだったりしないかな。
見え始めた光明に、がばりと身を起こす。
転びかけた花音ちゃんを、抱き止めてあげたとか!
そうだよ、その可能性だってある。私が目を離していた間に何かあったのかもしれないし。愛の抱擁とは限らないじゃないか。
レオンハルト様だって、花音ちゃんに恋している様子はなかった……し……?
『何処にも行くな』
意気込んで握り拳をつくった私の頭に、先日聞いたレオンハルト様の声が響く。
仮眠していたレオンハルト様が、寝ぼけて零した言葉。
抱き締められた事に焦って深く考えなかったけど、何処にも行くなって事は、何処かに行ってしまう可能性があるっていう事で。
いつも彼の傍をうろちょろする私に向ける言葉ではないよねって、自分でも思ったじゃないか。
私を誰かと間違えていたとしたら――あの言葉は、誰宛のもの?
『オレを置いていかないでくれ』
レオンハルト様が手を伸ばしても、すり抜けていってしまうような存在なんて、そういない。
彼に夢中なのは私だけじゃない。レオンハルト様が望めば、きっと誰だってその手を握り返してくれる。何か、とても重要な理由がない限り。
そう、たとえば。
別世界からきた、とか。
「…………そっか」
落ちてきた考えは、ストンと私の中に収まった。
窓の外をぼんやりと見つめながら、呟く。
「私、失恋したんだ」
やけに平坦な声は、他人のもののよう。
声に実感は微塵も込められておらず、空虚な響きだけを耳に残した。




