或る王女の溜息。
※ラプター王国第一王女 ユリア・フォン・メルクル視点です。
オーケストラの演奏に合わせて、着飾った男女が楽しそうに踊る。
女性達が身につける宝飾品の殆どは、石の部分がやけに大きい。今年の流行りなのだろうが、派手に輝く様はいっそ笑えるくらいに下品だ。天井から吊り下がっているシャンデリアの光を弾いて、目に痛い。
食事が用意されている場所では、目でも楽しめるようにと鮮やかな色彩の菓子が塔のように美しく積み上げられている。
広いテーブルを埋め尽くすかの如く並べられたケーキは、殆ど手をつけられていないまま。豪華食材を惜しげもなく使った料理も同じ。
紳士らはワインばかりを消費し、コルセットで締め上げられた淑女らはおしゃべりに夢中。そうでなくとも、女性が舞踏会で食事をする事は、はしたないと考える風潮がある。
今夜の料理もいつもと同じく、廃棄される運命のようだ。
冷めた目でホール全体を眺めていた私の耳に、大きな笑い声が届く。
「ネーベルの連中は、相変わらず腰抜け揃いだ」
賑やかな会場の中でも一際騒がしい集団の中心にいるのは、私の父――ラプター国王 バルナバス・フォン・メルクル陛下。
パーティーの度に浴びる程ワインを飲む国王は、既に顔は真っ赤で足元がおぼつかない様子だ。妻ではない女性を侍らせ、顔色を窺うだけの佞臣に囲まれて機嫌良く笑っている。絵に描いたような暗君ぶりに、もはや怒りも湧かない。
「奴等は、戦争を仕掛けてくる度胸もないのだな」
「勇猛果敢な陛下に、恐れをなしたのでしょう」
「かの国の国王陛下は、とても美しい方。きっとペンより重いものを持った事がないのでは?」
下品な女の笑いに釣られるようにして、ドッと笑い声が起こった。
勇猛果敢と讃えられた国王は、四十路を過ぎた頃から目立ち始めた腹を揺らし、噎せそうなくらいに笑っている。
昔は剣聖と呼ばれたなどと嘯いていたけれど、どこまで本当なのか。大方、貴族の子息同士の剣の試合で負けなしだったとか、その程度の話だろう。忖度されている事も気づかないお目出度い人だから。
「やぁ。楽しんでいるかい、ユリア」
名を呼ばれて、顔を上げる。
目の前に立っていたのは、美しい顔立ちの紳士。
項の辺りで結った長い黒髪に、優しげな印象を与える菫色の瞳。今年三十八歳となった叔父は、独身生活を謳歌しているからか、驚くほど若いままだ。
兄弟で十歳の年の差があるとはいえ、至る所に老いの兆候が見え始めた国王とは似ても似つかない。
「ごきげんよう、王弟殿下」
「水臭いな。昔みたいに叔父様と呼んでおくれ」
カーテシーをすると、叔父は苦笑する。
是とも否とも言いたくはなかったので、どちらともとれる笑顔を返した。もっとも、叔父は私の意図を汲み取り、苦笑いを深めただけだったけれど。
「君のように美しい姫君に、壁の花は似合わないね。さっきから君に声をかけようとする男達が牽制し合っているようだよ」
知っている。知っていて、声を掛けられないように逃げていた。
私を巻き込まず、勝手に潰し合っていればいい。
「まぁ、お上手」
口元を扇で隠しながら、目元だけ笑っている振りをする。
意味のない会話をしていると、会場に流れる曲が変わった。叔父は、舞台上の役者のように気障な仕草で私に手を差し伸べる。
「抜け駆けをするようで心苦しいが、一曲踊っていただけますか?」
「よろこんで」
溜息を吐きたい気持ちを押し殺し、叔父の手に手を重ねた。
抜群の安定感と、流れるようなリード。女性の扱いはお手の物らしい。社交界一の色男と呼ばれるだけはある。
貴婦人達がうっとりと見守る中、叔父は笑顔で口を開く。
「ユリア、今日のドレスは素晴らしいね。地味……いや、慎み深い色とデザイン……いったい、どこの未亡人が紛れ込んでいるのかと思ったよ」
周囲から人がいなくなった途端、コレだ。
発言の全てが酷いのだから地味という単語だけを言い直しても、まるで意味がない。
深い緑を基調にして、ツヤのない銀糸で模様を描き、薄いグレーのレースを組み合わせたドレスは確かに地味だ。
しかし、亡きお祖母様のドレスを仕立て直したので、品質はかなり良い筈。
「……殿下を熱い目で見つめている御婦人方に、聞こえてしまいますわ」
「こんな煩い中で、人の話し声など聞こえやしない。別に聞こえても構わないけどね。ああいう女性達は、見たいものだけ見て、聞きたい事だけを聞く。一晩経ったら聞き間違いで終わるさ」
酷い言い草だと思う。しかし、あながち的外れではない。
彼女達が望んでいるのは、地位も金も人望も全てを持ちながらも驕り高ぶらない、気さくな王弟殿下だ。間違っても笑顔で姪を貶める、二重人格の腹黒男ではない。
「いつか刺されますわよ」
「心外だな。僕は夢を提供しているに過ぎないよ」
「よく回るお口ですこと。身を滅ぼす前に、そのいい加減な性格を改めては如何?」
貼り付けたような笑みを、叔父は一瞬だけ消す。
「このいい加減な性格が、僕の命を守っているのに?」
皮肉げに口角を吊り上げたが、それは瞬きする間にさっきまでの笑顔に挿げ替えられていた。
私が何かを言う前に、叔父は私の腰を引き寄せる。くるりと回る瞬間に耳元で、「君が王女として生まれた事が、幸運だったようにね」と呟いた。
我が国の国王にとって、出来の良い弟や息子は身内ではなく、自分の地位を脅かす邪魔者だ。
叔父が自分の優秀さを周囲に示し、身を固めて子宝に恵まれていたとしたら、今この世にいなかったかもしれない。
私も利用価値のある王女でなく、王子であったなら。王太子である兄が、病弱で大人しい人でなかったら。きっと国王は、自分の子供であっても容赦なく手にかける。
存在を軽んじられていたからこそ、生き残れたというのは何とも皮肉な話だ。
「……それでも」
深く呼吸をしてから、真正面から叔父と視線を合わせた。
「そろそろ、目を覚ましてくださいませ」
叔父は無言で、じっと私を見つめる。
影が差した菫色の瞳は黒にも見えて、底知れぬ闇を思わせた。
長い沈黙が落ちる。そうしている間に音楽が終わり、私は叔父から一歩離れた。
このまま別れては、今度いつ話が出来るか分からない。どうにか連れ出す方法を脳内で模索する。
考え事をしていた私は、顔をあげた瞬間、しまったと思った。
叔父の肩越し、遠くにいる国王と目が合ってしまった。呼びつけられるのが、目に見えている。国王と取り巻き達のくだらない話のネタとして、時間を割かれるのは避けたい。しかしもう、国王の視線は私を捉えてしまっている。
諦観にも似た脱力感を覚えながら、叔父の手を離す。
国王が口を開こうとした瞬間、私の体がぐらりと揺れる。
「ユリアっ! 大丈夫かい?」
ふらついた私を抱き止めた叔父は、心配そうな表情で覗き込んでくる。
驚きに反応が遅れた私が声を発する前に、叔父は言葉を続けた。
「きっと疲れたんだろう。今日はもう部屋で休みなさい」
自分で足を引っ掛けておきながら、なんとも白々しい。
ドレスの影に隠れて器用に転ばせたらしく、周囲の誰も気付いていなかった。
「兄上、具合が悪いようなので、ユリアは休ませますね。部屋まで送りますので、僕もこれで失礼致します」
「あ、ああ。……頼んだぞ」
にっこりと笑顔で宣言する叔父に、誰も何も言えない。私は叔父に支えられるようにして、会場を抜け出す事に成功した。
会場から遠ざかる程に、人がいなくなる。叔父が護衛騎士も遠ざけてしまったので、閑散とした廊下にいるのは私達二人だけだった。
「素晴らしい宴だったね」
叔父は笑顔のまま、吐き捨てるように言った。
「ええ。まるで夢のようでしたわ」
豪奢な衣装と宝石に、捨てられるだけの豪華な料理の数々。
現実が見えていない人間が大勢いると理解出来た、有意義な時間だった。
戦争と違って経済制裁は、目に見える効果が出るまでに時間がかかる。王都に住む王侯貴族にまで影響が出るのは、まだ先の話。
眼前の景色が変わるまで、彼等は目を逸し続けるのだろう。
国の心臓部である王都に影響が出る頃には、全てが手遅れだというのに。
舌打ちしたい気持ちを押し殺し、唇を軽く噛む。
叔父はそんな私を眺め、やれやれと言いたげに肩を竦めた。
「熱くなるのは似合わないよ」
「熱くなっているのではありません。お分かりでしょう?」
愛国心や正義感で、苛立っているのではない。
愚かな人間に足を引っ張られ、共倒れるのが馬鹿馬鹿しいだけ。
利己的な合理主義者である部分だけは、私と叔父はよく似ているのだから、その辺りは理解しているはずだ。
部屋に辿り着くと、叔父は私から離れた。出ていくつもりはないらしく、ソファへと向かう。優美な外見に似合わず、どかりと乱暴に腰を下ろした叔父は、苛立たしげに後頭部を掻きながら足を組んだ。
「夜に淑女の部屋に居座るおつもりですか」
「具合の悪い姪を看病する優しい叔父だと噂になるだけだろう。安心してくれ。僕のお相手になる女性は、肉感的な美女ばかりだから邪推もされない」
「殿下が刺されてお亡くなりになった際は、国をあげて盛大にお祝いしたいと思いますわ」
パチンと音をたてて扇を閉じ、溜息を吐き出す。叔父の向かいの席に腰掛けた。
「僕は国政に興味はない。適当に遊んで暮らせるだけの金と、ほどほどの自由さえあれば、他には特にいらないんだ。地位も名誉も伴侶も、必要ない。静かな余生の邪魔になるだけだしね」
興味がないのではなく、興味を持たないよう己を律した結果だろう。
伴侶についても同じ。男児が産まれれば、脅威と見なされかねない。私が知らないだけで、叔父は多くのものを諦めてきたはず。
叔父は時折、木の虚のように暗く空虚な目をする。社交界の華である王弟殿下でも、皮肉屋な叔父でもなく、人生に疲れ果てた老人のごとき表情が、この人の素顔なのかもしれない。
「では、亡命でも致しますか」
責めるでもなく静かに問えば、叔父は自嘲するように口の片端を吊り上げた。
「ネーベルを敵に回し、今後衰退が予測される国の王族を、何処が匿ってくれるというのかな?」
国王は理解しようともしないが、世界の中心は我が国ではなくネーベルだ。
地理上の意味だけではない。ネーベルは経済的にも軍事的にも、他の追随を許さない強国となりつつある。
軍事だけで言えば、現段階ではまだ張り合える。
しかしもう、世界は戦争を必要としていない。スケルツという厄介者が消え、世界全体が平和主義を理想として変わり始めている。
必要なのは、剣ではなく金貨と物資だ。
「分かっているのなら、いい加減、駄々を捏ねるのはお止めください」
今までも、水面下の争いはあった。多くはネーベル側が譲歩する事で、表面上の平和を保ってきた。
けれど今回は、これまでとは違う。
「要人がこぞって執心している至宝に手を出したのです。決着が付かない限り、ネーベルが手を引く事はないでしょう。我々に残された道は二つ。共に倒れるか、元凶の首を差し出すかだけですわ」
もっとも、私は共に倒れるつもりなんて欠片もないけれど。
冷めた目で告げる私を、叔父は無言で見つめていた。




