転生王女の突撃。(2)
「…………」
声を掛けるという選択肢は、頭の中から消えていた。
私は吸い寄せられるみたいに、ふらふらと彼へと近付く。
レオンハルト様は頭の後ろで組んだ手を枕代わりにして、眠っていた。
肘掛けの上に乗せた長い足は、ブーツを履いたまま。シャツのボタンを二つ開け、胸元は寛げられている。帯剣用のベルトは背凭れに引っかかっていて、剣は近くの壁に立てかけられていた。
乱れた黒髪が、端整な顔に影を落とす。
睡眠が足りていないのか、目元の隈は先日よりも濃くなっている。気の所為でなければ、頬も少し削げたような。
私が傍に寄っても起きない辺り、たぶん、相当疲れているんだと思う。
いつもキッチリとしているレオンハルト様の、少しばかりルーズな寝姿に胸が高鳴った。
「レオンさま……」
すぐ傍にしゃがんで、顔を覗き込む。
私の声に反応したのか、それともたまたまか。静かに寝息をたてていた彼が、ん、と微かに呻いた。低い声が色っぽくて、ドキリとする。
身動いだせいで、前髪の間から額が覗く。
眠っているはずのレオンハルト様の眉間には、くっきりと皺が刻まれていた。
魘されているの……?
険しい寝顔は、安眠からは程遠い。
これでは、いくら寝ても疲れは取れないだろう。
どんなに忙しくても涼しい顔をしているレオンハルト様が、私にも分かるくらい疲れていたのは、もしかしなくてもこのせいか。
ロクに眠れていないのかもしれない。
苦しそうな表情を見ていると、こちらまで辛くなってくる。
どうにかしたくて、辺りを見回す。でも、狭い部屋の中には物が殆どない。お湯とタオルを持ってくれば目元を温められるけど、忍び込んでいる身では無理だ。
考えた末に、私はそっとレオンハルト様の目元に手を伸ばす。
どうか起きないでくださいと胸中で繰り返しながら、彼の目を温める為に掌をあてた。
睫毛や鼻筋の感触に、ビクリと掌が震える。
睫毛、結構長い……鼻筋も高い……!
いやいやいや、私欲で触っているんじゃないから! これは治療! 治療なの。そう、今の私はホットアイマスク。蒸気でほっこりアイマスク。
邪念を必死に頭から追い出して、自分に言い聞かせる。
顔に集まった熱が掌に移ればいいのにと思いつつ、温める為に手を重ねた。
「いたいの、いたいの、とんでいけ」
レオンハルト様の痛みや辛さが、少しでも軽くなればいい。
苦しいのが薄れるなら、私が半分もらうから。
そんな願いを込めながら、じっとレオンハルト様の目を温め続けた。
どのくらい、そうしていただろうか。
ふと、眉間の皺が消えている事に気付く。
どうやら、ホットアイマスクの役目を無事に果たせたらしい。
安堵の息を零した私は、そっと掌を退けた。
ご褒美として安らかな寝顔を見るくらい、許されるかな、なんて。
言い訳めいた言葉を胸中で呟きながら覗き込んだ先――、薄く開いた目と、視線がかち合った。
「…………」
「…………」
互いに、言葉はない。
私は驚きすぎて、頭の中が真っ白になっているから。レオンハルト様はおそらく、寝起きで思考が追いついていないんだと思う。
…………ど、どどどどど、どうしよう……っ?
私はレオンハルト様を覗き込んだ体勢のまま、固まっていた。表情筋すら役目を放棄している。汗腺だけは働いているらしく、背中を冷や汗が流れ落ちた。
判決を待つ罪人のような心境で、レオンハルト様の一挙一動を見守る。
レオンハルト様はぼんやりした様子のまま、じっと私の顔を見つめていた。
意外に長いと知ったばかりの睫毛が、数度瞬く。
「あ、あの、私……っ」
勝手に入ってしまって、すみません。起こしてしまってごめんなさい。淑女としてあるまじき行いに、幻滅してしまいましたか?
頭の中にたくさんの言葉が思い浮かぶけれど、どれも声にならない。
あうあうと、呻くだけしかできない自分が情けなかった。
どうしよう、呆れられる。怒られる。嫌われちゃう。
焦れば焦る程に、空回りする。
しかし、挙動不審な私を見ているはずのレオンハルト様は、反応を示さない。
混乱していた私だったが、暫くしてレオンハルト様の様子がおかしいと気付いた。
「レオンさま……?」
レオンハルト様はゆっくりとした動作で、私の方へ手を伸ばす。
大きな手が私の頬を包む。硬い掌が、壊れ物を扱うような手付きで輪郭を辿る。愛しむように、慈しむように、そっと。
泣き笑うみたいにくしゃりと顔を歪めた彼は、安堵の息を吐く。
「今日は、泣かさずに済んだ」
「……?」
触れられた事に焦っていた私は、レオンハルト様の言葉に目を丸くする。
いつ私が、レオンハルト様に泣かされたと言うんだろうか。
確かに私は泣き虫だし、レオンハルト様の傍だと安心して泣いてしまう事が何度かあったけれど……この言い方は違うよね。
「れお、っ、わっ!?」
言葉の意味を問おうとした声は、中途半端に途切れる。
頬を撫でていた手が首の後ろへと回って、そのまま引き寄せられた。
世界が回る。薄手のカーテンがひらりと揺れて、差し込んだ光が波打ち際みたいにキラキラと輝いた。
頬に当たる、硬い胸板の感触。薄いシャツ越しにじんわりとした熱が伝わってくる。鼻孔を掠めるのは、クセのない爽やかな香りに混ざる、僅かな汗のにおい。その奥に、少し甘くて、落ち着いた香りを感じる。
すれ違った時に微かに香る程度だったレオンハルト様の匂いを、ダイレクトに吸い込んでしまった私は混乱した。
頭が一瞬で沸騰する。
咄嗟に起き上がろうとしたけれど、後頭部と腰に回っている腕に阻まれた。
な、ななな何で!? なんで私、レオンハルト様に抱きしめられているの!?
「ひょっ!?」
鳴き声じみた悲鳴が、口から飛び出す。
既にいっぱいいっぱいだった私は、頭に頬擦りされた事で限界を超えた。
無理!! 無理だから!!
ご褒美だとしても、一気に寄越されたら受け止めきれない。過剰摂取で死んでしまいます!!
漫画だったらぐるぐるの目になっているだろうと、どうでもいい事に思考が飛ぶ。私が涙目になっている間にも、レオンハルト様は追撃の手を緩めてはくれない。
後頭部に回した手が、乱れた私の髪を耳に掛ける。顕になった耳元を吐息が掠めた。
「何処にも行くな」
寝起きの掠れた声を耳元に直接注ぎ込まれて、ゾクゾクと甘い痺れが体中を駆け巡る。
何がなんだか。一体、何が起こっているのか。
状況は全く理解出来ない。でも、年がら年中、周りを飛び回る羽虫の如く、傍をうろちょろしている私に言うセリフじゃない事だけは分かった。
暗いし、寝ぼけて誰かと間違ってないよね!?
あっ、駄目だ。その方向性で考えると、確実に自分への致命傷となって返ってくる。
慌ててネガティブな考えを振り払う為に頭を振ると、腕の拘束が強まった。もしかしたら、私が逃げ出そうとしているように感じたのかもしれない。
「オレを置いていかないでくれ」
痛いくらいの腕の力は、まるで縋るようにさえ感じた。
「…………何処にも行きません」
気づけば、自然と言葉が零れ落ちていた。
人違いでも、寝ぼけているのでもいい。
安心させてあげたいという気持ちだけが、私を突き動かす。
「ずっと貴方の傍におります」
レオンハルト様の胸に頬を寄せる。
私の方から抱きつくと、腕の力が弱まった。
じっと待っていると、やがて腕から完全に力が抜ける。
静かな寝息が聞こえたので、恐る恐る顔を上げると、レオンハルト様の目蓋は下りていた。
どうやら、本当に寝ぼけていたらしい。
寝顔はさっきまでの顰めっ面とは違い、とても安らかだ。
起こさないようにゆっくりと腕の中から抜け出すと、レオンハルト様が小さく呻く。私はビクリと固まるが、起きる様子はない。
足音をたてないようにそろり、そろりと入り口へと向かう。
ゆっくりと閉めた扉に凭れる。
「…………」
はぁ、と肺から全て押し出す勢いで、深く息を吐く。全身から力が抜けた。
今更ながら、全力疾走した後みたいに、心臓がバクバクと脈打っている。真っ赤になった顔を両手で押さえた私は、その場にずるずるとしゃがみこんだ。
「心臓壊れそう……」
呟いた声は、自分のものとは思えないほど、情けなく掠れていた。




