或る密偵の愚痴。
※ネーベル王国密偵 カラス視点になります。
ドサリと音をたてて、男の体が倒れ伏す。
廃屋の床に積もっていた数年分の埃が、衝撃で辺りに舞い上がる。抜けた屋根の隙間から差し込む月光に照らされて、幻想的にすら見えるソレから喉を守る為に、外套の襟元を掻き合わせて引き上げた。
男を床に沈めた大柄な人物は、オレの方を振り返る。
「これで最後のようです」
床の上に倒れた男は、身動ぎ一つしない。きっちり意識を刈り取ったのだろう。戦闘面での能力は想像通り優秀である。
ただ、もう少し静かにやってほしい。充満する土埃の臭いに眉を顰めながら思った。
元国境警備隊隊長、エルンスト・フォン・リーバー。
いや、その名はもう死人のものだ。
今、オレの目の前にいる男の名は、『ヒグマ』。
オレが、第一印象で適当につけた。自分自身が『カラス』とかいうおかしな名前をつけられたからといって、八つ当たりした訳でも、巻き添えにした訳でもない。……おそらくは。
「ん。じゃあ荷物積んで帰ろう」
オレがそう言うとヒグマは、気絶して転がっている三人の男達を縄で拘束する。自決防止の為に口に布を噛ませてから、ズタ袋にそいつらを詰め込んだ。
ヒグマはズタ袋を担ぎ上げ、表に停まっている荷馬車に、ひょいひょいと放り込んでいく。体格の良い成人男性……しかも気を失っているともなれば、相当に重いはずだ。しかし彼の軽快な動きは、まるで羽毛でも運んでいるかのような調子だった。
積み込み作業を手伝いもせず眺めていただけのオレに気分を害した風もなく、ヒグマは「行きましょう」とオレを促した。
外套の下から覗く顔は相変わらず男前だったが、印象は大分変わった。
警備隊長時代には短く刈り込んでいた髪を伸ばし、後ろで無造作に纏めている。整えられていた髭は逆に剃り、少々若返ったように見えた。太陽に晒される事が極端に減ったから、肌の色もそのうち少し変わるだろう。
日の下を歩く時は、髪色と歩き方も変えさせている。
密偵になってすぐ、顔を焼くとか本人は言い出したが、そうまでせずとも印象は変わるものだ。
「行くか」
馬車の荷台に上がったオレに続き、ヒグマが乗り込む。大柄な体からは想像も出来ない軽やかな動きだったが、重量は見た目通りらしい。荷馬車が派手に軋んだ音をたてる。
御者台にいる仲間に手振りで合図すると、一拍置いてから馬が走り出した。
チラリと一瞥したズタ袋は、どれも静かなままだ。
おそらく暫く目覚める事はないだろう。どうせ行き先は地獄なのだから、今くらいはゆっくり眠っておけと、心の中で吐き捨てた。
廃屋に潜伏していたコイツらは、隣国ラプターの間者である。
先日、王城に侵入した奴らとは別働隊で、ある一家を拉致監禁していた。
重要人物の暗殺未遂で取り調べを受けている侍女は、家族を人質にとられて脅されていたようだ。
家族は既に保護済み。
逃げた間者の回収が、オレ達に課された任務だった。
「一人たりとも逃がすなって、無茶言うよなぁ……」
石畳の上を車輪が走る音を聞きながら、独り言めいた愚痴をこぼす。
『一人たりとも』という言葉はもちろん、ズタ袋に詰められた三人だけを指し示す言葉ではない。ネーベルの王都に潜むラプターの間者全てだ。
泳がせていた連中、何年もかけて周りに溶け込んでいた者、新たに送り込まれた奴も引っくるめ、一人残らず。
「なんかの冗談であってほしい」
立てた膝に頬杖をつきながら溜息を吐き出すと、ヒグマが苦笑した。
「あの方が冗談を言うのは想像もつきません」
「ごく一部の人間には、言うらしいよ。冗談」
ごく一部というか、オレが知る限りは一人だけど。
オレが心の中だけでそう付け加えていると、ヒグマは何とも言い難い顔をした。
冗談を言う陛下を思い浮かべようとしているのか十数秒黙り込んだ後、「想像つきません」と同じ言葉を繰り返す。
オレも確かに想像出来なかった。
「今回は完全に本気の顔だったけど」
命じた時の主人の顔を思い出す。
いつもどおりの無表情。しかし目が、常とは違った。薄青の瞳に宿っていたのは、高温で燃え盛る炎か。それとも全てを凍て付かせる吹雪か。
「勘違いでなければ、怒ってたな。アレは」
もっとも、今回の事件でブチギレているのは、陛下だけではない。
八つ当たりのように、全力で鼠狩りをしているであろう溝鼠の顔が思い浮かぶ。
異世界からの客人が暗殺されかけた夜、ラーテは姫さんを狙った暗殺者の駆除をしていた。
まさかその間に、姫さんが別の人間に殺されかけるとも知らずに。
正確に言うならば、侍女は姫さんを狙った訳ではない。姫さんが異世界からの客人を匿ったのも、庇った事も偶然が重なった結果。
誰も予想出来やしない。
それでもラーテは、荒れた。
表面上はいつもと大差なく、仕事もきっちり熟すが、殺意の高さが違う。生死を問わない任務ならば、全て息の根を止めてくる程度には。
飄々として掴み所がなく、執着とは無縁。
人当たりが良いように見えて、誰も信用せず、誰も懐に入れない。
何処にも居付かず誰にも深入りせず、ふらりと現れて、ふらりと消える。
そんな男がまさか、本気で誰かに肩入れするとは思いも寄らなかった。
「全く、罪作りな人だ」
姫さんは。
音にしなかった言葉を正確に読み取り、ヒグマは頷く。
「沢山の人間に愛されていますから」
口角を軽く上げた目の前の男も、そして彼の旧友も。
姫さんを愛する人間を、数え上げればキリがない。
本当に。どれだけの人間に愛されているのか、そろそろ理解してほしい。
姫さん本人も、そして。
ズタ袋に向けた目を細める。
ラプターも、いい加減に気付いてくれ。
姫さんは、我が国の至宝であり、多くの人間の弱点であり。
同時に、触れてはならない逆鱗でもあるのだと。
「…………」
眇めた目を一度伏せた。
腹の底に溜まる烈火の如き感情を、息と共にゆっくり吐き出す。それから顔を上げると、目を丸くしたヒグマと視線がかち合った。
「……どうした?」
榛色の目を、パチパチと数度瞬かせた後、彼はなるほどと呟く。
「貴方も怒っていたんですね」
「は?」
しみじみと言われ、オレは片眉を跳ね上げる。
随分と低い声が出たが、ヒグマは気圧されるどころか、全く気にしていない。
「あの男のように分かりやすくキレていなかったので気づけませんでした」
あの男とは、ラーテの事だろう。
オレも奴の同類だと?
確かにオレは姫さんを気に入っている。
だが別に、姫さんが命を狙われたからといって、怒っては……いないのか、本当に。
思わず自問自答した。
とぐろを巻く蛇のように腹の底に陣取り、時折顔を覗かせては臓腑を焼くこの熱の塊は、『怒り』や『苛立ち』と呼ばれる類のものではないのか?
少しでも気を緩めれば、殺意へと変換されそうなコレは。
黙って考え込むオレを見て、ヒグマは言葉を続ける。
「だから今回は、一切手を出さなかったんですね」
殺してしまいそうだから。
言い当てられた気まずさに、オレは目を逸らす。
煩いよと呟いた声はあまりにも小さくて、車輪が小石に跳ねた音にかき消された。




