転生王女の後悔。
暫くベッドで安静にしていた私だが、ようやく出歩けるようになった。
元が読書好きのインドア派なので、室内で大人しくしているのはさして苦ではないと思っていたけれど、ずっとベッドの中にいるのは流石に辛かった。
人間には適度な運動と日光が必要なのだと、痛感したよ。
それにもう一つ、とっても辛い事がある。
愛猫であるネロに、倒れてからずっと会えていない。
神子姫を暗殺しようとした侍女によって壁に叩きつけられたネロは、骨こそ折れていないものの捻挫をしてしまっていたらしい。発熱でぐったりしていたと聞いて、ついベッドをこっそり抜け出そうとしてしまった。途中で見つかって、ベッドに押し込まれたけれど。
王家のお抱えの医者であるお爺ちゃん先生が面倒を見てくれているらしいので、心配はないとは思う。
でも会いたいものは会いたい。可愛いネロの顔を見たい。あわよくばもふもふしたい……けど、怪我に障るといけないので我慢する。
ようやく動けるようになった今日、ネロのお見舞いへと向かう事にした。
回廊を歩いていると、等間隔で並ぶ柱の向こう側に庭園が見える。燦々と降り注ぐ日差しは眩しく、日陰にいても暑さが伝わってくるようだ。
庭師が水を撒いたのか白い花弁の上に留まっていた水滴が光を弾いて、目に痛い程に輝いている。
梢を揺らして流れてくる風は温く、あまり心地よくはない。でも、日本のように湿度が高くないだけ、マシだとは思う。
「今日は暑くなりそうね」
よく晴れた空を見上げながら呟くと、傍を歩くクラウスは気遣うような目で私を見た。
「病み上がりのお体には、この暑さが堪えるのではありませんか? やはり出歩くのは、もう数日先延ばしにした方が宜しいかと」
まずい。どうやら私が寝込んでいた間に、過保護の度合いが上がった護衛の不安を煽ってしまったらしい。
少しでも肯定しようものなら、即抱え上げられてベッドへ押し込まれそうな勢いだ。
「平気よ。今日は気分がいいの」
自分で言ってから、死亡フラグの立った病弱な姉か母のような発言だなと思った。
テンプレなんて知るはずもないクラウスだが、不安そうな表情は消えない。
「本当に大丈夫だから。あまり心配しないで」
困り顔でそう告げると、クラウスは眉を下げた。
小さな声で「心配します」と呟かれると、罪悪感が湧く。毛並みのよいワンコが、耳と尻尾をぺたんと下げている幻が見える。クラウスなのに。そんな可愛い生き物ではないのに、一瞬絆されかかった。
危ない、危ない。ここで流されたら、また暫くベッド生活に逆戻りだからね。
「少しくらい動かないと体が弱ってしまうわ。もし辛いと感じたら、すぐに貴方に言うから」
「……約束していただけますか?」
「もちろんよ」
何度も頷くと、クラウスは不承不承の態ながらも了承してくれた。
良かった。もう数日ベッドに押し込まれていたら、私はたぶん根腐れをおこす。
それから侍医である先生のお部屋へと辿り着き、ドアをノックする。
穏やかな声で入室を促された私は、クラウスを廊下へと残して、中へ入った。
室内へ踏み込むと、独特のにおいが鼻孔を掠める。
クーア族の村で嗅いだのと似た薬のにおいだ。良い香りとは言い難いが、嫌いじゃない。
中では椅子に腰掛けた六十路くらいの男性が、こちらを見た。
「ようこそ、姫様」
そう言って笑ってくれたのは、ドミニク・フォン・テレマン。王家お抱えの侍医だ。
頭頂部は綺麗に禿げ上がっているが、後ろ頭から揉み上げ、そして顎へと続く白髭がダンディなお爺様である。
「こんにちは、テレマンせんせ……」
い、と言い終える前に、固まった。
部屋の中に、予想外の人がいたからだ。
「姫様も、猫の様子を見に来たのですかな?」
『姫様も』、という言葉が指し示すように、先客もどうやらネロの様子を見に来てくれたようだ。私が来るとは思っていなかったようで、彼も目を丸くしている。
「自分が運んできたからと、オルセイン団長は何度も様子を見に来てくれているのですよ」
私の戸惑いを感じ取ったのか、テレマン先生が教えてくれる。対するレオンハルト様は、気まずそうな顔をしていた。
怪我をしたネロを運んでくれたのは、レオンハルト様だったんだ。
神子姫の護衛や近衛騎士の指揮で忙しかっただろうに、ちゃんと先生のところへ運んでくれたなんて。
優しい人だとは知っていたが、改めて惚れ直した。
私はもう何十回とレオンハルト様に惚れ直しているけれど、これからもきっと、傍にいられる限りずっと『好き』が増していくんだろうな。
「人間以上に見舞い客が多い。この子は愛されておりますな」
喉を鳴らして笑ったテレマン先生は、眠っているネロの頭をそっと撫でる。
目を閉じたネロの表情に異変はないが、前足に巻かれた包帯が痛々しい。
「先生、ネロの具合はどうでしょうか?」
「骨に異常はなさそうですし、前足の腫れも引いてはきましたが、もう少し様子を見た方がいいでしょう。姫様は寂しいでしょうが、もう暫く、この爺にお預けくだされ」
子供を宥めるような優しい声に、小さく頷く。
「先生、どうかネロを宜しくお願い致します」
頭を下げると、テレマン先生は「お任せを」と応えてくれた。
「さて。せっかくいらしてくださったのですから、お茶でもお出ししましょう」
そう言ってテレマン先生は、掛け声と共に椅子から腰を上げた。
「いいえ! ネロに会えましたし、すぐに御暇します」
「自分も、仕事に戻りますので」
私とレオンハルト様は固辞したが、テレマン先生は引かなかった。
「そう急がずとも、少しだけ爺の暇つぶしにお付き合いください。すぐ用意しますので、掛けてお待ち下され」
テレマン先生は私達の返事も聞かずに、部屋を出て行ってしまった。
残された私とレオンハルト様は顔を見合わせる。
二人きりというシチュエーションが久しぶり過ぎて、なんだか恥ずかしい。沈黙が気まずくて、話題を頭の中で探した。
「そ、そういえば、レオンハルト様がネロを運んでくださったのですね。ありがとうございます」
「いいえ。特別な事は何もしていませんよ」
謙遜するレオンハルト様に、私はゆっくり頭を振った。
ネロに視線を落とし、毛並みをそっと撫でる。少しごわついてしまっているのが、ちょっと切ない。
早くネロの、綺麗な蒼い目が見たいな。
「私には、大切な子なんです。助けてくださって、ありがとう」
「……です」
レオンハルト様は小さな声で何事かを呟く。
聞き逃してしまった私は、視線をネロからレオンハルト様へと移す。
「いま……?」
聞き返した声は、途中で切れた。
とても苦しそうな顔をしたレオンハルト様を見て、私は頭が真っ白になる。どこか痛いのかと問う前に、手首を掴まれた。
痛くはない。でも、私を宥めてくれる時の優しい手付きとは違って、少し荒々しいくらいの動作に驚いた。
「オレにとっても、貴方は大切な人です」
「っ……!?」
「どうして他の者を思いやれるのに、自分の命は粗末にするんですか。貴方が傷ついて、オレが何も感じないとでも思っているのか」
珍しくも乱暴な言葉遣いに気圧される。
でも、きっとこれが素のレオンハルト様。取り繕われていない彼の本音。
「貴方が臥せっている間、生きた心地がしなかった」
低く掠れた声で思いを吐き出すレオンハルト様から、目が離せない。
伏し目がちの黒い瞳が危うい光を放つのを、黙って見ている事しか出来なかった。
「目の前の誰かを見殺しにする選択が、貴方にないのは分かっているのに。オレは、そうしてくれと願ってしまう。貴方が傷付くくらいなら、全部見ないふりをしてくれと」
掴まれたままの手首に痛みを覚えた。
私の小さな呻きに気づき、レオンハルト様が一瞬で我に返る。
弾かれたように私の手を離したレオンハルト様は、一歩後退った。
自分のした事が信じられないというように、口元を手で覆う。
「っ、姫君……、申し訳ありません……!」
「レオン様、私は……」
「失礼致します!」
レオンハルト様は私に背を向け、駆けるような速度で部屋を出ていく。
慌ただしい扉の開閉音に続き、廊下でクラウスの声がしたがすぐに聞こえなくなった。
掴まれた手首をそっと押さえながら、私はその場にへたり込む。
色んな事が一気に起きすぎて頭が追いつかないけれど、一つだけ確かな事がある。
私がレオンハルト様を傷付けた。
「レオンさま……」
掴まれた方の手首を、そっと頬に押し当てる。
もう痛みはないのに、少しだけ熱を持っているような気がした。




