転生王女の異変。(2)
「えっ、あ、あの」
「いいから、話は後で!」
侍女は私の正体に気付いたらしく、入るのを躊躇っていたが、そんな場合ではない。半ば強引に部屋に押し込んでから、クラウスを振り返る。
「クラウス。外の警戒をお願い」
「お任せを」
凛々しい顔で了承してくれたクラウスに頷き、部屋の中に戻ろうとして足を止める。
「あ。それから、レオンハルト様に連絡を取りたいのだけれど。彼女がここにいる事を知らせてほしいの。もしかしたら、探しているかもしれないわ」
「かしこまりました。通りかかった者に伝言を頼んでおきます」
有事のクラウスの、なんと頼もしい事か。
打てば響く彼の声に、不安の塊が少しだけ小さくなった気がした。
「ありがとう。頼みます」
表情を緩めて付け加えると、クラウスは目を見開く。次いで嬉しそうに目を細めた彼の頬が、赤く色付いた。
「お任せください」と恭しく頭を垂れたクラウスに後は任せ、私も部屋の中へと引っ込んだ。
さて、と一息ついてから神子姫達へと視線を向ける。
彼女達はソファーの後ろ辺りで棒立ちしていた。座る事もせず、広い部屋の中で頼れる者は互いだけとでも言うように、寄り添っている。
あまり刺激しない方がいいだろうと思いつつも、このまま放っておく訳にもいかないし。どうしたものかと悩む私の腕から、ネロはするりと抜け出す。
足元に下りたネロは、私を見上げて一声鳴いた。
「ねこ……?」
掠れた声で呟いて、神子姫は顔を上げる。
小作りな顔は可哀想なくらいに青褪めて、大きな目は涙で潤んでいた。細い肩は震えて、ふっくらとした唇の血色も悪い。
酷く怯えている彼女を警戒させないように、私はなるべく柔らかく微笑む。
「猫は好き?」
唐突な質問に、神子姫は戸惑ったように視線を彷徨わせる。
そして数秒迷った後、小さく頷いた。
「私も大好き。この子は私の飼い猫で、ネロというの」
私の足元をぐるりと回るネロに視線を落とし、言葉を続ける。
「良かったら、仲良くしてあげて」
じっとネロを見つめていた神子姫は、滲んでいた涙を拭う。ずび、と鼻を啜る音がした。
彼女はその場にしゃがんで、ネロに手を伸ばす。
「ねこちゃ……、ネロちゃん? おいで」
ネロはピクリと耳を動かしてから、私を見た。視線で問うように見えたのは、飼い主の欲目だろうか。一つ頷くと、ネロは神子姫に近付いた。
神子姫の掌に、頭をそっと擦り付ける。
ふわふわ、と呟いてからネロを抱き上げた神子姫は、ネロの毛並みに顔を埋めた。
初対面の相手に抱き上げられて、抵抗一つしないネロはとってもお利口さんだ。空気が読めるというのだろうか。私よりもよっぽど頭が良いと思う。
暫しネロの毛並みを堪能していた神子姫は、アニマルセラピーの効果か、少し落ち着いたらしい。
大きな目が、様子を窺うみたいに私を映した。
「あ、あの……貴方は……?」
「ふ、フヅキさまっ」
慌てて神子姫を止めようとする侍女を、目で制す。
公式の場ではなく、且つ神子姫はこの国の住人ではない。幸い、周りの目もない事だし、先に王族に名乗らせるなどとんでもないと、騒ぎ立てる必要もないだろう。
「第一王女、ローゼマリーと申します」
「へ……?」
神子姫の可愛らしい唇から、可愛らしい声が洩れた。
「え、おうじょ……? リアルなお姫様? 確かに、キラキラしてて、すごくきれい……」
真ん丸な目で私を見つめ、動きを止める神子姫は小動物みたいで可愛い。
長い睫毛がパチパチと瞬き、榛色の瞳がうっとりと細められる。
「絵本の中から抜け出したみたいに、本当に綺麗……、……じゃなかった! すみません!私、王女様にすごく失礼な事してますね!?」
夢見心地で呟いた神子姫は、途中で我に返る。
慌てふためく神子姫の腕から、驚いたネロは逃げ出す。その拍子に、彼女が首から下げた小さな布袋がぶらんと揺れた。
揺れ方からして、ある程度重さのある何かが入っているようだ。
「あっ、ネロちゃん! じゃなくて、王女様、本当にごめんなさいっ。私、文月 花音と申します」
文月 花音。確か、ヒロインのデフォルトネームだ。
容姿や性格だけでなく、名前まで可愛いんだなぁって思っていた記憶がある。私の大好きな名曲と同じ名前。華やかで明るい彼女にぴったり。
「大丈夫よ。謝らなくていいから、落ち着いて。ね?」
ペコペコと頭を下げる神子姫を宥める為に、優しく声をかける。
恐縮する彼女をどうにかソファーに座らせた。侍女の子にも勧めたが、青い顔で固辞されたので、無理強いはしなかった。
「何があったのか、分かる範囲で教えてもらってもいい?」
「はい。……といっても、分かる事は殆どないです。部屋で寝ていたら、突然凄い音がして、知らない人が部屋の中に立っていたんです」
凄い音というのは、私も聞こえたガラスが割れる音だろうか。
知らない人がいたっていう事は、窓から侵入したのかもしれない。
「布みたいなのを被っていたから、顔とか分からないんですけど、三人くらい。大柄だったから、たぶん男の人です。私に剣を突きつけてきて……」
その時の事を思い出したのか、神子姫の体が震える。青褪めた彼女は、寒さに耐えるみたいに自分の体を両手で抱きしめた。
一人がけソファーに座っていた私は彼女の隣へと移動し、そっと肩に手を置く。
平和な日本で生きていた神子姫にとって、剣を突きつけられるという体験はかなり衝撃的だっただろう。怖くて当然、怯えて当たり前だ。
「思い出させてごめんなさい」
私が謝ると、神子姫は頭を振った。「大丈夫です」と困り顔で笑う彼女の目尻には涙が浮かんでいる。目元も赤く染まっていて、痛々しく見えた。
「無我夢中だったから、あんまり覚えてないんです。悲鳴をあげたら、護衛の人と彼女が駆け付けてくれて……」
『彼女』の部分で侍女の方を見る。
「それから、彼女に手を引かれるままに逃げてきました。自分の事で精一杯で、護衛の人がどうなったかも分からなくて。すみません、わたし……」
「教えてくれて、ありがとう。我が国の騎士達はとても強いから、きっと大丈夫」
安心させようと笑いかけると、神子姫の体から少しだけ力が抜ける。
「貴方も怖かったでしょうに、とても立派でしたね」
侍女に言葉をかけると、彼女はビクリと肩を竦めた。
酷く青褪めていて、今にも倒れそうだ。俯いてしまったので、どんな顔をしているのか分からなくなってしまった。
どうしたんだろう。私が王女だから、恐縮してしまっているんだろうか。
「私、これからどうしたら……」
「レオンハルト様……えっと、近衛騎士団長には会えていないのね?」
神子姫は、私の問いに頷く。
逃げたのがレオンハルト様の指示なら、落ち着くまでここに留まってもらった方がいいと思った。でも違うなら、合流して指示を仰いだ方がいいだろう。
「団長さん、探してるかな……?」
ぽつりと呟いた神子姫は、扉の方へと視線を向けた。
「私の護衛に、彼への伝言を託してあるの。落ち着いたらきっと迎えに来てくれるわ」
迎えに来てくれると、自分で言っておいて胸がチクリと痛む。
私のバカ。レオンハルト様のお迎えが羨ましいなんて、そんな場合じゃないでしょう。
ちょこっと顔を出したネガティブな感情に蓋をして、神子姫を安心させる事に集中する事にした。
「すぐに来てくれますよね? 団長さんは凄く強いって聞いたし、大丈夫ですよね?」
レオンハルト様への信頼と憧憬が込められた眼差しに、ズキズキと主張する胸の痛みを無視して頷く。
すると神子姫は、へにゃりと緩んだ顔で笑って、息を吐き出した。
そうですよね、と繰り返す声も表情も、何もかもが可愛い。庇護欲を掻き立てられる愛らしさに、勝手に敗北感を覚える。
彼女の十分の一……百分の一でも、この可愛さがあったら。
怖い場面で怖いと泣ける素直さがあったなら。
醜い感情を振り払う為に、頭を振る。
気持ちを切り替えようと、顔をあげる。もう一度、侍女に話しかけた。
「もうすぐ解決するでしょうから、貴方も少し休んだ方が……」
「ひっ……!」
何故か私達に背中を向けていた侍女は、私の声に驚き息を呑む。
弾かれたように振り返るのと同時に、黒い影が侍女に向かって飛びかかった。
「痛っ!?」
侍女の手に噛み付いたのは、ネロだった。
そして彼女の手が持つ何かが、鈍く光を弾く。それが細身のダガーだと理解するのと、侍女に振り払われたネロが、壁に叩きつけられるのは殆ど同時だった。
「ネロッ!!」
短い悲鳴をあげて、ネロは動かなくなる。
ぐったりとした体を見て、喉の奥から悲鳴がせり上がってきた。
「な、なに? どうしてっ」
「フヅキ様、申し訳ありません……!!」
侍女はダガーを両手でしっかり握ったまま、神子姫に向かってくる。
逃げようとした神子姫は足が縺れたのか、その場に倒れ込む。
頭の中に沢山の疑問が浮かぶ。
どうして、ネーベル王国の侍女が。なんで神子姫を狙うの。もしかして、部屋から連れ出したのも罠なのか。侵入者は陽動で、こちらが本命?
不規則に浮かんでくる疑問は、一つも口から出ることはなく。
代わりに飛び出したのは、悲鳴じみた叫びだった。
「駄目っ!」
理屈も理由も知ったことか。
ごちゃごちゃの頭で分かるのは、ただ一つ。
ただ巻き込まれただけの女の子を、国同士の諍いなんてくだらない理由で傷つけてはならない。
振り上げられたダガーを見た私は、咄嗟に神子姫の上に覆いかぶさった。