転生王女の異変。
その夜は、いつもと変わらぬ平穏な一日の終わりに過ぎなかった。
呑気な私は、レオンハルト様に欲しいものがあると聞いたせいか、宝物を求めて冒険する夢を見ていた。
輪郭も定まらないぼんやりしたものを掲げて、これでレオンハルト様にプロポーズ出来る! と意気揚々としていた辺りで、目が覚めた。我ながら阿呆過ぎる。
唐突に意識が浮かびあがり、微睡みから現へと引き上げられた。
一旦眠ると、大体が朝まで起きない私には珍しい事だ。しかも、眠気は一瞬で過ぎ去り、しっかり覚醒してしまっている。
見慣れた天井をぼんやりと眺めていた私は、首を巡らせて室内を見回す。カーテンの隙間から見える外は、まだ真っ暗だ。曇り空なのか新月なのか、差し込む月明かりはない。それでも暗闇に慣れた目には、室内の様子はちゃんと映った。
薄暗い部屋の中、小さなシルエットが目に留まる。
「……ネロ?」
丸くなって眠っているだろうと思っていた愛猫は、寝床であるラタンのカゴから体を起こしていた。
ピンと立った形の良い耳は、私の呼びかけが聞こえていないかのように動かない。丸く開いた瞳孔で、扉の方角をじっと見つめている。
猫が何もない方向を見つめるのは、よくある事だと思う。
それなのに何故か、言いしれぬ不安がこみ上げてくる。
薄手のショールを軽くはおり、ベッドから体を起こした。
ネロの方に身を寄せ、覗き込む。
「どうしたの、ネロ。……なにか、いるの?」
不安が声に表れて、自分のものとは思えないほどに頼りなげに響いた。
いつもは感情豊かな愛猫は彫像の如く微塵も動かず、返事もない。耳鳴りがするような静寂が暫し続いた。
どれくらい、そうしていただろう。
ネロの耳が、ピクリと動く。それからほぼ間を空けずに、城内に大きな音が響いた。
ガラスが割れるような尖った音が、鼓膜に突き刺さる。次いで響いたのは、甲高い女性の悲鳴。
反射的にネロを抱き込んで、私は音の方角を凝視した。
騒々しい足音に混ざって人の声も聞こえるが、音が遠くて内容までは聞き取れない。いつかの夜を再現したような喧騒に、私の心臓は全力疾走したみたいに激しく鼓動を刻んでいる。
命を狙われていると、知っていたはずだった。
教えてもらった当初は、怖くて仕方がなかったけれど、あんまりにも平和な時間が続いたから気が緩んでいたんだと思う。
唐突に訪れた非日常は、私の精神を揺さぶるのに十分だった。
不意に、控えめに扉が鳴る。
私はビクリと身を竦ませた。
返事をすると、部屋の警護を担当してくれている騎士が申し訳無さそうに、部屋の外から私の状況を確認する。
「お休みのところ申し訳ありません。御身にお変わりはございませんか?」
「問題ありません。それよりも外が騒がしいようですが、何事でしょうか」
扉越しに無事を伝えると、安堵した様子だった。いくら緊急事態とはいえ、年頃の王女の部屋に無断で入るのは躊躇われたのだろう。
「もう少しで殿下の護衛騎士が駆け付けると思われますので、ここを任せてから私が確認して参ります」
短い休息時間を奪ってしまうのは心苦しいが、クラウスが来てくれたら心強い。
レオンハルト様も現場に駆け付けているだろうし、ラーテやカラス達もきっと、守ってくれる。
だから大丈夫だと己に言い聞かせると、体の震えが少しだけ治まった。
それにしても、一体何が起こっているんだろう。
ラプター王国の襲撃だろうか。だとしたら、こんなに派手にやらかすなんて何を考えているの?
魔王の復活を望むなら、神子姫が召喚されてしまった今、一刻の猶予もないのは分かるけど。それにしても、やり方があまりにも雑過ぎる。
何人が城内に入ったのか分からないけど、侵入者を取り逃がすほど、我が国の騎士団は甘くない。
捕らえられてしまったら目的は果たせないのだから、隠密行動は鉄則だろうに。
それとも忍び込んだのを発見されて、騒動になっているんだろうか。
考え事をしているうちに、自然と手に力が籠もってしまっていたらしい。
力加減に抗議するみたいにネロは高い声で鳴き、私の腕を蹴って跳んだ。
「ひょわっ!?」
よろめいた私は、情けない悲鳴をあげる。
ストンと華麗に着地をきめた愛猫とは反対に、体勢を崩して転びかけた私は、慌てて扉に手をついた。
「殿下!? 失礼致します!」
室内で私が暴れた音に驚いた騎士は、一言断りを得てから扉を開ける。非常事態だと判断した彼が作った僅かな隙間から、ネロはするりと外に出てしまった。
「ネロ、駄目っ!」
扉の影から半分だけ体を出して、愛猫に手を伸ばす。
掌を上に向けて「おいで」と差し出すが、ネロは廊下の先を見つめたまま動かない。
「私が捕まえますので、どうか殿下はお部屋の中へ」
騎士はそう言うと、ネロへと近づいていく。気が急いているのか足音も荒く、今まで反応を示さなかったネロも警戒するように振り返った。
あまり人見知りしないネロだけど、それでも猫は猫だ。急に距離を詰められたら怯えるのは当たり前。
騎士の手から逃れようと、ネロは駆け出した。
「ネロッ!」
私の声に、ネロはようやく反応する。
廊下の曲がり角近くで止まり、私の方を見た。
「そっちは危ないの。戻ってきて」
必死に訴えながら、しゃがんで両手を広げる。
綺麗な三角形の耳を揺らしたネロは、じっと私を見る。宝石のような青い瞳に私を映し、暫く動きを止めていたネロを、もう一度呼んだ。
「お願い。おいで、ネロ」
懸命な訴えが届いたのか、ネロはゆっくりと戻ってきた。
騎士の傍を通らないように端に避けつつ、私の手元へとやってきたネロは、広げた掌に頭を擦り寄せた。
ホッと安堵の息を洩らしながら、ネロを抱えあげる。
申し訳ありませんと恐縮して頭を下げる騎士に、頭を振った。
こうして無事に戻ってきてくれたんだから、それでいい。
腕の中で大人しくしているネロに頬擦りをしてから、私は部屋へと戻ろうとした。
「ローゼマリー様っ! ご無事でいらっしゃいますか!?」
「クラウス」
駆け付けたクラウスは、相当慌ててきたのだろう。いつもの騎士服ではなく、白いシャツとズボンだけという軽装だった。騎士服の上衣を脇に抱え、帯刀する為のベルトを付ける手間も惜しんだのか、鞘付きの剣を左手に持っている。
シャツは縒れて、髪はボサボサ。いつも爽やかなクラウスにしては、珍しい姿だ。
肩で息をしている彼は、私の姿を確認して、安堵の息を洩らした。
「良かった……。ご無事ですね」
「ええ、私は大丈夫よ」
安心したクラウスは、遅れて自分の惨状に気づいたのか、「お見苦しいものを」と少し恥ずかしそうな顔をする。
乱れた髪を手櫛で直すクラウスを見ていた私は、彼にも一応羞恥心ってものがあるんだなと失礼な感想を抱いた。
部屋を警護してくれていた騎士は、宣言通りクラウスと交代し、城の奥へと向かう。
それを見送ってからクラウスに視線を戻した。
「……何が起こっているのかしら?」
騎士服を羽織り、詰め襟部分の留め金を嵌めていたクラウスは、難しい顔になる。
「分かりません」
騎士団にとっても、想定外の事態だったのか。それとも、私には教えられないのか。厳しい表情で黙り込んだクラウスに、私もそれ以上の追求は出来なかった。
これは大人しく部屋で待機する他ないだろうと考え、部屋に戻る旨を伝えようと顔をあげる。
ふいに、クラウスの纏う空気が変わった。
音を察知した獣のように、姿勢を低くしたクラウスは剣の柄に手をかける。鋭い目が睨むのは、廊下の先。
何事かと目を瞬かせる私の耳に、数秒遅れで足音が届いた。
バタバタと忙しない足音が、こちらへと近づいてくる。
クラウスは、私を背に庇うように前に出た。
やがて見えてきたのは、小柄な影が二つ。手を取り合って走るのは、どちらも女性に見える。
城では珍しい長さの髪に、その女性が侍女に手を引かれた神子姫だと、すぐに気付いた。
やっぱり侵入者の狙いは、神子姫だったのか。
逃げてきたらしい彼女の傍には、追手らしき影はないが、レオンハルト様の姿もない。
安全な場所へ逃がすにしても、付添が侍女だけというのはあまりに頼りない。
もしかして、レオンハルト様が到着する前に、闇雲に逃げ出してしまったのだろうか。
とにかく、保護しなきゃ。
「こちらへ!」
クラウスと私の存在に気付いた神子姫へ向けて、手を差し伸べた。