第一王子の驚愕。
※ネーベル王国第一王子 クリストフ視点となります。
某月某日。
王城の一室にて、前代未聞の実験が行われようとしている。
異世界の住人の召喚。
素面で口にしようものなら、狂人扱いでもされそうな現実味のない話だ。しかし今、その空想のような話が、現実のものになろうとしている。
広い部屋の中には、家具は一つも置かれていない。
四方に窓はなく、出入り口は私の背後にある両開きのドアだけ。
大理石の床には、大きな図が描かれている。円と線とを複雑に組み合わせ、隙間を埋めるようにびっしりと文字が刻まれているソレは、魔法陣と呼ばれるもの。
その魔法陣を構成する呪文の綴りを、魔導師長であるアルトマン、それから弟子二人が念入りに確認している。
入室してから既に一時間近く経過しているが、最終確認を急かす気はなかった。隣に立つ国王も同じ意見のようで、終始無言を貫いている。
一つでも間違えれば、魔法は不発に終わる……だけなら、まだマシだろう。魔力の暴走を引き起こし、怪我人を出す恐れさえあるのだから。
今回の召喚に使う魔法陣は、当然だが全てが初の試みだ。
通常、魔法陣というものは一つ、もしくは二つの魔法から出来ているらしい。
門外漢である私に詳しい原理は分からないが、組み合わせる魔法の種類が一つ増える毎に、難易度は何倍にも跳ね上がるそうだ。
その話を踏まえた上で、今回の魔法陣はというと、だ。
異世界と繋ぐ門の役割を担う術式、対象を探知して捕捉する術式、転移させる術式、そして対象を保護する術式など、様々な魔術が合わさって出来ている。
つまり、全てが規格外の代物。
稀代の天才魔術師であるイリーネ・フォン・アルトマン主導の元に組み上げた術式であっても、不安は拭いきれない。
妹が同席しないと知った時は、心底安堵した。
先日会った時に、あの子はもう子供ではないと実感したが、それとこれとは別だ。極力、危険な目には遭わせたくない。
いつか……さして遠くない未来に、守る役目を誰かに譲るとしても、今はまだ。過保護な兄のままでいさせてほしいと願う。
傍らに立つレオンハルトを見上げると、彼は私の視線に気付いてこちらを見た。
「クリストフ殿下、如何されましたか?」
「……いいや」
言葉では否定しながらも、つい睨み付けてしまう。
レオンハルトは怒るでも戸惑うでもなく、苦笑いを浮かべる。少し眉を下げた困り顔は、最近見慣れてきた。
私の可愛いローゼとレオンハルトの距離が縮まった事が面白くなくて、八つ当たりをしているからだ。
大人げない自分に情けなさを覚えるが、自制するのが中々に難しい。王太子として育てられ、感情を抑え込むのには自信があった私が、今更こんな悩みを抱える事になろうとは、思ってもみなかった。
「いい加減、妹離れしたらどうだ」
考えに耽っていた私を現実に引き戻したのは、溜息混じりの声だった。
今まで無言だった国王は、呆れを隠しもしない目で私を一瞥する。
「……貴方には関係のない話でしょう」
「確かに関係はないな」
口を出すなと牽制すると、国王はあっさりと肯定した。
やけに簡単に引き下がったなと訝しんでいると、国王は涼しい顔で「だが」と続ける。
「アレに知られて疎まれる前に、止めるのが賢明だと助言はしておこう」
予想外の反撃に、ぐっと言葉に詰まる。
痛いところを突かれた。急に父親面するなと毒づいてやりたいが、負け犬の遠吠えにしか聞こえないのが分かりきっているので止めておく。
苛立ちを押し殺し、引き結んでいた唇を解いて息を吐き出す。
今、この場で悪いのは国王でもレオンハルトでもない。私だ。子供じみた独占欲で、周りに当たり散らしている私だけ。
寂しいなんて、理由にもなりはしない。
「……レオンハルト」
「はい」
「すまなかった」
ばつが悪いが目を逸らす訳にはいかない。視線を合わせて短く謝罪すると、レオンハルトは微かに笑った。
「はい」
文句一つ零さないレオンハルトに、敗北感を覚える。
少し悔しくはあるが、大切な妹の選んだ男が、彼で良かったと思うべきだろう。
私達がそんな会話をしている間に、最終確認が終わったようだ。
アルトマンが、国王の前へとやってくる。
「陛下。準備が整いました」
その言葉に、姿勢を正す。
張り詰めた空気など気にした素振りも見せず、国王は平時の無表情のまま口を開く。淡々とした口調は、呆れるくらいいつも通りだった。
「そうか。では、始めてくれ」
「かしこまりました」
アルトマンがそう返すと、弟子二人……ルッツ・アイレンベルクとテオ・アイレンベルクの両名は魔法陣を囲むように立つ。
普段は首に嵌められている魔力制御のチョーカーは、外されていた。
外の音が一切聞こえない部屋の中に、踏み出したアルトマンの靴音が響く。
重苦しい沈黙が続いたのは、おそらく三十秒にも満たない。しかし緊迫した状況のせいか、やけに長く感じる。
息を吸う音が聞こえた次の瞬間、室内の空気が変わった気がした。
「『 』」
アルトマンの口から、不可思議な音が紡がれる。
古代の言語のような、遠い国の音楽のような。知っているようでいて、全く馴染みのない、そんな相反する感覚を引き起こす。
そしてアルトマンが詠唱する呪文に合わせ、弟子二人の瞳の色がゆっくりと変わっていく。ルッツは、藍色から銀へ。テオは赤から金へと。魔導師が魔法を使う時に現れる現象だと知識にはあったが、実際に目の前で見ると、やはり驚く。
こんなにも鮮やかに変わるものなのだな、と胸中で呟いた。
魔導師達の手がぼんやりと光り、やがてその光は魔法陣へと流れ込む。いや、凡人の私に魔力の流れが見えている訳ではない。
外側の円から順に、魔法陣が光り始めたから、まるで水が注ぎ込まれているが如く、目視出来ただけの話。
玲瓏たる詠唱と共に、青白い光が文字を刻み、円を描き、線を張り巡らせる。どんどんと増す光が、魔法陣を満たしていく。
その光景はあまりにも現実離れしていて、息をするのも忘れる程に美しかった。
「『 』」
アルトマンの詠唱が、ゆっくりとだが確実に、力強くなっていく。
呼応するように空気が震え、肌が粟立つ。
カタカタと背後のドアが、軋むような音をたてる。
窓もないのに風が起こり、魔導師達のローブの裾を揺らした。
弟子二人の額に浮かんだ玉のような汗が、ぽたりと床に落ちる。
おそらく、相当の集中力が必要なのだろう。目を伏せた彼等の眉間には、深い皺が刻まれていた。
「『 』」
アルトマンの声と共に魔法陣を満たす光が、徐々に色を変える。
青から赤へ、赤から白へ。燃え上がる焔の如く、ゆらゆらと熱気を纏いながら。
そして熱気に煽られる蛍を思わせる光の粒が、無数に立ち上る。やがてそれらは魔法陣の中心で一つに集まり、大きな光の固まりを形成した。
卵……否、光でできた繭のようだ。
光の大きさが人一人分になろうかというその時。パキリ、と硬質な音が鳴った。ひび割れから、更に眩しい光が洩れる。
その反応が、成功の証なのか、その逆か。
見守る私の前で、ひび割れは大きくなり、洩れる光も増していく。
そして――パァン、と鮮烈な音と共に光が弾けた。
「……っ!」
閃光と呼ぶに相応しい眩しさに、私は咄嗟に目を閉じる。
一瞬影が差したかと思うと、次いで、突風が吹き付けたかのような衝撃が襲った。
ゆっくりと目を開けて、眼球を庇う為に翳した手を退ける。
まず視界に入ったのは、大きな背中だった。見慣れた黒の騎士服は、レオンハルトのものだ。私を庇う為に前に立ったのだろう。
いつもは整えられた黒髪が乱れているのから察するに、彼が庇わなければ私を襲った衝撃は更に大きなものだったのだろう。
「ご無事ですか?」
「ああ、問題ない。ありがとう」
レオンハルトに礼を言ってから、隣へと視線を移す。国王はさっきと全く変わらない様子で立っていた。髪も大して乱れておらず、表情も変わりない。
しかしその薄青の瞳が、僅かに瞠られていた。
「……成功したか」
ぽつりと、端的に呟く。
その言葉をすぐには理解出来なかった。
国王の視線を追う形で、魔法陣へと視線を戻す。
アルトマンの背の向こう側。魔法陣の中心に、何かが浮かんでいる。
光を纏う、柔らかそうな髪、白い肌、伏せた目を飾る長い睫毛。ほっそりとした手と、スカートから伸びる細い足。
浮いていた爪先が床に下りるのと同時に、ふわふわと纏っていた光が消える。
「大儀であった」
アルトマンらを労う国王の低い声に反応したかのように、目が開いた。
明るいヘーゼルの瞳は、ぼんやりと焦点があっていない。おそらく、まだ現状を理解していないのだろう。
……簡単に、理解できる筈もないが。
異世界より招かれたのは、私の妹と同じ年頃の小柄な少女だった。




