転生王女の懐古。(2)
棒立ちする私をどう思ったのか、兄様は少し悲しげに眉を下げる。
「駄目か?」
うぐ、と私は呻いた。
捨てられた子犬のような顔をするのはズルい。兄様に弱い私は、どんな我儘でも聞いてあげたくなってしまう。
逡巡したのは、十数秒だった。
目を伏せて、諦めの溜息を吐き出す。
ソファーの端っこに腰掛けて、どうぞと示す為に膝を軽く叩いた。
嬉しそうに目を細めた兄様は、私の膝に頭を預ける。
ふわりと香るのはフレグランスだろうか。沈香のように落ち着いた香りは、兄様によく似合っていた。
「ありがとう、ローゼ」
「枕役は務めますので、ゆっくりお休みくださいね」
機嫌の良さそうな兄様は、頷いてから目を閉じる。
私は近くにあったひざ掛けを引き寄せて、兄様の体にかけた。
身長が百七十センチを超えている兄様では体全体どころかお腹くらいしか掛からないけど、ないよりはマシだろう。長い足もソファーからはみ出しているが、我慢してほしい。
さて、どうしよう。
兄様の顔の上で本の続きを読む訳にもいかないし。
手持ち無沙汰な私は、眠る兄様の顔を不躾に眺めた。
白磁の如き肌は、間近で見てもシミ一つない。額にかかる白金色の前髪を、指でそっとどけた。
形の良い額に、綺麗なラインを描く眉。整った鼻梁に薄い唇。一つ一つのパーツが黄金比で、完璧に配置されている。
相変わらず、溜息が出るほど綺麗なお顔だ。神様は兄様を作る時に、細部まで物凄く拘ったんだろうなって妄想してしまうくらい。
「……前は、立場が逆だった」
目を閉じたまま、兄様は口を開いた。
前というのは、魔導師誘拐事件の時だろう。一人で頑張らなきゃって空回りしていた私を、抱きしめて守ってくれた夜の話。
「ぐずる私を、兄様があやしてくださったんでしたね」
「慰め方が分からずに、余計に泣かせてしまったがな」
昔の私には、兄様が綻び一つない完璧な王子様に見えていた。
でも、それは間違いだった。撫でる手も不慣れだったし、慰め方が分からなくて困っていたと思う。顔に出辛いだけで、焦ってもいたんじゃないかな。
それでも放置はせずに根気強く付き合ってくれたのは、完璧だからじゃない。優しい人だからだ。そして、私とヨハンをとても大切にしてくれているから。
「お前の泣き顔を見て、不甲斐ない自分が情けなかったよ」
「いいえ。私は兄様の妹に生まれてこられて、幸せですよ」
嘘偽りない本心を告げると、兄様は目をゆっくりと開く。
濁りのない青い瞳が私を映して、柔らかく細められる。
「……私も、お前とヨハンの兄になれて幸せだ」
見つめ合っていた私達だが、恥ずかしくなって互いに目を逸らす。照れくさいというか、居た堪れないというか。
なんかムズムズする。
「お前達を生んでくださった義母上には、本当に感謝している」
予想外の言葉を聞いて、私は照れていた事も忘れて兄様に視線を戻す。
しかし兄様の顔は至って真面目で、皮肉や冗談の類ではないらしい。そもそも、兄様が皮肉なんて言うの、あんまり想像出来ないけども。
だから本気で言っているんだろうって事は分かる。
とはいえ、納得も出来ない。
母様は兄様に優しくするどころか、目の敵にしている人だよ?
辛く当たられても、恨むのではなく感謝するとか……兄様は、聖人かなにかかな?
無言のまま固まっている私に気付いた兄様は、困ったような表情になる。
「本心だぞ」
「存じております。ですから、余計に不思議でした」
バカ正直に答えると、兄様は破顔した。
正直者だな、と喉を鳴らす。
「義母上は、私を良く思っていないようだから当然か。でも私は、それほどあの方が嫌いではないよ」
「……兄様は心が広すぎます」
つい、憮然とした口調になってしまう。
私だって、母様が憎い訳じゃない。自分を生んでくれた人だし、心の底から嫌う事は出来ないと思う。苦手だけど。すごく苦手だけど。
でも、兄様に対する態度は擁護出来ない。
「世の中には、心の中で罵倒しながらも、平気で美辞麗句を並べ立てる人間が山のようにいる。その点あの方は、なんとも正直だとは思わないか」
「…………それは、まぁ」
歯切れ悪くも、同意する。
確かに母様は、表面上だけ取り繕って影で虐めるなんて真似はしない。誰の前であっても兄様に冷たく当たるし、嫌味も言う。
でも、それって『正直』なんて前向きな言葉で表していいものかな……?
「それに、とても一途だ。あの冷淡な国王陛下をずっと慕い続けているのだからな」
幼子の初恋を見守るような口調に、私はなんとも言えない心地になる。どっちが年上か分かったものではない。
あと、他人事のように言っているが、実の父親と後妻の話だからね。
母様が嫁いできて、兄様は傷つかなかったのだろうか。
自分のお母さんが亡くなってから、ほんの数年で新しいお母さんが来るっていうのは、小さい子供には辛いんじゃないかな。私だったらたぶん、納得出来なかったと思う。
国王という立場上、仕方がないとは頭では分かっているが、感情は別だ。
微妙な顔で黙り込んだ私を見て、兄様は首を傾げる。
「ローゼ?」
「……兄様は、母様が嫁いできて、悲しくはなかったのですか?」
暫し逡巡してから、思い切って尋ねる。
すると兄様は自分の考えを探るように、一度目を伏せた。
「悲しいと思った事はない。実母の記憶は一切ないし、父親がアレだからな。父親を取られるとか、自分の居場所がなくなるとか、そんな風に悩んだりもしなかった」
淡々と語る声に、嘘はないように思えた。
「それに私の母は、国王をあまり好いてはいなかったらしい」
「そうなんですか?」
驚いて聞くと、兄様は「聞いた話だがな」と付け加えて頷いた。
兄様のお母さんは肖像画でしか知らないけれど、兄様と同じ色彩を持つ、繊細そうな美女だ。鼻とか耳の形とか、似ているパーツはあるけれど、全体的な印象はあまり兄様と似ていない。
大人しい方だったそうなので、父様を嫌っているというより、恐れていたようだ。
長く生きられたとしても、幸せになれたかは分からないと、兄様は遠くを見るような目で言った。
「もし義母上が嫁いできてくれなければ、私はきっと家族の愛というものを一生知らずにいただろう」
「兄様……」
「だから私は、義母上に感謝している」
兄様の穏やかな顔を見て、なんか泣きそうになる。
兄様の笑顔は私が守らねばと、謎の使命感が湧いた。
「ただ、お前達にとって良い母親かどうかはまた別の話だ」
誤解しないでほしいと付け加えた兄様に、私は頷く。
「母様の事を嫌いではないです。……というか、好きとか嫌いとか言えるほど、関わりがないんですよね」
一緒に過ごした時間が少なすぎて、判断がつかないとか、嫌いになる以前の問題だろう。
そんな人を良い母親だとは、とても思えない。
ただ完全に悪い人だと思えないのも事実だ。
もっと要領良く、強かな人だったら嫌えたんだろうけど。母様は意外と不器用だからな……。もしかしたら、親近感が湧いているのかも。
「もう少し互いに歳を重ねたら、穏やかに話せるのかもしれません」
「……成人前の少女のセリフではないな」
兄様はそう言って、苦笑いを浮かべた。




