或る密偵の憂い。
※ネーベル王国密偵カラス視点です。
「お連れしました」
国境警備隊隊長を伴い、執務室に入る。陛下は書類から顔を上げずに、平坦な声で「暫し待て」と告げた。
追いついてきた近衛騎士団長は、扉の前で待機するらしい。
人払いはしてあるが、万が一の時の為に見張りしてくれるのは有り難い。
閉めた扉に背を凭れ、腕を組む。だらけた格好だが、無礼だと咎める人間もいないし、陛下はそんな事気にしない。
緊張した面持ちの隊長は、直立不動の姿勢で待つようだ。
「座っていろ」
長い指がぞんざいな動作で、ソファーを指す。
少し躊躇してから、隊長は言われた通り腰掛ける。オレはこのままでいいやと思ったが、「お前もだ、カラス」と名指しされてしまったので、渋々隊長の隣に座った。
カリカリと一定の速度でペンが走る音だけが、室内に響く。
特にやることもなく暇なので、陛下の顔を不躾に眺める。絹糸のようなプラチナブロンドが、白皙の美貌に影を落とす。薄い青の瞳は透明度が高く、光が差さずとも全く美しさを損なわない。整いすぎた顔立ちは人間味が薄く、彫像のようだ。
男の顔がいかに整っていようとも意味がないと思っていたが、ここまで綺麗だと性別を超越して見惚れてしまう。もちろん、下世話な意味ではない。芸術品を眺める感覚に近いかな。
姫さんも整った顔立ちだが、色彩以外はあまり似ていないように思う。
それはたぶん、姫さんが表情豊かだからだろう。彼女の美しさの源が内側から溢れる生命力ならば、陛下は真逆だ。無言で動きを止めている時が、一番美しい。
陛下の場合、少しでも話そうものなら、顔の造作なんてどうでもよくなるくらい、迫力があるからな。いや、視線一つ寄越されただけでも、硬直する人間は多いだろう。
そんな事をぼんやり考えていると、コトンとペンを置く音がした。
陛下はサインを終えた書類を適当に積み上げると、席を立つ。
「待たせた」
そう言って陛下は、オレ達の向かいのソファーへと腰を下ろした。
隣に座る隊長は、ゴクリと喉を鳴らす。背筋を伸ばした彼と、陛下は目を合わせた。
「久しいな、リーバー。壮健か」
無表情で淡々と言われると、嫌味なのかどうかの判別も難しい。
まぁ、裏切り者に対して『よお、元気か?』なんて嫌味以外の何ものでもないが。
「……お久しゅうございます。愚かな行為をしでかした挙げ句、おめおめと生き延びて、御前まで参りました」
隊長は真面目な顔をしたまま、頭を垂れた。
陛下はつまらんと言いたげな顔で、フンと鼻を鳴らす。
「言い訳一つしないか」
「弁解の余地もございません」
クソ真面目に隊長は返す。
「私は、北方の辺境の砦という重要拠点をお任せいただいたにも拘らず、敵の甘言に惑わされた裏切り者です。どうか裁きを」
「そう急くな」
陛下は腕を組み、溜息を吐く。
「暫く会わなかった間に、随分と真っ直ぐな男になったものだな。どいつもこいつも捻くれた性格を矯正されおって。まったく、一体どこの猪の影響だ」
陛下は『どいつもこいつも』の辺りで、冷めた目でオレを一瞥した。性格を矯正された覚えはないが、つい目を逸らす。
猪突猛進ばかりするどこかの娘さんの影響を、全く受けていないと言えば嘘になるからだ。
それにしても、エルンスト・フォン・リーバーは、オレの目には元々真っ直ぐな男に見えていたが、そうではなかったという事か。
……いや、言われてみれば、愛する女以外の全てを捨て去る一途さは、真っ直ぐとは言い難いな。狂気や歪みと呼ぶに相応しい。
隊長は僅かに口角を上げる。
「傲慢で身勝手な行動ばかりとった私ですが、お陰で目が覚めました。あの方のひたむきなまでの真っ直ぐさは、私には美点に思えます」
隊長の言葉を聞いて、陛下は眉間に皺を寄せる。
「アレに振り回される人間の多さを知っていて、それを言うか」
「それもあの方の人徳かと」
「人徳ね。……まぁ、いい」
呆れ混じりに呟いた陛下は切り替えるように、一度目を伏せる。
再び現れた薄青の瞳は、普段の冷徹な光を取り戻していた。
「本来ならば数日かけて調書をとり、処分を検討するところだが、お前の立場と影響力を考慮すると悠長に構えている訳にもいかん。内々に事を済ませたい」
姫さんの予想した通り、陛下は隊長の裏切りを表沙汰にするつもりはないらしい。
敵国との国境にある防衛地点が内部分裂していますよ、なんて宣伝しても良い事は一つもないからな。
「報告は受けているが、改めて聞く」
一呼吸開けて、陛下は口を開いた。
「ラプター王国の間者に内通し、我が国の情報を渡した事に間違いはないか」
「はい。間違いございません」
恭しく頭を垂れた隊長に、陛下は目を眇める。
「ならばエルンスト・フォン・リーバーには、事故にあってもらおう。国外への任務へ向かう途中で、馬車が谷底に落ちたのだ」
秘密裏に死ねと、陛下は眉一つ動かさずに命じた。
こうなるだろうという予想はしていたが、姫さんの顔が脳裏を過ぎって、なんとも苦い気持ちになる。
姫さんは自分の立場というものを理解しているので、陛下を恨みはしないはずだ。おそらく納得もする。
でも、きっと悲しむだろう。納得した自分を責めて、苦しむのだろうな。
「御意に」
隊長は即答した。
その潔さが今は恨めしい。だが、責めるのはお門違いだろう。自分の命を諦めているのではなく、彼にはそれ以外の選択肢がない。
無駄に足掻いても、周囲の人達を苦しめるだけだと分かっているからこその即答だ。
隊長は、死を宣告されたとは思えない穏やかな顔つきだった。
「ならば、カラス。この男は、お前に任せよう」
「……かしこまりました」
一瞬、声が詰まりかけた。
ネーベルに来てからの日々があまりにも平和で、自分がどういう存在なのかを忘れかけていた。オレの手はとっくに血塗れだ。今更、誰を殺そうと変わらないじゃないかと、自嘲気味な独り言を心の中で呟く。
表情に変わりはないはずだ。
しかし隊長はオレの顔を見て、眉を下げる。
「陛下。厚顔ながらも、お願いがございます」
「なんだ」
隊長の言葉に、陛下は気を悪くした風もなく続きを促す。
「誰の手も煩わせる事なく、最期は自分の手で終わらせる事をお許しください」
自害する許可を、と隊長は言う。
おそらくは、オレを気遣って。二度と姫さんの目を正面から見られなくなってしまうオレの為に。
情けない。もうじき死ぬ人間に、何を言わせているんだ、オレは。
「余計な気遣いは無用だ。仕事はきっちり遂行する」
「しかし……」
ぴしゃりと跳ね除けても、隊長はオレを心配そうに見る。
アンタは自分の心配でもしていろと、言ってやりたい。
陛下はオレ達二人を順番に眺めてから、呆れたと言いたげに眉を顰めた。
「お前達は何を言っている」
オレはたぶん、間の抜けた顔をしていることだろう。隊長の方に視線を向けると、困惑した目とかち合った。
「誰がお前に死ねと言った。私は、エルンストを消すと言っただけだ」
「おそれながら、陛下。お言葉の意味を詳しく教えていただけますか」
戸惑いながら隊長が問いかける。
「お前は、何も持たない名無しの男になる。地位も家族も仲間も全て、今日限りで捨てろ。これからはネーベル王国の影として、残りの人生の全てを国に捧げよ」
隊長は、驚愕に目を見開く。
オレも同じように動揺しているが、受けた衝撃は比ではないだろう。
「それ、は……あまりにも、私に都合が良い気が」
掠れた声を絞り出す隊長は、酷く狼狽している。
「お前を哀れんでの措置ではない」
陛下は常と変わらず、冷えた眼差しで隊長を見た。
「お前を殺しても、我が国に利はない。だが、このまま要職に就かせてもおけない。そして理由を公開出来ない以上、適当な場所に飛ばすのも、解任するのも難しい。ならば、その命を使い潰すくらいしか、残された道はないというだけの話だ」
丁度、使える手駒を増やしたいとも思っていた、と淡々と呟く。
手駒とか、使い潰すとか物騒極まりない言葉が並ぶ。
実際、全てを捨てて生きるのは決して楽な道ではないだろう。大切な家族にも仲間にも、もう自分だと名乗る事さえ出来ず、孤独に生きて孤独に死ぬのだから。
それでも、最悪ではない。
死んだら、それで終わりだ。生きていれば、なにか出来る。もしかしたら大切な人達を、影から守る事だって出来るかもしれない。
「どうしても死にたいというなら止めはしないが、どうする。密偵をやるか?」
「……謹んでお受けいたします……っ」
くしゃりと顔を歪めた隊長は、震える声でそう言った。




