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警備隊長の慟哭。

※国境警備隊 隊長 エルンスト・フォン・リーバー視点です。

 


 ああ、間に合わなかったのか。


 家人達の反応を見て、そう理解したけれど、すぐに感情とは結びつかなかった。

 まるで心と体を繋ぐ線が、寸断されたかのようだ。もしかしたら、肉体と違って脆い心を守るために本能が、感じるなと命じているのかもしれない。

 それくらいティアナは、オレにとってかけがえのない存在だった。


 足を引き摺るようにして、ティアナの寝室を目指す。

 体の感覚が鈍い。手足は上手く動かず、視界は紗幕がかかっているみたいにぼんやりしている。侍女達のすすり泣きも遠く感じた。


 ドアノブを引いて、部屋に入る。

 ティアナ自身の甘い香りと、薬のにおいがふわりと漂う。


 レース地のカーテンを通して、眩い太陽の光が部屋に差し込む。東側の出窓の縁に並べられたウサギやリスの人形が、影絵のように浮かび上がった。

 花が大好きなティアナが冬でも楽しめるようにと、侍女達が作ったドライフラワーやポプリの数が、また増えた。

 ベッドサイドに置かれたテーブルには、やりかけの花の刺繍と、栞を挟んだままの読みかけの本。


 日常の続きの風景。平凡な一日が始まる事を、疑いようもないような。

 それなのに見慣れた景色の中で、たった一つ欠けたものがある。


 天蓋付きの大きなベッドに、静かに横たわる最愛の妻。

 彼女の魂だけが、失われていた。


「ティアナ」


 呼びかけて、ふらりと一歩踏み出す。


「ティアナ……ティニー」


 何度も呼びかけても、応えはない。

 細い肩を揺り起こそうとして、手を止める。触れる事が恐ろしいと、正直な体が訴えていた。


「ティニー……」


 宙を彷徨った手は、ベッドの横に置かれた椅子の背凭れに辿り着く。

 背凭れを少し引いて、腰を下ろす。木製の華奢な椅子が、抗議するみたいにギシリと軋む音をたてた。


 窓から差すカーテン越しの淡い光が、ティニーの横顔を照らすのを眺める。新雪の如き真っ白な肌が、光を受けてキラキラと輝く。枕に広がるクセのないシルバーブロンドの輝きと相まって、彼女自身が仄かに光っているように見えた。

 薄く開いた唇は血色がなく、青褪めていたが、それ以外はいつも通り。


 月並みな感想だが、眠っているようにしか見えなかった。

 だからだろうか、実感が薄い。


 長い睫毛がふるりと揺れて、今にも目覚めるんじゃないかと思った。菫色の瞳がオレを映し、おかえりなさいと笑ってくれる。そんな幻を、夢見てしまう。


 どれくらい、そうしていたのか分からない。

 何をするでもなく、椅子に座ったままティニーを眺め続けているオレに、控え目な声がかかった。


「旦那様」


 振り返りもしないオレの横に、誰かが立つ。

 顔を上げるのも億劫で、視線だけそちらに向けると、ティニー付きの侍女がいた。五十すぎのふくよかな侍女は、いつもニコニコと柔和な笑みを浮かべていて、ティニーは大層懐いていた。しかし、今日の彼女は、萎れた花のようだ。目元は真っ赤に染まり、顔色も悪い。


「こちらを、奥様からお預かりしておりました」


 侍女は白い封筒を取り出し、オレへと差し出す。


「……ティニーから?」


 侍女と手紙とを、交互に見てから問うと、彼女はしっかりと頷いた。

 オレが受け取ると、頭を下げて部屋を退出する。


 ティニーから、オレに手紙?

 いつ書いたんだ?


 ……考えたくもないが、彼女は自分の死期を悟っていたのだろうか。

 そして、自分なしでは生きられない情けない夫のために、手紙を残してくれたのか。


 どんな気持ちで書いたのだろうと想像するだけで、たまらない気持ちになる。どんなに怖かっただろう。どんなに、苦しかっただろうか。


 オレは手の中に残された手紙を、じっと眺めた。開けるのが、怖い。でも逃げては駄目だと己に言い聞かせた。

 真っ白な封筒の隙間に爪を潜り込ませると、あっさり封は開いた。

 中には四つ折りにされた白い便箋が二枚、重なって入っている。取り出して、折り目を均すように手で伸ばした。


 クセのない綺麗な字で書かれた手紙の書き出しは、こうだった。


「……『最愛の旦那様、エルンストへ』」


 呟いた声は、掠れたオレの声ではなく、頭の中でティニーの声に変換される。

 ベッドで半身を起こし、時折窓の外を眺めながらペンを滑らす彼女の姿が思い浮かんだ。手紙は時節の挨拶から、オレの体調を気遣うものへと変わる。もう何日も雪が続いていると書いてあるから、一月前くらいに書かれたのだろう。


 そして文章を追っていたオレの目は、ある一文に釘付けになる。


『貴方がこの手紙を読んでいるという事は、私はもうこの世にいないのでしょう』


 ああ、やはり。ティニーは自分の死を悟っていた。

 諦観と共に、大きな後悔がオレに伸し掛かる。オレはティニーを幸せには出来なかった。間近に迫る死の恐怖に心をすり減らしながら生きていると、気付いてやる事も出来なかった。

 悪事に手を染めても結局、彼女を救えず。最期に傍にいる事も叶わず、何もかもが中途半端な愚か者だ、オレは。


 自分への罵倒が、山のように浮かぶ。

 しかし手紙の中のティニーは、一言もオレを責めなかった。ただ只管にオレの身を案じ、気遣っている。


 ティニー、ティニー、オレの愛しいティアナ。

 オレを責めて欲しい。お前を苦しめてしまったオレを、どうか許すな。


 祈るような気持ちで、便箋の二枚目に手をかける。

 深く呼吸をしてから、一行目を読んだオレは目を軽く瞠った。予想外の内容を、頭が理解するのに、十数秒を要したと思う。


 『真面目な貴方は、きっと真剣な顔でここまで読んでくれた事でしょう』

 そこまでは、いい。だがその続きの意味が、すぐには分からなかった。


「……『でも実はこの手紙を書いたのが、二十通目だと知ったら貴方はどんな顔をするかしら?』」


 二十通目?

 この、最期の別れのような手紙が、二十通目?


 戸惑うオレが見えているかのように、手紙の中のティニーは続ける。


『成人するまで生きられないとお医者様に言われていた私は、貴方に手紙を書く事に決めました。貴方と会えなくなるかもしれないと思いながら書いた一通目の手紙は、自分で言うのもなんですが、悲劇を演じる役者のようでした。読み返した私は、恥ずかしさの余り、すぐに破り捨てて、マリテにお願いして落ち葉と一緒に焼いてもらいました』


 マリテというのは、手紙をオレに渡してくれた侍女の名だ。

 落ち葉という単語を見て、秋口に書いたのだろうなと、どうでもいい事に思考を飛ばす。オレもまだ混乱しているんだろう。一枚目との温度差についていけていない。


『二通目は冷静に書けたと思うのですが、吹雪の話を書いてしまったので、暖かくなってきた頃に破り捨てました。季節の話題を避ければいいのでは? と気付いたのは、五通目を書き上げた時でした』


 五通目まで気づかなかったのか、とオレは思わず笑いがこみ上げる。

 そういえばティニーは、しっかりしているように見えて、意外と抜けた所があった。


 一度だけ作ってくれた焼き菓子は砂糖と塩を間違えていたが、笑顔で完食したっけな。


「『でも私は、敢えて季節の話題を避けるのを止めました。完璧な手紙を書き上げるよりも、何通破り捨てられるかという方向へと、目標が変わってしまったのです』……? ティニーは相変わらず、思いも寄らない事をやり出すなぁ」


 清楚で可憐で、触れれば溶けてしまう雪の精霊のような容姿のティニーだが、中身は大人しいだけの深窓の令嬢ではなかった。

 好奇心旺盛で、負けず嫌いで。体が丈夫だったらきっと、一箇所に留まっていないお転婆な女性になっていただろう。


 『家の中に閉じ籠もっている私の話題なんて、簡単に尽きると思っているでしょう。ですが、そう簡単にはいきませんよ。私には、頼もしい協力者が沢山いるのです。冬には庭師が雪の兎を作って窓の外に飾ってくれて、春には侍女達が花瓶に色とりどりの花を生けてくれます。夏には厩番の男の子が窓越しに蝶を見せてくれるし、秋には料理人が栗でお菓子を作ってくれるんです。話題は尽きません。貴方にも見せたい景色が沢山ありすぎて困ってしまうくらいです』


 見る人が釣られるような、柔らかい笑顔のティニーが思い浮かぶ。

 いつでも笑顔を絶やさない彼女を、使用人たちは深く愛していた。だからティニーは、毎日楽しそうだった。具合が悪くても、ベッドから起き上がれなくても。そうだ、毎日、ニコニコと笑っていたじゃないか。

 なぜ、苦しんで書いたなんて思った。


 後ろめたい気持ちが、事実を捻じ曲げてしまったのか。

 国を裏切って、ティニーの意思を確認せずに、不自然な生を押し付けようとした後悔が、オレの目を曇らせていた。


 ティニーは、絶望なんかしていない。精一杯、生きようとしていた。

『この手紙も、野の花が咲いた頃に破り捨てます』という一文が、それを示している。


「『次からは、別れの手紙ではなく貴方への恋文をしたためましょう。そして破らずにとっておいて』……」


 そこまで読んで、声が詰まる。

 手紙を持つ手が震え、無意識に力が入ってしまったのか、くしゃりと皺が寄った。


『貴方の隣でおばあちゃんになれた頃に、まとめて渡す予定です』


 その文章を読んだ瞬間、獣の唸り声みたいな嗚咽が洩れた。


「ティニー……っ! ティアナ、ティアナ……!!」


 ボタボタと水滴が落ちて文字が滲む。

 手紙を握りしめたオレは、ティニーに手を伸ばす。細く白い手を両手で握って、慟哭した。


 ティニーは、生を諦めていなかった。

 オレの隣で、目一杯人生を謳歌して、生きようとしてくれていた。それを知れただけで、オレは救われた思いだった。


 間に合わなくて、良かった。

 幸せに生きていた最愛の人に、終わらない苦痛を押し付けずに済んで、本当に良かった。


 ティニーの冷たい手に額を押し付け、オレは子供みたいに泣き続けた。

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