転生王女の演技。
神殿を後にした私達は、森を出るまで誰も口を開かなかった。
疲労や寒さで頭が働かなかったというのも勿論あるが、きっと理由はそれだけではないと思う。沈黙こそが、私達の心情を一番雄弁に語っているのかもしれない。
馬が待つ森の入り口に辿り着く頃には、既に東の空はうっすらと白んでいた。
早朝の空気は、冷たく澄み渡っている。耳鳴りがするほどの静寂は、地上から自分達以外の生命が全て消え去ったかのようだ。
ゆっくりと地平線から、太陽の光が溢れ始める。闇を洗い流すかのような光景が切ないほどに綺麗で、意味もなく泣きたい気持ちになった。
「……誰か来る」
ラーテがピクリと何かに反応したかと思うと、低い声で告げた。
ラーテが呟くのとほぼ同時に、レオンハルト様も反応する。少し遅れてリーバー隊長も、二人と同じ方角へ視線を向けた。
私は何がなんだか分からないまま、皆の視線の先を見つめていると、やがて丘を越えて近付いてくる小さな影が見え始めた。蹄が大地を蹴る音が響き、馬を駆る人影の正体が、国境警備隊の一人、パスカル小隊長だと分かったのは、彼が滑り落ちるように馬から下りた時だった。
「隊長っ、探しました!!」
息せき切らしたパスカル小隊長は、リーバー隊長の前に跪く。切羽詰まった表情の彼から只事ではないと察知し、緊張が走った。
肩で息をするパスカル小隊長が発した言葉に、場の空気が凍る。
「砦に連絡が入りました! 至急、ご自宅にお戻りください! 奥様が……っ!」
「っ……!」
息を呑む。語られなかった言葉の続きは、問わずとも分かった。リーバー隊長の裏切りの理由が奥様の命に関わる事なら、きっと彼女に残された時間は長くはない。
視線がリーバー隊長に集まる。
彼は僅かに俯き、じっと動きを止めていた。
「……そうか」
静かな声だった。
取り乱す事なく、一度だけ頷いたリーバー隊長の横顔からは、何の感情も読み取れない。棒立ちのままのリーバー隊長を、パスカル小隊長は理解不能だと言わんばかりの表情で見つめている。
もしかしたらリーバー隊長は、覚悟していたのだろうか。
だからそんなに落ち着いていられるの?
しかし私の浅はかな考えは、すぐに消えた。
リーバー隊長の手が強く握り込まれ、震えているのを見てしまったから。
覚悟なんて、出来るわけない。
最愛の人との別れが目前に迫っているのだとしたら、誰だって動揺する。苦しむ。駆けつけたいに決まっているのだ。
でも同時にリーバー隊長は、自分にその資格がない事も理解しているのだろう。
「隊長?」
訝しげな声でパスカル小隊長に呼ばれても、リーバー隊長は動かない。否、動けない。罪人である彼の行動の決定権は、彼自身にはないからだ。
今、この場で一番高い地位にあるのは、私。
決定権があるのも私なのだ。
「マリー様」
レオンハルト様が、私を呼ぶ。
向き合った彼の目に迷いはなく、次に続く言葉を想像出来てしまった。優しいレオンハルト様は、私を矢面に立たせたりはしない。それくらいなら、憎まれ役を買って出てしまうだろう。
そんな事は、させられないと咄嗟に思った。
「このまま砦へ戻……」
「わ、わわ私、疲れましたっ!」
このまま砦へ戻りましょう。そう提案しかけたレオンハルト様の言葉に、慌てて声を被せる。
上手い言い訳が思いつかなかったにしても、これは酷い。頭を抱えたくなったが、反省するのは後だ。
きょとん、と丸くなったレオンハルト様の目を見つめながら、なんとか続きの言葉を考える。
「えっと、……疲れたので、もう動きたくないです」
「……馬上では自分が支えておりますので、寄りかかってお休みください。砦までは時間がかかりますが、なるべく静かに進みますので、申し訳ありませんがご辛抱を」
「えっ、本当に……ではなく! 一刻も早く、横になって眠りたいんです!」
レオンハルト様の申し出に一瞬揺らぐ。だが、ギリギリで理性が欲望を抑え込む事に成功した。
危ない、危ない。レオンハルト様と密着できるという誘惑に負けるところだった。
唐突に始まった気が抜ける遣り取りを、リーバー隊長とパスカル小隊長は、ポカンとした顔で見守っている。理解が追いつかないのだろう。
私の考えを理解しているのは、おそらく困り顔のレオンハルト様と、面白がるような表情のラーテだけ。
「でも近くの村の宿屋は、まだ開いていないでしょうし。どうしたらいいかしら」
頬に手をあてて考えるふりをすると、ラーテが口元を隠して咳をした。
おーい、そこのお兄さん。笑ってんのバレてるからな。咳払いで誤魔化せていないから。
大根役者っぷりを笑われて心折れそうになりながらも、演技続行。『いいこと思いついた』とばかりに、ポンと掌を打つ。
「そういえば砦よりもリーバー様のご自宅の方が、ここから近いのではありませんでしたか?」
私が問いかけると、ようやく意図を理解したらしいリーバー隊長の目が、大きく見開かれた。
彼の受けた衝撃の大きさを示すように、薄く開いた唇が震えている。
どういう結果になっても、もう二度と、生きて奥様に会う事は叶わないのだと思っていたのだろう。リーバー隊長の犯した罪の重さを考えれば、当然と言える。
彼は、国家を裏切った大罪人だ。
拘束した後、速やかに身柄を王都へと移すべきだと理解している。
王族である私は、私情を挟むべきではない。彼が誰であろうと、どんな事情があろうとも、関係ない……それが正しいと、思うのに。
ただの小娘であるローゼマリーが、心の中で叫ぶのだ。
このままリーバー隊長と奥様を引き離してしまったら、一生後悔すると。
「少しだけ、休憩させていただいても宜しいでしょうか?」
私の独断では、長い時間はあげられない。
でも、このまま永遠に別れる事になってしまうのは、あまりにも酷だ。
リーバー隊長の表情が歪む。
ぐっと口を引き結んだ後、彼は深く頭を下げた。
「ありがとう、ございます」
絞り出した小さな声は掠れていたが、私の耳にはしっかり届いた。
でも私は、聞こえないふりで軽く首を傾げる。
だって、休憩させてと我儘言ってくる相手に、お礼言うなんておかしいでしょう?
リーバー隊長は、気まぐれ王女の我儘を聞いてあげる立場なんだから。
隣にいたレオンハルト様を見上げると、彼は渋い顔をしていた。
「貴方は、優しすぎる」
私にしか聞こえないような、小さな声で呟く。
そんな事は全然ないですよ、という意味を込めて、苦笑いを浮かべて頭を振った。
私はただ、未来の私が苦しむ要素を潰しただけ。
まぁ、帰ったら父様にお叱りを受けるだろう事は予想されるが。なんらかのペナルティもあるかもしれない。
リーバー隊長が逃亡する可能性はないと思うけれど、拘束もせずに寄り道とか、絶対にやっちゃ駄目なやつだよね。
でも不思議と後悔は、してないんだ。
「なんの事でしょう? 私は、休みたいと我儘を言っただけですよ?」
相変わらずの下手くそな芝居で、笑いかける。
レオンハルト様は、しょうがない人ですね、と言いたげに苦笑いを浮かべた。




