或る密偵の独白。(3)
※ネーベル王国の密偵、カラス視点になります。
あの男が『綺麗』だと表現した国は、確かに美しく豊かな国だった。
王都から遠く離れた辺境の街も、清潔で活気がある。貧富の差はもちろんあるが、平民の暮らしもそれなりに豊かだ。少なくともスケルツの平民よりは、かなり上等。飢えて死にかけた人間が道の隅に転がっている光景は、一度も見たことがない。
畑には作物が豊かに実り、道端には花が咲き誇る。軍馬に踏み荒らされる心配など、想定していないかのような無防備さ。平和の証を見せつけられた気分になった。
特に王都は栄えていて、整然とした町並みの奥に聳える王城は圧巻の一言だ。ゴテゴテと派手な装飾が施されて下品にしか見えないスケルツの城とは違い、芸術品の如き白亜の城が夕日に照らされる様は、息を呑むほどに美しい。
だが、あの男の様に、ここで暮らしたいなんて感想は浮かばなかった。
あまりにも自分の生まれた場所と違いすぎて、地続きに同じ世界に存在しているとは思えないのだ。
それに、どうせオレはここで死ぬ。
そう思えば立派な城も、墓場と大差ない。
ある程度、腕に自信はあるが身の程は弁えている。
ネーベル国王の暗殺に成功するなんて、オレは微塵も思っちゃいなかった。
そして当然のように、暗殺は失敗した。
護衛の騎士に取り押さえられたオレは、遠い目をしながら「やっぱりね」と胸中で呟く。豊かな大国であるネーベルは、人材にも恵まれている。オレ一人でどうにかなるはずがなかった。
王城に忍び込み、国王の部屋に近づけただけでも誉めてほしいところだ。雑魚一匹程度、いつでも潰せると泳がされていただけかもしれないが。
「何処のネズミだ」
床に転がされたオレの頭上から、平坦な声が降ってくる。
腕を押さえ付けられているため、顔だけ上げて声の主を見た。
一人がけのソファーに深く身を沈め、嫌味なくらい長い足を組んだ男は、同じ人間である事を疑うほどに端正な顔立ちをしていた。
絹糸の如き白金色の前髪の奥、一欠片の温度も感じさせない薄青の瞳に見つめられていると理解すると、体が強張る。息苦しささえ感じた。
眉一つ動かさずに相手を屈服させる、生まれながらの王者。ネーベル国王 ランドルフ・フォン・ヴェルファルトは悠然とした態度でオレを見下ろしていた。
目を逸らしたくなるのに耐えながら、無言を貫く。
すると国王は軽く首を傾げた。クセのない髪がサラリと揺れる。
「言う気はないか。まぁ、見当はついているが」
だろうねと、投げ遣りに心の中で同意を示す。
商業、鉱業、農業の要である大国ネーベルに喧嘩を売る国は限られている。
ラプター王国もその一つだが、かの国は蛇のような狡猾さを持つ。万全である今よりも、戦争が始まり、国力が低下した頃を狙うだろう。
暗殺者を差し向けるのが国外の人間とは限らないが、世界情勢が緊迫している状況下で国王が崩御すれば、混乱は必至。余波はかなりの広範囲に及ぶ。それを補って余りある利益があるか、もしくは余程の馬鹿でなければ手は出すまい。
即ち、今の時期にネーベル国王に暗殺者を送り込む阿呆は、アレだけだ。
だがバレバレであっても言うつもりはなかった。
もちろん、義理や忠義のためではない。ただの意地だ。
生まれた時からずっと大した価値もない消耗品扱いされてきたオレだが、人間としての矜持は一応ある。
なりふり構わず命乞いして、惨めに殺されるのは御免だ。
死に方くらい、自分の意志で決めたかった。
一切口を開こうとしないオレを眺めていた国王の眉が、不愉快さを表すように顰められる。形の良い唇から溜息が洩れた。
「我が国の城に忍び込めるだけの人材を使い捨てにするとは……かの国の王が浪費家だという噂は、真のようだな」
一瞬、何を言われたか理解出来なかった。
母国ですらガラクタ扱いされてきたのに、まさか暗殺対象に評価されるなんて誰が予想出来ただろうか。
呆気にとられ、間抜け面を晒すオレを気に留める事なく、国王は言葉を続ける。
「そもそも暗殺が成功すれば、自分の置かれた状況が好転すると考えている辺りが、救いようがない。愚の骨頂だ」
「……アンタが倒れれば、国は混乱するだろう。戦争どころではなくなるはずだ」
オレはつい、疑問を口にしてしまった。
無言を貫く決意は、目の前の男への興味に負けたのだ。
無礼な口を利くなと咎められるかと思ったが、国王は全く気にした風もなかった。そして国王の意向を理解しているのか、オレを取り押さえる騎士も何も言わない。
「確かに、多少は混乱するだろうな。だがすぐに立て直す。たった一人の死で瓦解するほど柔に育ててはいない。国も、後継者もな」
簡単に言い放った言葉の重さに、呼吸すらも忘れそうになった。
国の頂点に立ちながら、己を一つの駒と捉える冷徹な思考。それから国と息子への、揺るがない信頼、どちらも非凡と言わざるを得ない。
とんでもない人間を殺そうとしていた事に気付き、今更ながら体が震えそうになる。
同時に羨望を抱く。この男を王として崇められるネーベルの民を、心の底から羨ましいと思った。
どうせもうすぐ死ぬのに、今更になって心残りが出来るのかと、笑いそうになったのを覚えている。
だが、人生はどう転ぶか分からない。
国王はオレを処刑しなかった。それどころか、ネーベルの密偵として働く事になったのだ。器が大きいという一言で済ませて良い話ではない。
スケルツの内部を知れるという利益よりも、いつ裏切るか分からない爆弾を抱え込む不利益の方がデカいだろう。
しかし敢えて、己の欠点を主張する事はしない。転がり込んできた幸運を手放す気はサラサラ無かった。
信用に値しないと評価されているならば、働きでいつか覆せばいい。
オレはこの国で、この国王の下で働きたい。
そう心から思った。
「あっさり、娘に下げ渡されそうになったけどな」
過去を振り返っていたオレは、遠い目をして呟く。
ヴォルフが「何か言った?」と問うが、何でもないと示す為に緩く頭を振った。
今思い返すと笑い話だが、当時のオレは結構な衝撃を受けた。
国王が信頼する第一王子ならばまだ納得が出来たかもしれないが、まさかの王女だ。深窓の姫君が密偵なんて必要とする訳がない。自分はまた女の機嫌取りのために使われるのかと、失望した。
普通に考えれば、あの合理主義の塊のような陛下が、『ご機嫌取り』なんて阿呆らしい理由でオレを譲り渡すはずがない。
オレを不要だと判断したというよりは、姫さんを有用だと考えたからこその采配だったのだろう。
だが当時のオレは頭に血が上って、そんな簡単な事も気づかなかった。
姫さん自身の判断で、なんとか下げ渡されるのは回避したものの、どんな王女だと、それからは姫さんの動きに注目するようになった。
すると、呆れる程に色んな事をやらかしてくれる。
成人前の王女様が、なんでそんな豊富な知識と人脈を持っているのか。驚きというより呆れに近い。
良くも悪くも、色んなものを引き寄せる姫さんの周囲には騒動が絶えなかった。
あれはたぶん、天賦の才能だと思う。
完全無欠な人格者だと尊敬されるのは第一王子だが、かの人はどちらかというと努力型の秀才。人を惹き付ける才能は、姫さんの方が持っている。この人のために何かしたいと思わせる魅力があるのだ。
姫さんがもし王子だったら、派閥は割れたかもしれないな。
だがオレは、『姫さんが王子だったら良かった』とは思わない。
女なんて碌なものではないと思っていたオレの考えを覆してくれたのが、姫さんだからだ。
姫さんの旅は波乱に満ちていて、何度も窮地に陥った。
それでも姫さんは、他人の助力を当てにしなかった。人に好かれやすいくせに、好意を利用する術を知らない。それに自力で頑張って失敗したとしても、人のせいにもしない。責めるのは自分だけ。
姫さんは、オレの知る女達とは何もかもが違った。
不器用だと思う。でもその愚直な生き方がオレには、ひどく尊く思えた。
特にクーア族の村で、女神に祭り上げられそうになった時の光景は忘れられない。
孤立無援の状況にいる幼い少女が、心細さに震えながらも、楽な道をスッパリと切り捨てた時の驚きと感動は、今も鮮明に覚えている。
族長が企てた事だと責任転嫁して、女神のふりをすれば、それ以上苦労せずに済むのに。姫さんは、わざわざ茨道を選んだ。クーア族の誇りを守るために頭を下げて、説得する方を選んだのだ。
いくらオレが捻くれていても、あんなにも綺麗な生き物を見て、「女なんて」という言葉は吐けない。
認めるよ。女だろうと男だろうと関係ない。尊敬に値する人間は、確かに存在する。
陛下と姫さん、あの二人に出会えただけでも、オレの人生はそう捨てたものでもないと思えるようになったんだ。
「……お」
聞き慣れた羽音に、意識を引き戻される。
木から飛び下りて腕を差し出すと、上空を旋回していた鳥が滑るように下りてきた。腕に止まった鳥の足から、手紙を外す。
ネーベル王国からの連絡は、姫さんに関するものだった。
「……相変わらず、思いもよらない事をやらかしてくれるよなぁ」
「何? まさかマリーの話?」
独り言を呟くと、ヴォルフが即座に反応する。
やらかす、という言葉で連想されていると知ったら、姫さん怒ると思うぞ。
苦笑いを浮かべつつ、オレは頷いた。
「おそらく爺さん達の説得材料になる」
「……どういう事?」
ヴォルフは戸惑ったような顔つきで問う。
「隣国の流行り病の拡大を防いだ褒美として、姫さんは陛下に、アンタ達の居場所を強請ったらしい。病気や怪我の処置だけでなく、薬の研究、それから医療の教育なんかも行える総合的な施設だ」
「はあっ!? そんなの、見たことも聞いたこともないわよ!?」
「ああ、前代未聞だ。おそらく一年二年で仕上がる代物じゃないが、出来上がったらネーベルの医療水準は格段に上がる。数十年後、……いや、数年後には医療を志す若者が、世界各地からネーベルへと押し寄せるだろうな」
まったく、姫さんには驚かされてばかりだ。
あの小さな頭の中に、どれだけの知識と構想が詰まっているのか。
「そんな……そんなの……」
驚きに言葉を失くしていたヴォルフは、掠れる声で呟く。俯いているせいで表情は見えないが、肩が震えていた。
先祖代々、薬師としての知識と伝統を守り続けてきた一族からしてみたら、革新的ともいえる構想は受け入れ難いものなのか。
それとも……?
「そんなの、滅茶苦茶面白そうじゃない!!」
ガバッと勢いよく顔をあげたヴォルフの頬は、興奮に紅潮していた。
「教育施設が併設されてるって事は、口頭だけでなく実地でも教えられるって事よね? しかも薬の開発もやってるなら、患者の状態を見ながら、薬を変えたり、試したりも出来る。あ、もしかしなくても、それだけ大きな施設なら患者を大勢泊める事も……?」
「もちろん出来るだろうな」
「最高! マリー愛してる!!」
ヴォルフの雄叫びに気付いた奴らが、何事だと、こちらを窺っている。わらわらと集まりだした連中も、きっとこの構想を聞いたら、子供のように目を輝かすのだろう。クーア族の人間は、医療に関する知識なら貪欲に取り入れようとするから。
「もう絶対に行くわ。私は誰が止めても行くわ。というか、教育や研究なら爺様達の得意分野でしょ。首に縄つけてでも引き摺って行かなきゃ」
「なんか儂等の殺害計画しとるぞ!?」
首に縄をつけて引き摺って行く、という部分だけ耳で拾った爺さんが青褪めている。
騒がしい言い争いを眺めながら、オレは喉を鳴らして笑った。
おそらくクーア族全員、アンタの元に連れ帰る事が出来そうだぞ。
ネーベルで待つ姫さんに語りかけるように、オレは胸中で呟いた。




