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偏屈王子の面会。

※ヴィント第二王子、ナハト・フォン・エルスター視点です。

 


 室内に足を踏み入れた途端、強い薬の臭いが鼻を突く。

 噎せそうになったのを、なんとか堪えた私に声がかかった。


「お久しゅうございます、ナハト殿下」


 視線をそちらに向けると、まず大きなベッドが目に入る。次いで、重ねた枕を背凭れにして半身をどうにか起こしている年老いた男と、目が合った。

 後ろに撫で付けた髪と顎髭は真っ白で、落ち窪んだ目は白目の部分が黄色く濁っている。ゆったりと作られた白い服から覗く手は、痩せ細って枯れ枝のようだ。年輪の如くシワの刻まれた顔に僅かな面影があるが、信じられない……否、信じたくないというのが本音だった。


「……お久しぶりです。ギーアスター卿」


 グレンツェを含む西方一帯を治めるギーアスター家、当主。ハインツ・フォン・ギーアスター辺境伯の変わり果てた姿に、私は衝撃を受けていた。


 驚きを隠すことも出来ずに呆然と佇む私を見て、ギーアスター卿は苦笑いを浮かべる。泣き喚く幼子をあやす祖父のような優しいその目には、確かに見覚えがあった。


「見苦しい姿を御前に晒す無礼を、どうかお許しください」


「いや……。こちらこそ、失礼をした」


 ぎこちないながらも、己の無作法を詫びる。その後、勧められるままに、ベッドの横に置かれた椅子に腰掛けた。

 近づくと一層、薬の臭いが濃くなる。それに紛れるようにして、別の臭いが鼻孔を掠めた。それは、死ぬ間際の母の傍で嗅いだものとどこか似ていて。静かに笑む老人の背後に、大鎌を振り上げた死に神の姿が見えた気がした。

 心臓を患っていると聞いていたが、想像していたよりもずっと、病状は深刻なのかもしれない。


「若い者にはまだまだ負けぬつもりでしたが、近頃は、体を起こす事も儘ならなくなってきましてな。年はとりたくないものです」


 そう言うギーアスター卿の顔は、ただ只管に穏やかで、若さへの嫉妬や羨望は微塵も感じられない。

 数年前に会った時の彼は、老いを感じさせない強靭な肉体と、卓越した剣の腕を持っていたというのに。剣を握ることは疎か、一人で立つことさえ出来ない現状を嘆かず、己の運命を受け入れているようにさえ見えた。


 だが、ふと笑みを消したギーアスター卿の瞳に、影が過る。

 布団の上に置かれた右手が、ゆっくりと持ち上げられる。力が入らないのか、酷く緩慢な動作で開いた指先は震えていた。なにも載っていない掌を、彼はじっと見つめる。


「ですが、自分がこうなって、初めて見えるものもありました。私は息子の……フィリップの事を、何一つ分かっていなかった」


 掠れた声には、悔いるような響きがあった。

 頑健であった領主と病弱な息子が、どのような関係だったのかを私は知らない。だが、もし……もしも歩み寄っていたのなら、別の未来があったのかもしれない。そこまで考えて、私は己の愚かな思考を打ち消すために頭を振った。もしも、などと考えても、既に起こってしまった出来事は、なかった事には出来ないのだから。


「卿、ご子息についてのお話は……」


「既に聞き及んでおります。我が息子の愚行で、どれほど多くの領民を苦しめた事か。申し開きのしようもございません。フィリップ・フォン・ギーアスターの罪は、親であり、ギーアスター家当主である私の罪でもあります。いかなる処分も受け入れる所存でございます」


「……処分はまだ保留です。追って沙汰があるでしょう」


 病の対処を優先したが、近いうちに処分が決定するはずだ。

 領主代理として、病を広げない為の決断だったと考えれば、おそらくだが死罪にはならない。身分剥奪の上、神殿に幽閉あたりが妥当か。ギーアスター家は取り潰しにはならないだろうが、西方の領主は別の人間に変わるだろう。

 個人としての能力が秀でているのは勿論の事、人望も厚く、部下にも領民にも慕われているハインツ・フォン・ギーアスターの代わりなど、中々見つかるものではないというのが、頭の痛い話ではあるが。


「御意に」


 ギーアスター卿は目を伏せ、頭を垂れた。

 暫しの沈黙。顔を上げたギーアスター卿の表情は凛々しく、穏やかな翁は領主の顔へと変わる。


「時に、殿下。お許し頂けるのであれば、流行病の現状についてお聞かせ願いたいのですが」


「現在、発症者は南西の森の中にある村へと隔離されております。私が王都へ薬や食料を含めた物資を取りに戻る間、ヨハンが森に残り、看病にあたってくれることになりました」


「……ヨハン殿下」


 ギーアスター卿は、眉を顰め、苦しげな声で呟く。

 ヨハンは私よりもよっぽど、ギーアスター卿と親しかった。甥っ子、いや寧ろ息子のように可愛がっていたヨハンが、危険な場所にいると知った彼の心中は、察するに余りある。


「ですが病は新種で、既存の薬を持ってきたところで効果は期待出来ません。そんな八方塞がりの状況でしたが、隣国の王女殿下のご助力があり、なんとか光明が見えてきたところです」


「……隣国の王女殿下といいますと、ヨハン殿下の姉君でしょうか?」


 予想外の話だったのか、ギーアスター卿は軽く目を瞠る。

 私は彼の言葉に頷いてから、話を続けた。


「はい。ローゼマリー王女殿下は、特効薬を届けてくださっただけでなく、優秀な薬師を沢山連れてきてくださった。その上、御本人も村で病人の治療を手伝ってくださっております」


「王女殿下が、自ら病人の治療を!?」


 ギーアスター卿の驚きようは、先程の比ではなかった。突然大きな声を出した事が悪かったのか、胸に手をあてて咳き込む彼の背を擦る。

 深く呼吸を繰り返した後、私に礼を言ったギーアスター卿は、背後のクッションに身を沈めた。長く息を吐き出した彼は、口元を緩める。


「大人びたヨハン殿下が、姉君の事となると年相応の少年の顔に戻るのを微笑ましく思っておりました。姉君は心優しく美しい方だと、確かに聞いておりましたが……私の想像以上の御方のようですね」


 想像以上という言葉には、私も同意する。

 ヨハンが姉君を深く愛しているのを知っていたので、彼の口から語られる姉君の評価を、少しばかり信用していなかった。過大評価とまでは言わないが、少しは誇張されているのだろう、と。

 だが、実際に会ってみた王女殿下は、私の予想を簡単に覆した。


「優秀な薬師というのは、ネーベル王家お抱えの、という事でしょうか?」


「いいえ。私もまだ詳しくは聞いていないのですが、おそらく違います。ヨハンも特効薬の事を知らなかったので、予想ですが、他国の薬師を雇ったのではないかと思われます」


 ギーアスター卿は、暫し思案する素振りを見せる。ふと何かに思い当たったような表情で、私を見た。


「他国の……、もしや、フランメから?」


「……ああ、確かに、フランメの方角からやって来たようでした」


 やはり、と呟いて、ギーアスター卿は破顔した。

 喉を鳴らして笑う彼の考えが分からず、私は戸惑う。


「卿?」


「失礼を致しました。年甲斐もなく、少しはしゃいでしまったようです」


 余計に意味が分からなくなり、困惑する私に、ギーアスター卿は笑いかけた。


「お伽噺の聖女様だと思っていた方が、まさか冒険譚の英雄だとは思いもしなかったもので」


「王女殿下が、英雄ですか?」


 お伽噺の中から抜け出した姫君か聖女のようだとは、私も思っていた。

 だが、そうではない。彼女こそ英雄だと、ギーアスター卿は言う。


「フランメの山深くに、薬師の一族が住んでいると聞いた事があります。王家お抱えの医者や薬師も敵わない、膨大な知識量と優れた技術を持ちながらも、誰にも膝を折らない孤高の一族だと。目撃例の少なさから、その存在自体が作り話ではないかとさえ思われていたのですが、もし彼等が王女殿下を主人だと認めたのでしたら……」


「……とんでもない話だ」


「はい。ですから、英雄だと」


 呆然とする私の言葉に、ギーアスター卿は頷いた。


 だが反論は思い浮かばない。お伽噺の存在のような薬師の一族を探し出し、協力を取り付ける行動力。病が流行っていると知りながらも、自ら只中に飛び込む度胸。自国の危機ではないというのに、見過ごせない優しさ。全て、英雄の条件に当て嵌まっているように思えた。


 半ば、呆然としているうちに面会の時間は終了となる。


 それから暫くの間、私はグレンツェに留まり続けた。

 王都から送られてくる物資を森へと送り、必要なものを随時手配。医者や薬師の健康状態を見て、交代させつつ、情報を整理。グレンツェの領主代理としてやってきた侯爵の手伝いをしながら、街の様子にも気を配る。

 森の中に隔離された病人は、時折、その数を増やしたが、殆どが順調に快方へと向かっていった。


 そして、一ヶ月後。

 最後の病人が完治し、我が友ヨハンと共に、可憐な姿をした英雄は街へと戻って来たのだった。


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