転生王女の多幸。
「けものは言いました。『わたしにちかよってはいけません。するどいツメとキバが、あなたをきずつけてしまうから』するどいツメのついた手を背中にかくして、けものはわらいました。でもお姫さまには、そのかおが泣いているように見えたのでした」
絵本のページを捲る。次のページに視線を落とした私は、聞こえてきた安らかな寝息に顔をあげた。
枕に顔を埋めて目を閉じた少女の薄い腹が、定期的に上下している。さっきまで目を輝かせて本の続きを読むようせがんでいたのに、どうやらいつの間にか、夢の世界に旅立っていたようだ。
私は苦笑しながら、本を閉じる。
少女の肩口まで布団を引き上げてから、顔にかかった髪を指でそっと退ける。気持ちよさそうに眠る少女は、時々、ぷすーと愛らしく鼻を鳴らしながらも起きる様子はない。数日前まで、熱で魘されていたのが嘘のようだ。
健やかな寝顔を堪能し、そっと額に口付けをした。
「おやすみなさい。良い夢を」
ランタンを持ち上げ、静かに扉を開けた。
一歩外に出ると、ヒヤリとした空気が肌を撫でる。暑い昼間に比べれば格段に過ごしやすいが、湿気を多く含んだ夜気が髪や肌をしっとりと濡らす感覚は、あまり気分の良いものではなかった。
静かに扉を閉めて、歩き出す。
ランタンなしでも歩けそうなくらい、今夜は明るい。見上げると、雲ひとつない夜空にぽっかりと丸い月が浮かんでいた。
「満月だ……」
淡いクリーム色をした月は、母国の城で見た月とは違って見える。周りの景色が違うからか、里心がそう見せるのか。
ふと思い出すのは、城で待つ人達の顔。それから数日前に一瞬だけ会えた、レオンハルト様の顔だった。
もう王都に辿り着いたかな。強行軍だったみたいだから、ゆっくり体を休めている頃だろうか。
元気かなぁ。
……会いたいなぁ。
つい、そんな事を考えてしまう。皆が必死に頑張っているのに、私ってば自分のことばかりだ。
足を止めた私は、満月を見上げながら溜息を吐き出した。
こんなんじゃ駄目だと、軽く己の頬を叩いた、その時。
ガサ、と藪をかき分けるような音がした。
「!?」
私は咄嗟に、音の方向にランタンを向けた。
周囲に人影はない。
疲れ切ったクーア族の人達の多くは寝静まり、残りの人達も患者に付きっきり。西方騎士団の人達の多くは病に倒れて療養中。つまり、こんな夜に外を出歩く人は、ほぼいないって事。
見張りを置かなくても、病の感染を恐れて、誰も森には入ってこないと思っていたのに。
辺りは静まり返り、虫の声と葉擦れの音だけが時折響く。
ドッドッと、耳の奥で己の鼓動が煩いくらい主張している。
ガサ、ともう一度音がなる。そして続くように、サクサクと何かが木の葉の絨毯を踏みしめて歩く音がした。
この定期的な音と重みは、獣じゃない。きっと人だ。
逃げろと、こんな弱っちい小娘に何が出来ると、頭の中で声がする。でも体は逆らって動かない。ううん、縫い付けられたように、一歩も動けないのだ。
全身小刻みに震えているのに、怖いもの見たさなのか本能なのか、手だけは高くランタンを掲げる。近づいてくる存在の正体を見極めようとするみたいに、目も固定されて瞬きすら出来ない。
「……っ!」
やがて暗闇の中から、長身の人影が現れた。
ドクン、と大きく鼓動が跳ねる。せり上がってきた悲鳴は、カラカラに乾いた喉に貼り付いて出てこない。ひゅう、と掠れた音だけがこぼれ落ちた。
灯りに気付いた長身の影が、顔をあげる。
外套の影から覗く双眸と、視線がかち合った気がした。
「……姫君?」
ぽつりと、呟きが耳に届く。
それはどんなに小さくとも聞き間違えたりしない、大切な人の声だった。
「……れおん、さま……?」
恐る恐る愛しい人の名を呼ぶ。
すると彼は、外套のフードを落とす。硬そうな黒髪がこぼれ落ちた。整った鼻梁に凛々しい眉、シャープなラインを描く頬は少し削げた気がする。雄々しい美貌には隠しきれない疲労の色が滲むが、魅力を損ねるどころか逆に、危うい色香さえ感じさせた。
切れ長な黒い瞳が私を映し、柔らかく細められた。形の良い唇から、ほっと安堵の息が洩れる。
安心しきったような表情は、私の心を一瞬で鷲掴みにした。
「ああ……良かった。ご無事ですね」
「っ!」
レオンハルト様……本物の、レオンハルト様だ。
じわじわと、歓喜が湧き上がる。恐怖に血の気をなくしていた指先にまで、ゆっくりと熱が巡っていく。
頬が熱い。さっきまでとは別の意味で、体が震える。
「れお、レオン様、も……」
ああああ、恥ずかしい。まともに言葉も出てこない。
私に近付いてきたレオンハルト様は、吃る私を笑う事なく、優しい目で続きを促す。
「レオン様も、ご無事で良かった……おかえりなさい」
声を詰まらせながらも言うと、レオンハルト様ははにかむ。
「はい、ただいま帰りました」
小さく頷いたレオン様は、優しく微笑む。そんな目で見ないで欲しい。胸がいっぱいになって、余計に声が出てこないから。
ずっとずっと、会いたくて堪らなかった人が目の前にいる。
その現実が、すぐには受け止めきれなかった。降って湧いた幸福は、触れたらパチンと弾けるシャボン玉のように儚く見えて、つい及び腰になってしまう。
ぽつぽつと、手探りで距離を測るように、会話を続ける。
ヨハンと会えた事。目の上を怪我してしまったけれど、元気そうな事。レオン様も、ナハト王子を無事に王都に送り届けた事を教えてくれた。
ほんの一メートルの間隔をあけて向かい合う私達の、会話が途切れた。
レオンハルト様は、無言でじっと私の姿を眺めた。つむじの辺りに視線を感じて、むずむずする。
軽く首を傾げたレオンハルト様は、口を開いた。
「姫君……背が伸びましたか?」
「えっ。そう、ですか……?」
自分では良く分からない。自分の成長に気を配る余裕もなかったのもあるが、単純に私の周りには、長身の人ばかりが集まっていたので分からなかった。私より背が低いのって、リリーさんくらいだったし。
でも、もし伸びたのなら嬉しい。ほんの少しでも、レオンハルト様との差が縮まるのは、喜ばしい事だ。
「はい、……いや」
レオンハルト様は考え込むように、顎に手を当てる。少し戸惑いを含んだ視線の意味が、私には分からない。
眩しげに細められた瞳に見られていると思うと、酷く落ち着かない気分になる。彼は小さな声で何事か呟いた。残念ながら、私の耳には届かなかったけれど。
どんどん赤くなっていく頬の熱を持て余しながら、私は話題を探す。
けれど思考はカラカラ、ぐるぐると空回り。
どうしよう、変な汗が出てきた。
「えっと……、レオン様!」
「はい?」
「お腹! お腹減りませんか?」
苦し紛れにひねり出した話題は、なんとも間の抜けたもので。
ああ、やっちまった。言った瞬間に自分の失態を悟った――のだが。
ぐぅ、と控えめな音が鳴った。
「!」
「……?」
なんの音?
首を傾げる私に対し、レオンハルト様は気まずげに視線を逸らす。口元を大きな手で覆った彼は、もう片方の手でお腹の辺りを押さえた。
俯いたレオンハルト様の頬が、ほんのり赤く染まっているのが見えて、私は漸くその音の出処を知る。
「……お恥ずかしい」
「っ……!!」
照れた呟きを聞いた瞬間の、私の気持ちをなんて言い表したらいいか分からない。
叫ばなかったことを、誰かに誉めてほしいくらいだ。
か、かわいい……っ!!
レオンハルト様が、お腹鳴って照れてるとか、どんなご褒美イベントですか!? 神様ありがとうございます!!
天を仰いで叫びたい気持ちを堪え、私はへらりと笑った。
眼の前の女が、自分の照れ顔を脳内に焼き付けようとしている事など知りもせず、レオンハルト様は笑い返してくれる。
……俗物で、本当にごめんなさい。
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