偏屈王子の希望。(2)
※引き続き、ヴィント王国第二王子 ナハト・フォン・エルスター視点です。
その人物は焦る様子もなく、沈黙したままだった。
暫しの間をあけ、ふぅ、と息を吐き出す。外套の頭部に手をかけ、背へと落とした。病的なまでに白い肌が、松明の炎に照らされる。父親には全く似ていない繊細な顔立ちが顕になった。
「私が逆にお聞きしたいですよ。こんな場所でなにをなさっているのですか、王子殿下」
まるで館の庭先で遭遇しただけかのように、平坦な声でフィリップは言った。焦りも恐れもない、どこまでも平時の薄っぺらい笑顔を浮かべて。
凡庸な男だと思っていたが、とんでもない。この状況で普段通りの顔が出来る事自体、異常だ。こちらを威嚇している周囲の男達の方が、よっぽどもまともに思える。
「王都にお戻りになると仰っていたのに、またこのような場所でお会いする事になるとは思いもしませんでした」
「ああ、私も会いたくはなかった」
フィリップを睨みつけながら、私は馬から降りた。
オルセイン殿も馬を降り、私を護るように隣に立つ。
「もう一度聞くぞ。何を、しようとしていた?」
真っ直ぐに瞳を見据え、問う。フィリップは目を逸らそうとはしなかった。
しかし答えは返らない。フィリップは左手を軽く上げる。合図を送るように、スイと振った。彼の背後にいた男は合図を目で捉え、背負った矢筒から一本引き抜く。その矢は普通の矢とは違い、先に布のような物が巻かれていた。
男は矢を、別の男が持つ松明へと近付ける。布には油が染み込ませてあるのか、勢いよく燃え上がった。
煌々と燃える炎に、背筋が凍る。
「止めろ!」
何をしようとしているのか悟り、私は声を荒げる。
しかし男は気にする素振りも見せず、火矢をつがえた。駆け出そうとした私の眼の前で、矢が放たれる。声にならない悲鳴が洩れた。
真っ直ぐに森へと向かっていく矢に、手を伸ばす。
届かない。ほうき星のように炎の尾を引き摺りながら、駆け抜ける矢の軌跡が、鮮明に目に映った。
油を纏った木々が、燃え上がる想像が脳裏を過る。
止めてくれ。
絶望に目の前が真っ暗になりそうになった、その時。風が巻き起こった。否、風のように素早く、誰かが動いた。
鈍色を放つ刃が煌めき、ぐしゃりと何かがひしゃげる。中央で切断された矢が、地面に叩きつけられた。カランカランと、呆気ないほど軽い音がした。
「……っ」
場が静まり返る。誰かが息を呑む音が、やけに大きく聞こえた。
ゆらり。彼の動きに一拍遅れで、外套の裾が舞った。黒髪の間から覗く、切れ長な漆黒の瞳が炎を映して妖しく揺らめく。
「ナハト様」
「……っ、ああ」
呼び掛けられ、私は漸く呪縛が解けたかのように息を吸い込む。
オルセイン殿は鋭い眼光で男達を睥睨したまま、私に話しかけた。
「如何致しましょうか」
問う声は低く硬い。艶のある美声を、何故か獣の唸り声のようだと思った。
まるで猛獣を繋ぐ鎖を、握っている心地になる。どうするのかと問いながら、命じろと言われた気がした。
「……無力化してくれ」
言った瞬間、オルセイン殿は目を細めた。
その瞳に映る炎は、松明とは比べ物にならないほど苛烈で。ああ、彼は怒っているのだと、私はやっと理解した。
「かしこまりました」
剣を軽く振ったオルセイン殿は、体勢を低くして駆け出した。
徐々にではなく、走り出した瞬間から最速を叩き出す野生の獣のような速さに、目で追うのも難しい。
フィリップの隣を駆け抜け、火矢を放った男の前に躍り出る。何が起こったのか理解出来ず、唖然とする男の手が、弓ごと切り裂かれた。鮮血が舞う。弦の切れた弓を取り落とし、男は血塗れになった己の利き手を掻き抱いて悲鳴をあげた。
その横にいた男が剣を抜く前に、オルセイン殿は剣の柄を振り下ろす。ゴキンと鈍い音がして、男はその場に崩れ落ちた。
「うわぁあああああっ!!」
悲鳴のような声をあげながら、別の男がオルセイン殿の背後から剣を振り下ろす。しかし即座に振り返ったオルセイン殿は刃を手甲で受け止め、腹に強烈な蹴りを食らわせた。吹っ飛んだ男は、後ろにいた男を巻き込んで倒れ込む。
横からの斬撃を軽く躱し、もう一方から来た男と斬り結ぶ。鋼同士が削り合い、ギャリギャリと耳障りな音がした。鍔で刃を受け止めながら、オルセイン殿は男の足を掬い上げるように引っ掛けた。足元を疎かにしていた男は、呆気なく転倒。オルセイン殿は男の腹を力任せに踏みつける。男は唾と胃液を撒き散らしてから、白目をむいた。
「死ねっ!」
飛んできたナイフを、オルセイン殿は剣で打ち落とす。間髪入れずに振り下ろされた剣を、後方に跳んで避けた。切っ先が土を抉る。オルセイン殿は体勢を整えるついでのように落ちたナイフを拾い、投げる。鋭い軌跡を描いたナイフは土煙を切り裂き、男の肩に深く突き刺さった。
背後から突き刺そうとした攻撃を躱し、オルセイン殿は間に剣を差し込む。体の向きを変え二度、三度と打ち合い、剣の角度を変えて刃を滑らす。鍔にあてて跳ね上げると、横腹を抉った。鎧のお陰で致命傷にはならなかったようだが、男は膝をついて剣を取り落とす。
残された男は、真っ青な顔で震えていた。
オルセイン殿は、ゆっくりとした足取りでその男に近付く。小刻みに震える手から剣を引き抜くと投げ捨て、男の首筋に手刀を振り下ろした。大柄な体が傾ぎ、大地に倒れる。
「…………」
私は、言葉を発することすら出来なかった。
あまりにも呆気なく、一方的に戦いは終わった。
オルセイン殿は、血を払うように剣を振ってから鞘に収めた。
振り返った彼の瞳に、さきほどまでの苛烈な光はない。お待たせ致しましたと恭しく告げられ、なんと返していいのか分からなかった。待つどころか、十秒も経っていないような気がしているのに。
彼が黒獅子と呼ばれている理由を、垣間見た思いだ。
彼の戦い方は、まるで野生の獣の狩りだ。無駄がなく、躍動するようで……相応しくない表現かもしれないが、美しいとさえ感じた。
「随分と強い護衛がいらっしゃるのですね」
一人残されたフィリップは、倒れた男達を一瞥し、溜息を吐き出す。
「視察の時は連れていなかったようですが、どこから調達したのか。……ああ、もう、予定通りにならない事ばかりだ」
「そうだ。お前の思い通りになんてさせない。大人しく投降しろ」
「……本当に、それで宜しいんですか?」
降参とばかりに両手を軽くあげたフィリップは、意味ありげに言った。
「何がだ」
「グレンツェで流行った病は、特効薬がありません。ギーアスター家お抱えの薬師でも、手の施しようがありませんでした。あのまま街に病人を留めおけば、今頃、街全体に病が広がっていたはずです」
フィリップの言葉に頷くのは癪だが、彼の言う通りだった。
効果のある薬は、今の所見つかっていない。国中探しても、あるという保証はどこにもないのだ。
「ここで食い止めなければ、病はやがて国中に広がる。否、国境を飛び越え、世界中に広がるでしょう」
「……たとえそれが事実であっても、お前が罪のない民を森ごと焼こうとした言い訳にはならない」
「でしょうね。ですが、これから先は貴方様の罪です。数十人の命を長引かせるために、世界各地に死の病を撒き散らす。その罪深さに、耐えられる自信はお有りですか」
数十人の民の命か。それとも世界の安寧か。
突き付けられた天秤の重さに、呼吸の仕方さえも忘れた。
村で待つ彼等の命を助けたいと願っているのに、それだけなのに。私のその行為が、無辜の民の命を危険に晒すというのか。
どちらか一方を選び、残りを切り捨てて。罪深い取捨選択の先に、一体何が残る?
それが為政者だというなら。それこそが上に立つ者の役目だというならば、私はそんなものになりたくはなかった。
息が苦しい。胸が張り裂けそうだ。
大切なものを握り締めた両手から、今、まさに全てが零れ落ちようとしている。
誰か。
誰か。
誰でもいい。頼む。お願いだ。私自身のものなら、なんでもくれてやる。
私の大切な民を、宝を……助けてくれ。
「ナハト様!」
「っ、……オルセイン殿?」
両肩を掴まれ、揺すられた。怖いくらい真剣な瞳が、私を射抜く。
「どうか惑わされないで下さい。希望は、まだ残っています」
「……どこにだ。どこにも見えやしない。ありはしないじゃないか……!」
振り払おうとした手を掴まれる。
真正面から私を覗き込んだオルセイン殿は、強い口調で言った。
「あります。今は見えなくとも、必ず。我が国の……いいえ、オレの希望の光は、決して消えない」
オレの希望の光。
それは、どういう意味なのか。問おうとした私の上空で、羽音がした。
見上げた空を、一羽の黒い鳥が旋回している。
気がつけば空が白み始めていた。
東の地平線から、光の欠片が洩れる。
目を細めた私の耳に、ガラガラと車輪の音が響いた。
一瞬、空耳かと思った。だが小さな影は、だんだんと大きくなっている。近付いてくるのは、数台の馬車。
大型の貨物用の馬車まであって、騒がしいくらいの音が幻ではないと訴えてきた。
何故、こんな場所に馬車が来る?
唖然としながら見守る私の前で、一台の馬車が止まった。
御者台に座っていたのは、黒い外套を纏う人物。おそらく若い男。彼は身軽に降りると、馬車の扉を開けた。
「姫さーん、生きてるー?」
「生きてるけどっ! なんで急に、方向転換したの!?」
「目的地が変わったんですよ。ほーら、とうちゃーく」
やけに気安い口調で青年が話しかけると、中から少女の声が聞こえた。こんな辺境の地に相応しくない、可憐な声だった。
青年の差し出す手をとって、少女が扉の影から姿を現す。
夜明けの風が、波打つプラチナブロンドを揺らして、キラキラと煌めく。整った顔立ちの少女は、こちらを見て目を見開いた。零れ落ちそうな青い瞳は、夜明けの空よりも澄み渡り、晴れた日の海よりも鮮やかな色をしていた。
白皙の肌に、朱が散る。まるで精巧な人形に、命が吹き込まれた瞬間を目撃したかのような気持ちになった。
「えっ……レオン様……!?」
「姫君……!」
オルセイン殿は、驚きと喜びが入り混じったような顔付きで駆け寄る。
少女も青年の手を放し、オルセイン殿に駆け寄った。
「ど、どうしてレオン様がここに……」
戸惑っていた少女は、当然の疑問を口にしようとした。だが疑問を振り払うように頭を振ってから、表情を引き締める。
「ううん、今は理由を聞いている場合ではありませんね。レオン様、私は間に合いましたか?」
「っ……では、姫君」
オルセイン殿の瞳が輝く。昂ぶる気持ちを抑え込むようにして問う彼に、少女はしっかりと頷いた。
「はい。薬をお届けに参りました」
その言葉を聞いた瞬間、意味をなさない声が口から洩れた。
理解が追い付かない。今、彼女は薬と言ったか。
そんな都合の良い事、あってたまるか。どんな奇跡だ。
捻くれた私の心の声が、芽生えた希望を消そうと躍起になっている。だが体は正直で、手がカタカタと震えてきた。
「薬と、……今、貴方は薬を持ってきたと言ったのか」
震える声で問う。
私の方を向いた少女は、首を傾げる。しかしすぐに何かに気付いたかのように、真剣な顔付きになった。
「貴方の大切な方も、もしかして病に罹っているの?」
「ああ……大切な、大切な人達なんだ」
残してきた友の、民の顔が思い浮かぶ。
噛み締めるが如く呟いた私の手を、少女は握った。宝石のような瞳が、真っ直ぐに私を見つめる。
「大丈夫。薬だけじゃなくて、優秀な薬師の人達も来てくれているの。貴方の大切な人を、絶対に助けてくれるわ」
大丈夫。
絶対に助ける。
その言葉を、私がどれだけ聞きたかったか。
どれほど、待ち望んでいたか。
「……っ、ありが、とう……っ!」
震える声を絞り出した私の頬を、暖かな雫が流れ落ちる。
少女は慌てていたが、涙は止まってくれはしなかった。
突然現れた希望の光は、愛らしい少女の形をしていた。
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