第二王子の探索。(2)
引き続き、ネーベル王国第二王子、ヨハン・フォン・ヴェルファルト視点です。
踏み出した足が、泥濘に沈む。
揺らぎかけた体を支えるために、咄嗟に木の幹に手をつく。振り返ったレオンハルトに、頷くことで大丈夫だと伝えた。
事前にレオンハルトが言っていた通り、道は狭く状態は悪い。
積もった枯れ葉のお陰でなんとか進めているが、水分を多く含んだ土の上はかなり歩き難かった。しかも、盛んに使われていない道は、枝や蔦で塞がれそうになっている。先を歩くレオンハルトが露払いをしてくれていなければ、まともに進むことも難しかったに違いない。
森の中は日差しが届かないからか、想像よりも激しい暑さはなかった。だが空気は湿っていて、じっとりと纏わり付く。まるでぬるま湯に溺れているような心地だ。深く息をしてもなお、息苦しい。時々、耳元を掠める虫の羽音に不快感が増す。
額に浮かんだ汗が流れ落ちて、目に入りそうになったのを、手の甲で拭った。
ヴィント王国に来てから色々な場所を巡って、旅慣れたつもりでいたが、あくまでも『つもり』は『つもり』。僕はまだ、世間知らずのガキの領域を抜け出せてはいなかったようだ。
自嘲の気持ちを、溜息と共に吐き出す。
体力のある僕でこの状態なのだから、小柄で細身なナハトは大丈夫だろうか。
肩越しに振り返ると、ナハトの旋毛が見えた。
ナハトは斜め下に視線を固定したまま、無言で歩いている。弱音一つ零していない彼だが、目は虚ろだ。気のせいでなければ、顔色も悪い。
「ナハト、大丈夫ですか?」
声をかけると、ナハトは視線を僕へと向けた。
大丈夫な訳あるか、見て分かるだろう。喋らせて余計な体力を奪うな。
ナハトは口を開くことはなかったが、目が彼の心情を雄弁に語る。ギロリと睨まれ、降参とばかりに僕は前を向いた。
歩く順番を変わろうと申し出ようとしたが、止める。おそらくその気遣いは、ナハトの矜持を傷付けるからだ。
普段は暑いだの面倒だの愚痴をこぼすのを躊躇わないナハトが、何も言わないのは、同行すると自分から言い出した責任を理解しているからだろう。
足手まといにならないよう、最大限の努力をしている彼に、手助けはきっと無用だ。
暫し無言で歩いていたが、前を歩くレオンハルトが足を止める。
彼は手振りで、僕達に止まるよう指示した。頷くと、レオンハルトは一人で先に進む。だが、さして時間をかけずに戻ってきた。
「合流地点ですが、見張りはいないようです」
レオンハルトの言う通り、少し歩くと太い道に合流した。だが辺りに人の気配はない。どうやら見張りは、森の入口にしか配置していないようだ。
警戒心が薄いのか、本当に後ろ暗いことがないのか。それとも、極力森には近づきたくないのか。おそらく最後だろう。森の周辺には、近くの村人の姿すらなかった。いっそ不気味なほどに人気がない。それこそが、この森に何かあるという証拠に思える。
それからどれだけ道を進んでも、人の気配はない。
泥濘んだ道には足跡もなく、数日の間、人の行き来がないことを物語っている。やがて少し開けた場所へとたどり着き、レオンハルトは足を止めた。
「ここで休憩しましょう」
周囲を見回した後、レオンハルトはそう提案した。
折れた太い枝を示した彼に従い、素直に腰を下ろす。だがナハトは首を横に振った。
「今座ると、立てなくなりそうだ」
レオンハルトは無理には座らせようとせず、ならば水分だけでもと水筒を渡す。ナハトは短く礼を言い、木の幹に凭れかかった。肩で息をしつつも呷ったナハトは、人心地ついたとばかりに深く息を吐き出す。
目を瞑って天を仰いだ格好のまま、十数秒停止していたナハトは、よし、と小さく呟いて目を開けた。
「オルセイン殿、少し教えて頂きたい」
「はい。自分にお答えできることでしたら」
「土砂崩れが起こりそうな地形は、この先にもあるのだろうか? 自国の地形に疎いというのは恥ずかしい話だが、貴方の見解をお聞きしたい」
「ない、とは言い切れませんが可能性は低いですね」
レオンハルト曰く。土砂崩れが起こる可能性が一番高い区域は、とっくに抜けたらしい。確かに合流地点を過ぎた辺りは道が狭まり、沿うように急な斜面があったが、今はほぼ平地。木の根や折れた老木に道を阻まれることはあるが、土砂で通れない場所はない。この先も同じ地形が続くのだとしたら……。
「ならば、フィリップの言う『土砂崩れで道が塞がれた』は、やはり嘘か」
ナハトは頷き、独り言のように呟く。
今までは推測に過ぎなかったものが、自分の中で確信に変わった様子だった。
「いよいよ、病人の隠蔽説が濃厚になってきたな」
ナハトは喉の奥で笑う。だがその表情は、愉しげという表現からかけ離れたものだ。眉間には深い皺が刻まれ、眇められた目は苛烈な怒りに燃えていた。
「病人を隔離するのはいい。病を蔓延させないための必要な処置だ。だが、こんな森深くに閉じ込めて、物資を送っている様子すらないとはどういう事だ。そのまま死ねと言っているようなものだろう。汚れた書類を破り捨てるように、民を見殺しにするなど上に立つ者のする事か……!」
ナハトはやり場のない怒りを発散するように、握り締めた拳を木の幹に叩きつけた。上に止まっていたらしい鳥が、枝葉を揺らして飛び立つ。
「ナハト、落ち着いてください」
周辺に人気がないとはいえ、あまり大きな音をたてるのは好ましくない。
僕が窘めると、ナハトは『すまん』と短く謝罪した。むしろ、こちらの方が謝りたいくらいだ。ナハトが民を大切に思っていると知りながらも、怒ることさえ許さないなんて。
「ガキのように癇癪を起こしたところで、事態は何も変わりはしない。それくらい分かっているつもりだったんだが。私もまだまだ未熟なガキだな」
ナハトは自嘲の笑みを浮かべた。
しかしレオンハルトは、そんな事はないと頭を振る。
「ナハト様の怒りの大きさは、そのまま民への愛の深さでしょう。貴方様はきっと、良い統治者になられます」
「私はそんな器ではないさ」
自分のことのように、民のために怒れる。それはとても稀有な事なのだろうと、僕も思った。ナハトを偏屈王子などと呼びながらも、民が彼のことを語る時は、誇らしさや慈愛が滲む。民を愛し、民に愛されるナハトは、きっと良い王になるだろう。本人にその気がまるでないのが、惜しいところだが。
「己の感情さえ制御できない、ただのクソガキだ。……どんな時でも冷静に振る舞える貴方が羨ましい」
尊敬と憧憬の混ざった視線を向けられ、レオンハルトは軽く目を瞠った。切れ長な目が、戸惑いを表すように数度瞬く。
珍しい反応だと思った。レオンハルトならば、さらりと軽く躱すのだろうと、考えていたからだ。嫌味なく謙虚に、勿体無いお言葉です、と。
しかし僕の予想を裏切って、レオンハルトは僅かに眉を下げて、苦笑いを浮かべる。
「自分はそんな風に仰って頂けるような、立派な男ではありません。勿論、なるべく冷静であるよう心がけてはおりますが、取り乱すことだってありますよ」
「貴方が?」
唖然とするナハトに、レオンハルトは頷く。謙遜かとも思ったが、苦い表情から察するに嘘ではなさそうだ。
しかし、俄には信じ難い。僕が知るレオンハルトという男は常に冷静で、余裕がある大人の男だ。どんな事態があれば、この男が冷静さを保てなくなるというのか。
「大切な人の危機に動揺するのは、誰だって同じです」
眦を緩めたレオンハルトは、柔らかな声で呟く。
そういえば、国王の前で溜息を吐いたと言っていたが、もしやそこに繋がるのか?
理想の大人であるレオンハルトを身近に感じる微笑ましい話に、ナハトは少し嬉しそうだが、僕は、何かが引っかかってそれどころではなかった。大切な人、という表現に、何故か胸中がざわつく。この男が特定の誰かを指し、『大切』だなんて表現をする事が意外だったのかもしれない。きっと、そうだ。
正体不明の胸騒ぎを散らすため、僕は軽く頭を振った。
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