とんち小坊主・地獄変
思いついたら、どんなに忙しくても、連載放ったらかしにしてでも書きたくてたまらなくなる。しかもいつも通りのこのテの作品……どうもすみません。
「じつはの……どうしても、この屏風の虎を退治して欲しいのじゃ……」
とんち小坊主で名高い逸球を前にして、将軍・善光は、疲れたような声で打ち明けた。
その寸前まで余裕ありげな笑みを浮かべ、様々な嫌がらせを仕掛けてきていただけに、逸球は信じられない思いで、将軍の顔を見つめた。
「既に被害者は数十人に上っている。犠牲者のほとんどは、虎を退治ようとした侍じゃが、家来衆の中には、恐ろしがって城を出たいと言い出す者も多い。このままでは政は立ちゆかぬ……」
(ふふん。わたしを試そうとしているのですね……)
逸球は、裡で呟いた。将軍は自分を、亡き者にしようとここに呼んだに違いない、と、隣に座る恵慧……和尚様は仰った。その理由を恵慧は言わない。子供である自分が、まだ知らないと思っているのであろう。
逸球は高貴の血を引くがゆえに、幼くして闇黒寺に預けられたのである。だが、その気になれば、将軍の座をも揺るがす血筋。逸球の素質を見定め、早いうちにその芽を摘もうと考えるのは、権力者として当然のことであった。
屏風の虎が人を襲うなどあるはずがない。おそらく、虎退治が出来なければ、難癖を付けて殺してしまおうと考えているのであろう。
だが、逸球は不敵に笑って立ち上がった。
このような難題は、何度も切り抜けてきた。それが「とんち小坊主」として、京の町に名を轟かせた逸球のプライドでもあったのだから。
「将軍様、分かりました。その虎、私が捕獲してご覧に入れましょう」
「おお……おお!! やってくれるか!?」
将軍の顔がぱあっと明るくなる。演技にはとても見えない。さすがは一国を支配する古狸。
おそらく腹の中では、出来るわけがないと笑っているに違いない。
「無論です。では、縄とたすきをお貸しいただきたい」
「……逸球よ。まさか、素手で虎を捕まえるつもりか? 槍や刀、いや、ここにはもっと強力な武器もあるのだぞ?」
「このような虎に、なんの武器が要りましょう」
そうこうするうちに、たすきと縄が届けられた。
逸球は、袖をまくり上げてたすきを掛け、縄を携えて叫んだ。
「さあ。準備は出来ましたゆえ、その虎を屏風から追い出してくだされ!!」
「…………何を言っておるのじゃ?」
勇ましげに叫ぶ逸球を、将軍をはじめ、うちそろった家臣衆がぽかんとした顔で見つめた。
「ですから、私が虎を捕まえますゆえ、屏風から追い出して……」
「そのようなことが出来るのなら、誰も苦労はせぬ……」
将軍は、心底がっかりした様子でうな垂れた。その目には涙さえ浮かんでいる。
「え……? と、仰せられますと?」
「これ、螺川 真衛門。この屏風を槍で突いてみよ」
「はっ!!」
進み出た一人の屈強の侍が、手に持った槍で屏風を突いた。
屏風は、あっという間に貫かれ……なかった。
突き出した瞬間はたしかに槍が刺さった、と見えるのに、まったく傷一つつかず、槍を構えた真衛門の方が、かえって弾き飛ばされてしまったのである。
「ななななな……何ですこれは!?」
「だから、お主を呼んだのじゃ。この屏風は、槍で突こうが刀で切ろうが、傷一つつかぬ。火の中に投げ込んでも燃えぬ。しかも、海へ流そうと、地中深く埋めようと、翌朝にはいつの間にか、ここへ戻ってきておるのじゃ……」
疲れ切った様子の将軍の目の下に、濃い隈までできていることに、ようやく逸球は気付いた。
「そして、夜な夜な虎は屏風を抜け出し人を喰らう……無論その虎も、捕まらぬ。真衛門、見せよ」
将軍が螺川真衛門に命ずると、真衛門は自分の袴をまくり上げた。なんとそこには、三本の爪による傷跡が、生々しく残っていたのである。
「真衛門とて、精鋭の武士。妖しの獣の一頭や二頭に後れをとるわけにはいかないと、一人で立ち向かった結果がこれじゃ……」
「虎は、屏風から出てきてもなお、槍も刀も受け付けなかったのでございます。虎は私を殺さず、悠々と部下を喰い殺して、私の目の前で屏風に戻り申した」
真衛門は膝をつき、悔しそうに呟いた。
これ以上大きな騒ぎにならぬよう、将軍・善光は対抗策を考えた。名うての武芸者、陰陽師、高僧、猟師、本物の虎までもが秘かに集められ、屏風の虎に対抗したが、悉く喰い殺されてしまったというのである。
「だが、城の中で済んでいるうちはまだ良かった……昨夜はついに、城下の一般民にまで被害が出てしまったのじゃ。これ以上はもう……放ってはおけぬ」
「いえ、あのその……マジで?」
「殺されたのは、婚礼を控えた若い娘であったのだ。本人はもちろん、親族や許嫁の無念を思うと、儂の胸は張り裂けそうじゃ……もはやこの城を封鎖し、虎に明け渡す以外に道はない、と覚悟を決めた時、なんでもとんちで解決するというお主の噂を聞きつけ、来てもらったのじゃ。
いくつか試すようなマネをさせてもらったが、その頭の切れは噂通り、いや、噂以上であった。
すべて楽々と切り抜けた上、何と素手で虎を捕獲してみせるという……さすがと言う他はない。
どうか頼む。この虎を退治してくれい……」
将軍は高座からすっと降りると、逸球の前に跪き、両手をついて頭を下げた。
「将軍様は、民にまで被害が出たことに、大変心を痛めておられる。逸球殿、なにとぞ、なにとぞ、お願いいたす」
真衛門と呼ばれた侍までもが、両手をつき、地に頭をすりつけるようにして言う。
逸球はすでに完全にびびっていた。
自分はただの子供なのだ。このような妖しの虎を退治できようはずが無い。
だが、国の最高権力者がただの子供に頭を下げているのだ。先ほど見得を切って見せた手前もある。今更できないなどと言えるわけがない。
いつまで経っても面を上げようとはしない、二人の大人を前に困り果て、逸球は師に助けを求めた。
「えーと、あの……和尚様……いかがいたしましょ……あれ? 和尚様?」
「恵慧僧正殿は、急用を思い出されたとかで、今し方お帰りになられましたが?」
「えッ!? マジ?」
「ええ。マジで」
太刀持ちの小姓が、にっこりと微笑んで頷いた。
こうなっては、どうしようもない。取り敢えず引き受けて、準備をするとか何とか誤魔化して、この場から去らねば、恐ろしいことになる。
「わわ……分かりました。必ずこの虎、退治してご覧に入れましょう」
「おお!! 引き受けていただけるか!?」
「さすがはとんち小坊主。お願いいたしたぞ!!」
将軍と真衛門はもとより、周囲の家臣群までもが顔をほころばせ、喜び合った。
「つつ……つきましてはっ!!」
逸球は甲高い声で叫んだ。恐怖で声が裏返るのを止められなかったのだ。
「うむ。なんじゃ?」
「虎を捕まえるための準備をいたしたく……一度、寺へ戻ることをお許し願えませんでしょうか?」
心配そうな表情に戻った将軍は、それを聞いて、ほっとしたように頬を緩めた。
「そのようなことか。いやいや、心配は要らぬ。先ほども申したように、この城にはあらゆる武器、道具、材料がそろえてある。南蛮渡来の爆薬までもが用意してある。それでもここに無いものがあれば、責任を持って用意させよう」
「ででででは……その武器を一度吟味いたします故、虎との勝負は明日、ということに……」
「そうか……だが、それでは今夜また、犠牲者が一人出ることになる。そのようなことは許すわけに……そうか……うむ。あい分かった。今夜は、儂がこの部屋に残ろう」
それを聞いた真衛門が、血相を変えて立ち上がった。
「しょ……将軍様!? それはいけません!! ならば拙者が残りまする!! 拙者は一度死んだ身。虎を倒すためとあらば、この命、要りもうさん!!」
「ならぬ!! 儂はこれ以上、家臣も、民も、失いたくないのじゃ!!」
「将軍様……なんとお優しい……」
抱き合うようにして泣き崩れる二人を前にして、逸球はそれ以上、何も言えなくなってしまった。
「あの…………分かりました。今夜、退治いたします」
「まことか!?」
「逸球殿!! ありがたい!!」
「えーと。あのその、で、武器とか道具はどこに……」
「すべて、下の階に用意してござる。我々は今宵、城下の宿で夜を過ごすことにしよう。お主のとんちの邪魔になろうからな。明日の朝、戻るゆえ、しかと頼んだぞ?」
「いえあの、ちょっと待って」
だが、逸球の声は、安堵して沸き立つようにしゃべり始めた家臣団の声に掻き消され、将軍の耳にも、誰の耳にも届くことはなかった。
話が決まって一刻も経たないうちに、城から一切の人間が消え失せた。
将軍、将軍の家族、女中衆、家来衆はもちろん、お庭番衆にいたるまで、全く人気の無くなった城の大広間に、逸球は一人取り残されたのである。
遠くで鐘の鳴る音がした。
「あ……そうだ……武器……」
予想もしていなかった展開に、しばらく呆然としていた逸球であったが、ようやくよろよろと立ち上がった。
とはいえ、多少頭が切れるだけのただの子供が、どんな武器を持とうとも、虎に敵うはずはない。ましてやその虎は一切の武器を受け付けない、妖しの虎なのだ。あれほど強そうな真衛門も深傷を負わされたというのに。
思考停止していた逸球は、そのことに思い至って震え上がった。
このままでは確実に殺される。
無力な子供に出来ることは、逃げるか、隠れるか、どちらかしかない。
しかし、虎が城から出ないようにと、正面の大門は外から封じられている。
「かか……隠れるんだ……虎の気付かないような場所に…………そうだ!!」
逸球は畳を持ち上げ、その下に潜り込もうとした。
灯台もと暗し。屏風のある部屋の床下である。普通は盲点だ。だが。
「そうだ……野獣は臭いで獲物を探す。こんなところに隠れても無駄だ」
次に逸球は、女中衆の布団部屋を探し当てた。
「木を隠すなら森の中。この布団の中であれば、女中衆の臭いに混じってしまい、私の臭いは嗅ぎつけられまい」
だが、数十枚も積み重ねられた布団に潜り込んで数十分。
「あ、暑いッ!! ダメだ……これでは……」
命が掛かっているのだ、暑いくらいはいくらでも我慢しよう
だが、こう暑くては汗をかく。大量に汗をかけば、いくらなんでも虎がその新鮮な臭いに気付かぬはずはない。
逸球は布団部屋を飛び出し、広い城を一人駆け回った。
「どこかッ!! どこか隠れるところッ!! 助けて和尚様ッ!! 母上様ッ!!」
日が暮れかかろうとしている。
もう時間はない。
恐怖の極限に達した逸球は、尿意を催して便所へ飛び込んだ。
「はぁ。はぁ。うう、臭い……おえ」
息せき切って駆け込んだ便所。思わず深呼吸してしまった汲み取り式便所の悪臭に、逸球は吐き気を覚えた。先ほど、とんちで得意げに平らげたご馳走(*ホントのとんち話参照)が、胃からすっかり逆戻りだ。
ひとしきり嘔吐いた逸球は、涙目のままで立ち上がった。
「こんな……どうしてこんなバカな事に……そ、そうだッ!!」
目の前には黒くぽっかりと空いた便所の穴がある。
そこから立ち上る、目に沁みるアンモニア臭。そうだ、ここならば……激烈な悪臭の上に、中は恐怖を誘う真の闇だが、命を無くすよりはずっとマシだ。
「えいッ!!」
逸球は覚悟を決めて飛び込んだ。
*** *** *** ***
翌朝。
「見事じゃ……じつに見事。まさか、虎をこのような方法で退治するとは……」
将軍・善光は、感服した様子で腕組みをしている。
屏風に描かれた虎は、朝になっても戻らず、白く抜けたままであった。
妖しの虎は、臭いには誤魔化されず、正確に逸球の居所を探し当てたらしい。便所の戸には、恐ろしい爪痕が刻まれていた。
肥ツボの中に飛び込んだ虎は、汚物まみれになったようであった。あらゆる物理的攻撃を無効化する虎も、糞尿が分解されて生じるアンモニア……つまりアルカリ性の液体に浸かり、顔料の結合が解けてしまっては、虎としての姿を保てなかったのであろう。糞尿の中には、虎の破片と思しき紙切れが、いくつか落ちていた。
「逸球殿は、自らを犠牲にして、虎を退治してくれたのです……なんと尊い」
手を合わせ呟く真衛門の目には、涙が光っている。
恐怖の表情を貼り付けたまま、逸球は肥ツボの中で息絶えていたのであった。その喉には、虎の牙の痕がくっきりと残っていた。
希代のとんち小坊主・逸球の最期であった。