書庫での会話
再び、書庫を訪れた雪橋悠。その書庫の主、猪野尾忠彦との会話。
バラリバラリとページをめくる音。
つけっ放しのiMacから、HDDの低い唸り声。
エアコンはたまに思い出したように大きな風を送る。
空気清浄機もしかり。
ごとんごとんと、洗たく機がたまに派手に鳴動する。
コンロにかけたケトルが吹き上げる蒸気の音を微妙に変えた。
それを聴いて、 猪野尾忠彦 は一人がけのリラックスチェアから腰を上げる。
途中まで用意したドリッパー。紙フィルターの中をコーヒー豆で満たし、火から下ろしたばかりのケトルからゆっくりとお湯を注ぐ。
乾いたコーヒー豆が、初めて湯に浸される瞬間の芳香が、彼は好きだった。
しばらくそうして、湯を注ぎ、香りを楽しむ内に、800mlのコーヒーサーバーが一杯になる。
「おい、コーヒー飲むか?」
「あ、お願いします。」
シングルベッドの上でねっ転がってモデルガン専門雑誌を読んでいた雪橋が答えた。
「猪野尾さん、この次の号ってないんですか?」
「その号はボルトアクションライフルが気になって買っただけだからないな。定期購読してたわけじゃない。」
「え〜。連載コラムの続きが読めないじゃないですか。」
「書籍にまとめられてないのか?」
「さあ? ぼくは知りませんよ。」
「まあ、そうか。ほらコーヒー。」
「ありがうございます。って、湯飲みですか。」
雪橋は差し出されたコーヒーを受け取るも、把手がない。入れ立てのコーヒーは湯飲みでもつには少々熱かった。部屋の真ん中に横たわっている、背の低い白木の本棚にひとまず置いておく。
「うちに置いてあるマグはオレ専用のみだ。」
言いながら、自分は把手つきのマグカップで優雅にコーヒーを一口すすって書斎机に置いている。
「なんで湯飲みやグラスは5つやら6つもあるんですか?」
「ホームセンターで安かった。」
「猪野尾さん、物買う基準おかしいですよ。」
「まあ、基本衝動買いみたいな物だからな。」
「本もそんな感じですか?」
「タイトル買いか表紙買いだな。大体この分野のこういう本っていう曖昧な要望が自分の中であったりするが、関係のない本も結構買うからな。」
「銃器関連だとあと何があります?」
「その雑誌のバックナンバーが5,6冊。号はとびとびだったと思うが。後は銃器のモデルとちょっとしたテキストがある辞典みたいなのだけだな。」
「射撃技術の本とかあります?」
「ないな。日本語で出てるのあまりないんじゃないか? 最近その手のコーナーをあまり見に行ってないから知らんだけかもしれん。銃器運用の戦術の歴史とか、文化的影響みたいな話の本はどっかに埋まってると思うが。なんだ? 撃ってみたいのか?」
「そうですね。猪野尾さんは気になりません? てか撃った事あります?」
「撃った事はまだないな。確かに一度その感覚は試してみたい。生物を撃ちたいとは思わんが。」
「その割に、狩猟とか、マタギとかの本が結構ありますね。」
「あれは文化に対する興味みたいなものだよ。あと、生物の生態とかな。 実際に自分でやりたいとは思わんかな。あれは大した苦行だと読んでいるだけで感じる。それでこそ体験できる感覚とか、何か拓かれる知覚というのはあるのだろうけれど、今からそれをしたいとはちょっと思えない。 だから書籍のなかでの体験にとどめておきたいのさ。あれらは民俗としても面白いし、精神性に触れるのもなかなか魅力的だ。」
「精神性ですか。」
「そう。他の生物を殺傷して自分たちが生きていくという事を、その人たちがどういう形でとらえていたかとか。特に、動物を擬人化して、人格を与えていた文化のなかでの折り合いのつけ方は実に興味深いよ。」
「なんだか難しそうですね。」
「うん。難しい。何しろ世界の構造が違う。」
「世界の構造。」
「世界観って言った方が分かりいいのかね。その世界観の根幹にある一番太い幹が、まったく我々と違うのだと思うのだよ。」
「…理解できないってことですか?」
「理解とか共感とかはたぶんできると思う。でも彼らと同じ世界は生きれない。前に紹介したことあったっけか? 『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』」
「ああ、新書のやつですね。読みました読みました。」
「うん。ああいう、世界観の絶対的なギャップがどこかにあるのだなと、思うわけさ。」
「なんだか難しい事ってだけはわかります。」
「まったく理解してないってことじゃねぇか。」
「いきなり『世界の構造』とか言われたってわかりませんって。」
「まあ、そうだなぁ。」
ふーっと、息を吐くと、猪野尾は机に置いていたコーヒーを一口。そしてまた、視線を本棚にさまよわせる。
「今、教授と話してる方が愉しいとか思ってます?」
「多少ね。お前は俺の間違いを指摘してくれないし、俺の視点を深めるための指針も与えてくれない。」
「高校生にそんなもの求めないでください。」
「何を言っているんだい、君は。何気ない一言が取っ掛かりになる事だってあるじゃないか。」
「そんなミステリー小説のお約束展開みたいな事そうそうありませんよ。」
「そうだなー。」
ぱらりぱらりとページをめくる音が静かに響く。たまにマグカップが木を打つ音が続く。
「ああ、そういえば。こないだ鴨屋来てたんだって?」
「ええ。ちょうどすれ違いになったみたいですね。アヤメさん曰く。」
「そうか。早蕨のやつ元気してるか?」
「相変わらずバカやってますよ。」
「そうか。そいつぁよかった。相変わらず愉快にやってんだな。」
「なにか伝えますか?」
「いや、特に伝言はないが…。まあ、あれだな『受験頑張れ』とでも伝えといてくれ。」
「社交辞令感がはんぱないですね。」
「心からの言葉なのだがな。」
「いやぁ、だってそれ、たまたま路上で知り合った相手が受験生だって知っても伝える様な言葉じゃないですか。」
「だからといって伝えたらいかん事もなかろう。」
「まあ、そうですけど。もっと言ってやる事ないんですか、あいつに?」
「あ〜ん? 『受験終わったら一杯やろう』とかか?」
「そういうのの方がいいですね。まだ他人行儀な気がしますが。」
「ならなんだ? 『とっておきの日本酒のませてやるよ』とかか?」
「あ〜親密さが増した気がします。親戚のオジサンの激励みたいですけど。」
「やかましいヤツだなお前は。」
きっとこの人中で、まだ早蕨秀弥は友人のままなのだろう。少し手のかかる、弟のような友人。以前のまま、何も変わらず。その変化の無さを嬉しくも思い、また寂しくも思う。早蕨秀弥が何をしたところで、猪野尾忠彦の中にひっかき傷一つ残さないのであろうか? そう思うと、少し寂しい。まあ、彼がそんな深刻な事をしでかしたわけではないのだが。ただ彼が、去年の終わりから、この書庫に訪れなくなった事を、猪野尾はなんとも思っていないのだろうかと、雪橋悠は思うわけである。
「ところで猪野尾さん。」
「なんだ?」
「とっておきの日本酒ってどんなのですか?」
「てめぇーが食いついてどうする。」
「いえいえ、後学のために、ぜひ教えてくださいよ。」
「あ〜。オレのとっておきじゃたかが知れたとっておきだがな。イチノクラの姫膳って酒だ。」
「なんかエロい名前ですね。」
「据膳じゃねぇ。」
ここまでお読み下さりありがとうございます。
研究のため、意図や意味の読み取りにくい箇所がありましたらお知らせ頂けますと助かります。
また、前後の展開と矛盾する設定・表記等お気づきになられましたらご指摘いただけますと助かります。